願いがかなう森
「ママ!」
「こら、危ないじゃないか」
凜ちゃんが、帰ってきたばかりのママに飛びついたら、ママの隣にいたパパに叱られて、引きはがされてしまいました。
ここは、三歳の凜ちゃんのお家です。凜ちゃんの弟を産むために入院していたママが、帰ってきたのです。
「ほら、凜の弟、翔太よ。可愛いでしょう」
ママがにっこりしてかがんで、抱っこしていた赤ちゃんを、凜ちゃんに見せてくれました。
可愛い?これが?しわしわだよ?
凜ちゃんは、可愛いとは思わなかったけど、お家に来ていたおじいちゃんもおばあちゃんも、可愛い可愛いと言うから、なんとかこくんとうなずきました。
翔太は、それまで凜ちゃんのものだった、ママもパパもおじいちゃんもおばあちゃんも、全部取ってしまったみたいでした。
翔太くん。翔太。翔ちゃん。凜ちゃん。
翔太くん。翔太。翔ちゃん。凜ちゃん。
それから、こんな風に言われるようになりました。
お姉ちゃんなんだから、もう少し待ってね。
お姉ちゃんなんだから、がまんしてね。
お姉ちゃんなんだから。
お姉ちゃんなんだから。
その度に、凜ちゃんは、お姉ちゃんなんかに、なりたくなかったのにと思いました。
だけど、翔太くんがおとなしくなって眠ってくれると、ママが絵本を読んでくれるから、凜ちゃんはがまんすることができました。
「凜」
ママが凜ちゃんを呼びました。
翔太が寝たんだ!
凜ちゃんは、いつもの絵本を持って、ママのところへ行きました。
「あら、またこれを読むの?」
ママは、絵本を受け取ると、ちょっと呆れたような、でも優しい笑顔で凜ちゃんをひざの上に乗せてくれました。
その絵本は、ママが結婚するときに一緒に持ってきたもので、深い緑の森のイラストに、金色でタイトルが刻まれていました。
『逆さ虹の森』
あるところに、逆さ虹の森と呼ばれる森がありました。
その森の奥深くには、ドングリを投げ込んでお願い事をすると、願いが叶うと言われる、ドングリ池がありました。
近くの村に住む人間たちは、お願い事を叶えてもらいたくて、その池を目指しましたが、たどり着ける人はいませんでした。
なぜなら、森の真ん中には深い深い川が流れていて、その川に架かる橋は、今にもくずれ落ちそうなオンボロのつり橋一つだけだったからです。
凜ちゃんは、この絵本が大好きでした。
お話の意味はよくわからなかったけど、つり橋の手前で歌を歌っているコマドリは、青いお腹とオレンジ色の顔がきれいだったし、案内役の狐のしっぽはふかふかに描かれていて、思わず手を伸ばしてさわりたくなるほどでした。
ある日のこと、凜ちゃんがリビングに入っていくと、翔太くんが床でひとりで遊んでいました。ママは、キッチンで洗い物をしています。
お座りができるようになった翔太くんは、ふっくらと丸くなって、凜ちゃんにも可愛いと思えるようになっていました。
「翔太、何しているの?」
と言って近づいた凜ちゃんは、翔太くんの手元を見て驚きました。大好きなあの絵本が、しわくちゃになった上に、よだれでベチャベチャでした。
「返して!」
思わずうばい取ったら、絵本が翔太くんのほっぺたに当たってしまい、火がついたように泣きだしました。絵本の角が当たってしまったほっぺたには、うっすらと血がにじんでいます。
ママがハッと顔を上げ、水道の蛇口をしめてかけよってきました。
凜ちゃんは、絵本を持ち上げてママに見せようとしました。
が……
「凜!翔太に何したの!」
ママの剣幕に驚き、凜ちゃんは目を見開いて立ち尽くしてしまいました。
ママはそんな凜ちゃんには見向きもせず、翔太くんをあやしています。
どうして凜が怒られるの。
悪いのは翔太なのに。
凜ちゃんの目から涙がこぼれ落ちましたが、やっぱりママは見向きもしません。
凜ちゃんは絵本を抱きかかえると、寝室に行って、すみっこでひとりで泣きました。
***
凜ちゃんが目を覚ますと、そこは森の中でした。
「いらっしゃい。久しぶりだなあ、人間に会うのは」
声の方に振り向くと、どこかで見たことのあるキツネがいました。
「あ!絵本のキツネさんだ!」
触ってみたいと思っていた、ふかふかのしっぽを持つ、あのキツネです。
キツネは、ピシッと居住まいを正すと、凜ちゃんに向かって恭しくお辞儀をして言いました。
「ワタクシは、この逆さ虹の森の案内役のキツネでございます。お嬢様はこの森に選ばれた、特別な方でございます。これから、ドングリ池までご案内いたしますので、一緒にいらしてください」
凜ちゃんは、何を言われたのか分からずに、キョトンとしてしまいました。
すると、キツネはフッと笑って言いました。
「僕と一緒に来て。ドングリ池まで、連れて行ってあげる」
ドングリ池。
お願い事をきいてくれる池だ!
「やったー!」
「その様子だと、凜ちゃんはお願い事があるんだね」
「うん!キツネさんは、どうして凜ちゃんの名前を知ってるの?」
「いつも会いに来てくれてたでしょ」
キツネは、凜ちゃんの名前だけでなく、パパとママと翔太と四人で暮らしていることや、ママにいつも絵本を読んでもらっていることも知っていました。
キツネと森を歩いていると、どこからか鳥の歌声が聞こえてきました。
「コマドリが、凜ちゃんを歓迎しているんだよ」
と、キツネが教えてくれました。
キツネが顔を向けた方を見ると、そこには青とオレンジのきれいな鳥がいました。
コマドリは歌いながら、凜ちゃんとキツネの後をついて来ました。
凜ちゃんは、コマドリの軽快な歌にあわせて、スキップするように歩きました。乾いた枯れ葉を踏むサクサクという音に、踏んづけて折れる小枝の、パキリポキリという音がアクセントになって、まるで一人と一羽の合奏のようです。
「あ、川だ」
合奏は、凜ちゃんが足を止めたことで、ストップしました。
川に架かっている橋は、絵本と同じオンボロで、とても向こう岸にたどり着けるとは思えません。
凜ちゃんは不安げに、隣のキツネを見上げました。
「大丈夫だよ。凜ちゃんは選ばれたんだから、渡れるよ」
コマドリが、サッと向こう岸まで飛んでいって、凜ちゃんを待つかのように、橋のそばの木の枝に止まりました。
凜ちゃんは、ごくんと唾を飲み込むと、恐る恐る、朽ちかけた吊り橋の上に、右足を置きました。
とたんに、橋がキラキラと煌めきはじめ、次の瞬間には新品になっていました。
「ほらね」
凜ちゃんは、ぱあっと顔を輝かせ、トタタタタと橋の上を駆けました。
逆さ虹の森、なんて不思議で楽しいところなんだろう!
ドングリ池は、川を越えて、ちょっと歩いたところにありました。
水はきれいに澄んで、池の底まで伸びた木の根や、その間を泳ぐ銀色の小さな魚の群れが、はっきりと見えます。
凜ちゃんは、池の縁に腹ばいになって、夢中でその様子を見ていました。
凜ちゃんの頭の上に、何かが乗っかりました。
池の中から水面に視線を移した凜ちゃんは、自分の頭の上にリスを見つけました。リスは、ドングリをいくつか抱えています。
「さあ、お願い事をしようか」
キツネが言いました。
凜ちゃんは起きあがると、リスが持ってきてくれたドングリを、一つ、また一つと投げ入れながら、お願い事をしました。
ママが凜ちゃんに優しくしてくれますように
パパが帰ってきたら、一番に凜ちゃんにただいまを言いに来てくれますように
お姉ちゃんをやめられますように
翔太が泣かなくなりますように
翔太がいなくなりますように
絵本が元に戻りますように
リスは、ドングリを運ぶのが楽しくなったのか、次から次へと持ってきてくれます。だから、凜ちゃんもいっぱいお願い事をしました。
でも、そんなにたくさんはお願い事が無かったので、同じ事を何回もお願いしました。
何個目のドングリを投げ込んだときでしょうか。そばで見ていたキツネが「あっ」と声を上げました。
「見て!虹だ、逆さ虹がかかった!」
キツネが指さす方を見ると、確かにきれいな虹が見えます。お椀みたいな形の虹は、上から紫、藍色、青、緑、黄色、オレンジ色、赤と、七色しっかりと見えました。
するとキツネは、またピシッと居住まいを正して言いました。
「お嬢様のお願い事は、この森に聞き届けられました。この逆さ虹が消える頃、叶えられますでしょう」
ピシッとしたときのキツネの言葉は、やっぱり凜ちゃんにはよくわかりません。またキョトンとしてしまうと、キツネがにっこりして言いました。
「お願い事、きいてくれるって」
「ほんとに?全部?」
「全部じゃないよ」
「じゃあ、どれ?」
「それは、僕には分からない。だから、楽しみに待っててね」
「うん!」
それから逆さ虹が消えるのを待つために、キツネとリスと大きな木の根本に座りました。頭上の枝では、コマドリが、来たときとは違う、穏やかなメロディーの歌を歌っています。
凜ちゃんは、たくさんお願い事をしたせいで疲れていました。キツネがふかふかのしっぽを、凜ちゃんの背中に回しました。
ふかふかのしっぽは、うつらうつらしていた凜ちゃんを、ぽふっと優しく受け止めてくれました。
***
凜ちゃんは、お家のふかふかのベッドの上で目覚めました。起き上がって目をこすって、周りを見回しました。
「キツネさん、いない」
もちろん、リスもいませんし、コマドリの歌も聞こえません。聞こえてくるのは、テレビの音と、パパとママの話し声です。
逆さ虹の森の絵本は、抱きかかえたままで、よだれでふやけたところもしわくちゃなところも、そのままでした。
ふと絵本の表紙を見ると、森しか描かれてなかったはずの表紙に、お椀みたいな逆さ虹が現れていました。
凜ちゃんはびっくりして、リビングに走りました。
「ママ!絵本に虹が!」
「あら、凜ちゃん、起きたのね。さっきはごめんね」
そう言うとママは、ぎゅっと凜ちゃんを抱きしめてくれました。
「キツネさんに会ったの」
凜ちゃんが言うと、パパが
「夢でも見たかな」
と言って笑いました。
「夢じゃないもん。逆さ虹、見たもん」
凜ちゃんはそう言って、パパとママに絵本を差し出しました。
あれ?虹、なくなってる。
絵本の表紙から、お椀みたいな虹は消えて、緑の森と金色の文字だけに戻っていました。
「絵本と一緒に寝たから、そんな夢を見たんだね」
とパパが言いました。
夢じゃないのにな、と凜ちゃんは思いましたが、上手く説明ができません。
「そういや、翔太の顔見てなかったな」
パパがネクタイを緩めながら立ち上がり、襖を半分だけ占めた和室に向かいました。
凜ちゃんの頭の中に、ふと、ピシッとしたときのキツネの言葉が、浮かびました。
「お嬢様のお願い事は、この森に聞き届けられました。この逆さ虹が消える頃、叶えられますでしょう」
どのお願い事、きいてくれたのかなあ。
凜ちゃんは、絵本のページをめくりました。
緑の森の中に、歌が上手だった色鮮やかなコマドリがいます。ドングリをいっぱい運んでくれたリス、ふかふかのしっぽをクッション代わりに貸してくれたキツネ。
そして、凜ちゃんの知らない、ほっぺたに小さなばってんがついた薄茶色の小ウサギ。
ありがとうございました。
・虹が幸運の兆しであるとすれば、「逆さ」虹は何の兆し?というところから考えたお話です。
【答え、のようななもの】
・凜ちゃんの願い事の中には、複数の願い事が叶うものが、一つあります。
その願い事が叶えられた結果、絵本の中に『凜ちゃんの知らない、ほっぺたに小さなばってんがついた薄茶色の小ウサギ』が、加わることになります。
逆さ虹の森に取り込まれ、現実では行方不明、といったところでしょうか。