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後編

気がつくと私は一番隅の座席に腰を下ろして眠っていた。床は赤黒い染みでまだら模様になっている。その床の染み1つ1つが私を見ているような錯覚がする。いや、現に乗客の肉塊が首を揃えて私の顔を覗き込んでいたのだ。私は床とだけ睨み合った。もし彼らと目を合わせたら、きっと私は魂を吸い取られ、体を奪われてしまうだろう。天井から虫のような何かの破片が散り散りになって落ちては、熱したフライパンに氷を落としたかのように床に溶けて無くなっていく。まるで床がそれらを食べているかのようだ。私は虫ケラが足元に堕ちては消滅する様子をしばらく楽しんだ。

電車はどこかの駅に停車した。同乗していた肉塊は皆どこかへ消えた。不思議に思ったのは、私が乗った駅とは様子が全く違う点だ。肉塊はいないし、鳥も飛んでいない。床は白い塗装を施され、ワックスである程度磨かれている。白と青のタイルで装飾された壁は清潔感を感じる。どうやらトンネルの中の駅のようだ。それだけしっかりした場所だが、何より暗かった。照明が切れかけているのもあるが、すでに夜だった。駅の窓から見える景色は一寸先すら見えない闇で、僅かな光を吸い込んでいるかのようだ。薄暗いホームの奥から、誰かが歩いて来る。暗いのにそれがわかったのは、その人が灯りを持っているからだった。薄桃色のパジャマを着た老婆は、手には燭台を持って静かに歩いている。燭台の蝋燭は今にも消えそうだ。老婆は私の車両のドアの前に立つと、痛む足腰を労わりながら電車に乗ろうとした。すると、どこからともなく現れた車掌が老婆を留めた。老婆は驚いた顔をしながら車掌の顔を覗き込んだ。車掌の顔は黒く塗りつぶされていて見ることはできなかった。車掌の白い絹の手袋が老婆の燭台を指差した。

「まだ早い」

老婆と車掌は消えかけた蝋燭を見守っている。もうほとんど蝋の残っていないろうそく、それが消える前の独特な黒煙。二人でそれをじっと見守った。私も思わず離れた場所から見守っていた。不思議な時間だった、まるでろうそく以外の時が止まってしまったかのような緊張感が走っていた。だがそれはただの錯覚に過ぎなかった、灯火は見守られながら、穏やかに静かに消えてしまった。老婆は燃え尽きたろうそくを愛おしそうに見つめている。おもむろに、車掌はポケットから一枚の切符を取り出し、老婆に手渡した。

「電車は隣のホームに参ります。お身体に気をつけて」

そう車掌が告げると、老婆が持っていた燭台を受け取った。老婆は切符の行き先を見ると穏やかな笑顔を浮かべ、ゆっくりと去って逝った。その後姿を見守りながら、私はなぜかこう呟いていた。

「よかったね」

 車掌が電車に戻ると、ホームに騒音が帰って来た。人とも獣とも区別がつかないうめき声があちらこちらから聞こえて来る。私の後ろの車窓を何者かが叩いている。とにかく床だけを見つめていよう、彼らの仲間だと思われたら困る。すると、私の正面の車窓からもドンドンと鈍い音が鳴り始めた。次第にその音は増え、私はまるで誰かの胎内で誰かの鼓動を聞いているような錯覚に陥った。恐怖が溢れ、私はとっさに目を閉じてやり過ごそうと考えた、だかその作戦は見当違いだった。体が宙に浮くような、もしくは水中を漂うような、不気味な自由を感じ始めた。目は開けられない。無限な虚無の世界に漂う小さな塵になった私を私が遠くから見つめていた。妙なプレッシャーを感じて吐きそうだ。私は決心して大声を出そうと、大きく息を吸う。その時、鼓動が鳴り止み、私は元の席に落ちていた。人の気配は失せて、ホームは耳をつんざく程の静寂で満ちていた。額に滲んだ脂汗を袖口で拭うと、膝に肘を乗せながら深いため息をついた。私の様子をあざ笑うかのような不快音がギギギと響き、さっき聞こえていた車掌のアナウンスが流れ始めた。

「Ж��H行キ、発車イタシマス」

大きな揺れを共に、電車が動き始めた。


 線路は続くよどこまでも、子供の頃歌ったあの歌詞がふと過ぎった。いや、実際に聞こえているようだ。私の座る窓の外、ほんの数センチのあたりから、私に言い聞かせるかのような子供たちの叫び声が。走り続ける電車の車窓に爪を立ててしがみつき、私にそのフレーズを聞かせるためだけに。電車が一度大きく揺れた。何かを轢いたのだろう。それに驚いたのか、子供の歌声は一時的に止まったが、すぐに再開した。隣に座った肉塊のどこかから正体不明の軟体が私のひざへ垂れている。私はできるかぎり自分の五感を殺した、そうするしか現状を突破することはできそうにないからだ。・・・突破? 自分が脳内で発したそんな単語に疑問を感じた。私はどこへ行くのだろう、この地獄のような電車から降りることはできるのだろうか。車窓の外の景色は理不尽なほどに移り変わる。今はあの不気味な太陽の真横を通過している、皮膚をひっくり返したような表面に血管が走っているのがわかってしまった。神様がいるならお願いだ、もう私を帰してくれ。悪いことをした覚えはないが、これからは善行を積むことを誓う。私はポケットに入っていた家の鍵を取り出し、両手で強く握り締めた、私にはまだ帰る場所があるから。鍵が手に食い込んで痛む、頬をつねるようにこの痛みで目が覚めることを期待した。頭の中が真っ白になり、文字が浮かぶ。生きたい、生きたい。混迷する意識の中を切り分けるように、車掌のアナウンスが再度始まった。

「ツギハ---かたすエキ---ねのかたす---




 目覚まし時計のようなブザー音が耳元で鳴り響いた。明らかな空気の違いを肌で感じ、私はこの世に帰ってきたことを理解した。目が覚めると同時に大量の胃液を吐き出し、咽こんだ。酷い頭痛と吐き気がするが、それごどうにも心地よいのは生きてることが実感できるからだろうか。目を丸くした看護師が慌てて走り去る。私はどこかも知らない病院でミイラのように包帯で巻かれている。清潔感のある青と白のタイル壁は見覚えがないはずなのに強い既視感を覚えた。やがて看護師が医者をつれてきた。無精ひげとメガネのくたびれた男の医者だ。

「よく帰ってきたね」

医者はそういって私の肩を叩くとぼろぼろと大粒の涙を流し始めた。それにつられて私も涙をこぼした。私の涙は包帯に吸われてなくなった。


医者がことの顛末を語ってくれた。あの日仕事帰りの私が乗っていた電車は脱線事故を起こし、反対方面を走る特急電車と正面衝突し記録的な大事故を引き起こした。乗客の生存者は指で数えきれるほど。大量の肉塊の中から私は救助された。それから私は近くの大学病院に搬送され、3回の心肺停止を繰り返しながら救命措置を受け続けた。昏睡状態が続き、蘇生は絶望的と言われていた。

数ヶ月後に退院すると、私は家に帰ることができた。しかしその時に初めて気がついた。ポケットで弄んでいた家の鍵に、ベッタリと血が付いていたことに。今でもあの電車での出来事が、夢だったのか現実だったのかわからないままだ。

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