Good bye days
肌身離さずあのリングを付けていた兄の指が、今日はやけにすっきりしているのを見て、僕は不信に思わずにはいられなかった。
いとこの愛子と結婚すると言い出した兄には、心底驚いた。僕たち兄弟と幼馴染み同然の彼女が相手だからという訳ではない。彼が、一人の女性を選らんだという事実が信じられなかった。
「むこうの親には、これから挨拶しに行くって伝えてあるから」
和室では、兄と愛子が並んで座り、テーブルを挟んで僕と両親が座っていた。未だまぬけな顔をはがせない僕に比べ、父と母は今までにない喜びようをしていた。恥かしそうに頬を染めて俯く愛子を、僕は半信半疑のままじっと見つめる。すると、彼女もこちらの視線に気付き、目が合うと可愛らしいえくぼを浮かべてはにかんだ。ああ、なんて幸せそうに笑うんだろう。そう思っても、その笑顔に便乗してこっちまで幸せな気持ちにはなれなかった。愛子が嬉しいなら僕も嬉しい。でも、この時の僕は妙な違和感を覚えていて、そういう素直な表情をすることできなかった。
「そういえばお前、昔から愛子が好きだったよな」
そんな僕を見ていたのか、兄が挑発するような口調で僕にそう言った。何を言い出すんだ、と疑った視線をそのまま兄に移す。兄は嫌味な笑みを浮かべていて、高校生だった僕はそれに負けずと反抗した。
「違ぇよ」
つんとして目を逸らす。いつもは余計な言葉もおまけして散々言い返すのに、今日の僕は何故かその一言だけだった。兄もそれに気付いたのか、一瞬妙な顔を浮かべるが、すぐに両親に向き直って「行ってくる」とだけ告げる。彼が愛子を連れて部屋を出て行くまで、僕は目も合わせずにただその場に座っていた。体の底から湧き上がるような気持ちの悪い何かが、僕の体を締め付ける様に束縛していた。
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兄は夕飯を終えても帰って来ず、日にちが変わる頃にようやく、酒を浴びたような状態で帰って来た。
「京平ー。京平ー。起きてんだろー?」
玄関から兄の呼ぶ声が聞こえる。こんな時間だから両親はもうとっくに就寝しているし、このまま放っといたら後が面倒くさい。以前も同じような状況の兄を放置していたら、翌朝に風邪を引いたのを僕のせいにして、こっ酷く仕返しをされた。
しょうがなく自室を出て階段を駆け下りる。兄はぐったりとして玄関先に倒れ込んでいた。朝に格好良く決めていたはずのスーツは、すっかり皺だらけになっている。僕を呼んだきりなのか、ひとつも動く気配が無い。
「お前、酒弱いくせに飲んでんじゃねえよ」
よくある光景に盛大な溜め息を吐く。居間まで担ごうと彼の腕を取ると、途端にとんでもない悪臭が僕の鼻を襲い、すかさず自分のそれをつまんだ。
「てめぇ、飲み過ぎだろ!」
「……うるせえなあ。大人の付き合いってもんだあるんだよお」
呂律もままならないこの状態で、よくそんな口が利けるものだ。うんざりして、重い体と耐え難い酒の匂いを抱える。足を引きずる形でなんとか居間まで運び、冷蔵庫からコップ一杯の水を注いで兄に渡す。なんだかんだ言ってここまで面倒を見る僕には、子分のような弟のポジションがすっかり染み付いてしまっているようだ。
ソファにもたれかかり、水を一気に飲み干す兄。それを向かいのソファに座って見ていた僕は、黙って彼が落ち着くのを待った。僕の体の中には、あの時の気持ちの悪い何かが未だに鉛として居座り続けている。僕はこの感覚の正体を知っていて、さらにそれは兄がいなければ解消できないものだということも知っていた。
そう、お前に聞きたいことなんて、山ほどあるんだ。
「京介」
彼の名を呼ぶ。兄はコップをテーブルに置くと、ネクタイを緩めながら僕をすがめた。
「……なんだ」
「結婚おめでとう」
「どうも」
兄の淡とした声。僕は溜め息を吐いて、そのままソファの背もたれに体を倒した。
二人ともだらしなく座ったまま宙を見ている。沈黙の中を秒針の音が走る。別に僕は、そんなことを言いたかったわけじゃない。けれど、どう切り出せばいいのか分からなかった。突然愛子を連れてきて、決意の目で結婚を宣言したあの瞬間から、兄が兄じゃなくなったような気がして、どうも落ち着かない。お互い知らない一面などないと思っていたのに、今はただ、一緒に過ごしてきただけの別の誰かのようだった。
「他に言いたいことはないのか」
兄の鋭い言葉が飛んできて、僕は思わず口をつぐむ。知らない一面などないと思っていたその根拠は、今まで、互いの様子の変化を一目で気付くことが出来ていたからだ。
「……京介が結婚するなんて思わなかった」
そう言うと、彼はふき出すように鼻で笑った。
「そんなことかよ」
「そんなことって、びっくりなんだよ、こっちは。なんの様子も相談も無しにそう言われたんだから」
「俺だってもう24だぜ? 結婚くらいするっつーの」
兄は胸ポケットから煙草を取り出し、火をつけた。そのうち焼けた葉の臭いが僕を横切り、紫煙は天上に向かって消えていく。僕は、ゆっくりと彼を見据えた。
「愛子とはいつから付き合ってたの?」
兄は僕と目も合わせることなく、煙を吐き出しながら唇を動かす。
「さあな。ずっと一緒にいたから、境目なんて覚えてない」
「俺の知らないことを愛子としたのは、いつ?」
「……3年前?」
「ふーん」
鼻で返事をして視線を下ろす。けれど、目の端に映った兄の視線で、また顔を上げた。彼は、後悔のような、同情のような、皮肉のような、嫉妬のような、そのどれにでも取れる複雑な表情をしていて、一瞬僕を戸惑わせた。
「お前、本当に愛子のこと好きだったのか?」
兄が真剣な眼差しでそう尋ねてきて、僕は思わず笑ってしまった。
「確かに愛子のことは好きだけど、そういうのじゃない」
愛子は僕にとって、ただ血の繋がっていないだけの兄弟だ。確かに昔は好きだったけれども、それは十年も前の話で、今の彼女に淡い恋心を抱くなんてことはありえない。二人がどんな関係になろうが、どんなことをしようが、僕はもう無関係だ。
時計の針はもうすぐ1時を指す。彼の酔いもだいぶ落ち着いたし、もう部屋に戻っても大丈夫だろう。そう思ってとソファから立ち上がると、同時に腕を掴まれ、嫌な予感が背筋を走った。恐る恐る兄の方へ振り向くと、しっかりとその目と合ってしまい、
「俺は疲れてんだ。部屋まで行くの手伝え」
という理不尽な命令を、立ち尽くす僕に当然の如く投げつけた。
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明らかに自分よりも図体の大きい人間を、どうして背負わなければならないんだ。そう不満をぶつけても、その原因となる兄は聞いていないらしく、アルコールと意識の間をさ迷っていた。右腕を担ぎ彼の体の半分を支え、二階へ繋がる階段に足を掛ける。人が精一杯踏ん張っているというのに、力もなく足だけを動かす兄に、僕は夜中だということも忘れて怒鳴った。
「ほら、ちゃんと歩けよ!」
階段の狭い壁の間を声が響く。ギシギシと段が鳴る。
「歩いてんだろーが」
そう口だけは達者に動く彼に、僕の怒りはますます抑えられなくなる。でもここで爆発してしまえば、かろうじて支えている兄の体がバランスを崩し、無抵抗に落ちるだろうその物体の道連れにされてしまう。当然、位置的に下敷きにされるのはこの僕だ。
そんな最悪な状況は絶対に避けたい。やむなく怒りを底力に変え、自力で立とうとしない兄の代わりに一歩ずつ段を踏み締めていく。その時、目の端にふと彼の指が目についた。右手の薬指の付け根が、輪の形をして僅かに白んでいる。あのリングを付けていた跡だ。いつも大切にはめられていた銀のリングは、どこにいったのだろうか。暇があると、兄は癖のようにそのリングを撫でていた。今日の愛子のような表情で、幸せに満ちた顔をしていた。それを度々目にしていた僕は、その瞳の奥で見つめていた相手が、愛子でないことはなんとなく分かっていた。
やっとの思いで兄の部屋の前まで辿り着くと、ノブを回して中に入る。すでに朦朧として喉を鳴らすだけの返事しかしなくなった兄を、容赦なく窓際のベッドに放り投げた。そのはずみで一度鈍いうめき声がしたが、そのうち寝息が聞こえて背中が上下し始めた。僕は深いため息を吐いて部屋を出て行こうとする。すると、棚の引き出しが中途半端に口を開けているのが目に入り、足を止めた。近づいて中を覗いてみると、そこにはあのリングが影を落としていた。蝶の装飾が施された、兄の趣味では絶対に持ちえない種類の指輪。銀に光って、僕の眼に小さく反射する。散々撫でられてくすんだ表面は、もうはめられないであろうことを嘆いているようにも見えた。
僕はそのまま引出しを閉じる。ベッドで眠る兄を一瞥してから、その部屋を出て行こうとしたその時、
「愛子のこと、これからも頼むな」
兄の呟くような声が聞こえた。ただの寝言なのか僕に言い聞かせているのかは分かりかねなかったけれど、僕は頷くだけの返事をして、静かにそのドアを閉めた。
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愛子が泣いている。清々しい朝陽がカーテンの隙間から覗き込み、薄暗い部屋の壁に光の線を照らし出す。兄の匂いが充満しているこの空間に、床に崩れて嗚咽する愛子がいる。フローリングにはその涙が音もなく落ち、乾くどころかますます広がっていく。僕は入り口に突っ立ったまま、ただぼんやりと、空になったベッドを見つめていた。
「京介。京介。京介。京介」
まるで、それしか言葉を知らない子供のように、彼女は何度も口にする。最初はしっかりと呼ばれていたその名前も、彼女がうずくまっていくのに比例して、だんだんとか細くなっていった。僕は部屋に足を踏み入れて、泣きじゃくる愛子にゆっくりと近づき、その体を抱えてあげた。
床には、棚から投げ出されたあの引き出しが、空のまま黙って転がっている。昨夜それに入っていたはずのあのリングは、兄のサイフと一緒に消えていた。僕は、穴の空いたようなこの感覚に耐えられなくなって、抱えていた愛子をさらに強く抱きしめた。
兄弟なんて、腐ってもまだ繋がっているものがあるのだと思っていた。殴り合うしか喧嘩を知らない。親にもこぼせない愚痴を二人だけでする。あぶら臭いおっさんになったら、そういう記憶を酒の肴にして笑ったりする。老いて満足に体が動けなくなっても、そういう関係は死ぬまで切れない。兄弟なんて、そんなものだと思っていた。なあ、京介、お前はもう、俺の前からいなくなるのか。憔悴した虚無感の真ん中で、僕は自分の半身を失くしたのだと気付く。
「京平は、どこにも行かないでね」
僕に身を任せていた愛子が、嗚咽で枯れた喉を絞り出し、そう言って泣いた。僅かな日の光に当てられながら、僕は迷子のように取り残されていることしかできなかった。