遠い冬の日 溶ける灯り
「ようやく思い出したよ。冬に入るコタツがさ、大好きだったんだ」
幾重にも並んだ飛行機雲が遠くに見えた。
他の雲1つない夜空。そこに浮かんだ三日月の傍に、美しい直線を描きだしている。
満天の星空の下で、夜を忘れるほど嫌なくらい世界が明るく見えた。
直線の白い線は、まるで明日の朝日に向かっているように、遠く、遠く、肉眼で見えなくなるまで続いていた。
「子供の時の思い出さ。窓から見える外は雪景色でさ。俺はコタツに入ってんだよ」
椅子に腰かけた男が語る。
男の足もとにはランタンが光っていた。辺りを覆う漆黒の夜の世界に人工的な光を産み出している。
ゆらゆらとしたランタンの灯りがなぜか心地よい、意味のない安心を与えてくれた。
「とても暖かくて眠そうになるんだけど、気づいたら家族がみんなコタツに入ってるんだ。下らないテレビ番組なんて見ながらさ、みんなで笑ってる」
ふいに風が部屋に吹き込んでくる。冷たい冬の風だ。ランタンの灯はさらに大袈裟に左右に動く。
男がいるこの建物には屋根がなかった。屋根どころか壁すらもボロボロに崩れかけている。
「コタツの上には豪華な食事も並んでてさ、家族で食卓を囲んでるんだ。ケーキなんかもあって、母親が切り分けて配っている。なんで皆はあんなに笑ってたのか、なにが楽しかったのか今じゃもうわからないが」
男の目の前にはもう1つの椅子があった。
そこには女性が座っている。まだ若い、長い黒髪が印象的な人だった。
満天の空を見つめながら、男の話しになにも答えず、ただ静かに聞いていた。
ふいに男がポケットからマッチ箱を取り出す。
パチッと短い発火音が部屋に響き、何時から咥えてたのかもわからない煙草に火をつけた。
「宝物だったんだ。間違いなく、俺の宝物だった。あの時は気付きもしなかった。……あれが”幸せ”だったんだろうな。なんで、なんでもっと大事にしなかったんだろう。宝物だったのに」
男の口から冬の吐息と共に白煙が辺りを漂う。銘柄はラークだろうか、懐かしい香りが古い記憶と余韻を残した。
「今さら思い出したよ。本当に今さらだけど……だけどよかった……思い出せてよかった。俺にも確かにあったんだ。宝物といえる記憶が」
まだ長く残る煙草に、もう口をつけようと男はしなかった。彼の目からは涙が零れたのが見えた。
彼はずっとさまよっていたのだ。
廃墟の中で、冬の星空の下で、思い出を探して。
「大丈夫、貴方は思い出した。皆に笑って会いにいけばいい。貴方の宝物を持って」
夜空を見上げていた女性は男を見つめ直す。そして優しく呟いた。
またランタンの灯が揺れる。その灯がなぜか意味のない安心を与えてくれた。
「ありがとう、皆を随分待たせたようだ。」
男はランタンに手を伸ばす。カチッという機械音がしたあと、ランタンに照らされていた灯りは消え去った。そして静寂が辺りを支配した。
月明かりだけが廃墟を照らす。
男が座っていた椅子の下には、火のついた煙草が地面に転がっている。
そこに男の姿はすでに見当たらなかった。
彼が消えたのを見届けたあと、女性はまた夜空を見上げる。
彼女の白い吐息が、澄んだ冬の世界へと溶けていった。