狂い月
町外れの路地裏には人気の無い美術館がある。毎日の来客数は5〜6人程度である。ここの美術館には火事で行き場の無くなった絵や素人が書いた作品などががらくた置き場のように詰め込まれた状態で存在している。普段であればセレブや本当に美術を愛してやまない人間はこないであろう、そんなこの美術館に今日は珍しい客が来た。落ち着いた雰囲気で紳士な対応、ルックスも財力も完璧と噂のロウフ卿である。この町一番の金持ちであり、権力者の彼とこんなところで会うなんてアルバイトで雇われた警備員の俺は予想もしていなかった。彼はふらふらと歩き回り、ついに一つの絵の前で立ち止まる。「狂い月」一人の女性が描かれた絵であった。その絵は火事で死んだやや有名な画家の作品で、唯一残ってでて来た作品であった。この絵は画家のお気に入りの絵だったが、生き残った妻は気味が悪いと言いこの美術館に寄付した。描かれている女性は誰だか分からないが悲しそうな表情をした美しい女性で俺には気味の悪さがいまいち理解ができなかった。そんな絵の前に立ち止まったロウフ卿は閉館までの三時間ずっとその絵を見つめ続けていた。俺にはどこにでもある絵のように感じたが、絵を見つめているロウフ卿はまるで無言で絵の中の彼女と会話しているように感じた。
「申し訳ありませんロウフ卿。そろそろ閉館のお時間になります。」
「おぉ、これは失礼。ではまたくるよ。」
「またの御来館をお待ちしております。」
そう言ってロウフ卿はこの美術館を立ち去った。ロウフ卿が言った「またくるよ」は俺に対してではなく、彼女に言っているような気がしたが、俺がそんなことを気にすることはないのであろう。
きっとこれは偶然ではない。運命だったのである。久々に仕事が早く終わった帰り道、美術館をみつけて気まぐれで入ってみただけである。適当に観て回って帰ろうと出口に向かう途中、絵の中の彼女と目が合った。熟れたリンゴのように情熱的な唇、絹のような肌の頬は熱を持ち、紅色の瞳からは今にでも涙が溢れてきそうな憂いが見えた。暗闇のような美しい髪がいっそうその憂いを強調している。彼女を見た瞬間、私は彼女に出会うためだけにこの世に存在してきたのではないかという気さえした。
恥ずかしい話であるが、私は40になった今でも独身である。ずっと独身の私を見て母はよく心配をして見合い相手をみつけてきてくれるが私にはどうしてもどの女性も魅力的には思えなかった。もちろん私も相手をゆっくり選べる歳ではないことは重々承知だが、それでも世間が言う甘い恋や人を一心に想う熱い愛は私には理解することができなかった。この瞬間までは。胸の高鳴りが止まらない、私が今まで一度も経験したことが無い感情が心から溢れてきて、いくらこぼれ落ちても止まる気配がない。これを恋や愛と言わずしてなんというのであろうか。彼女といる時間は新鮮で、このまま時が永遠に止まってしまえばいいのにと願ったが時間は止まってはくれない。私には一瞬であったが、気づけば三時間彼女を見つめていたようだ。警備員に声をかけられ彼女にしばしの別れを告げ、後ろ髪を引かれる思いで美術館を立ち去った。それから一週間経っても彼女を少しも忘れることはできなかった。心の熱は冷めることなく煮えたぎっていて、心臓が縛り付けられるように苦しくなる。その苦しみさえ私にとっては愛おしかった。いくら小さな美術館にある絵でも多少有名な画家が描いた作品であるため、かなりの額はする。しかし迷いは無かった。再び美術館に足を運び、警備員に金額を渡すと驚いていた。責任者と話をして、ようやく彼女は私の元へとやってきてくれた。彼女といる時間は夢のように心地が良かった。彼女に何度話しかけても返事が返ってことは無い。ただ、彼女は私を見つめているだけであった。憂いのある瞳を見るたびに私は彼女に何があったのかをますます知りたくなった。彼女を守りたい。きっと私は彼女を手放すことは絶対にできないであろう。いや、彼女は私を離してはくれないだろう。彼女になら地獄に落とされても、なにをされても私は幸せだろう、そんな気さえした。
それから数ヶ月たったある日の事、彼女は突如消えてしまったのである。不覚であった。金を持て余すほど持っている私が一つの絵に夢中になっているという噂を聞けば誰しもその絵が高額なもので、自分の権力を表すために購入したとしか考えないだろう。そうとなれば泥棒はじっと待っている訳にはいかない。何故そこまで考えが回らなかったのか不思議でしかたない。以前の私であったら注意できたことでも、最近の私は気づくことすらできない。「もう彼女に会えないかもしれない」そんな思いが過るといてもたってもいられなくなった。警察に通報した帰り、私は彼女を探しまわった。どこにもいない。どこにもいない。もう日も暮れて真っ暗になっても私は彼女を探し続けた。日付が変わった頃、ようやく見つけたのである。薄暗い小道に止めてある一台の古い車のトランクの中に彼女の瞳が見えた。いますぐ出してあげよう、そんな時後ろから声がした。どうやら彼女を盗んだ本人らしい。薄汚いジャージに鼻につく臭いがするジャンバー、生やしっぱなしのヒゲ。彼女をおとなしく返せば盗人は許す予定であった。彼女さえ戻ってくればいいのだ。そう思っていたが盗人を目にした瞬間私の心を覆ったのはどうしようもないほど膨大な、抑えることのできない「嫉妬心」であった。こんな汚い男に彼女が触れられたと考えるだけで吐き気がする。汚い、汚い。そんな手で彼女に触れたのか。許せない。いや、彼でなくとも私は彼女に触れた者すべてにそのような感情を持ったであろう。彼女の憂いのある瞳から涙がこぼれているように見えた。私の心に宿っては行けない殺意が芽生えてしまったのである。気づけば、私は彼が持っていた車の鍵を奪い、その鍵で彼の首を掻き裂いていた。動脈から吹き上がる血液はまるで花火のようで美しく、ロマンチックであった。花火が終わってしまうと、私の中にあった殺意は驚くほどに去っていった。そのあと残ったものは冷静であった。血液で真っ赤に染め上がった鍵を拭き、車のエンジンをかける。死体を車に運び入れ彼女を助手席に座らせて、起きたばかりで道にふらふらと出てきた犬を轢き殺した。その道を通ったすべての人間は、轢かれた犬が無惨に血を流して倒れているものと考えて疑わなかった。ホームレスの盗人が一人消えたところで気づく者はいない。家に着き彼女を綺麗なハンカチで拭き、戸棚に飾ると家のすべての鍵を閉めた。死体は使わないクローゼットのなかへ適当に突っ込んでおいた。彼女を泣かせることは誰であろうと許さない。彼女は私の元へ返ってきたのである。今夜はよく眠れそうだ。月を見ながら彼女に語りかけた。
「何故君はそんなに悲しい眼をしているんだい?」
いくら問いても彼女は憂いの瞳で私を優しく見つめるだけであった。しかし、悪魔のささやきのように心にある思いが過った。彼女はもしかしたら画家が死んでからその妻に気味が悪いと言われつづけ、悲しみから瞳に憂いが写るようになってしまったのではないだろうか。そうであれば私は画家の妻を許す訳にはいかないだろう。その疑問は次の朝には確信に変わっていた。美術館に足を運び、責任者から画家の妻の居場所を聞き出すのは権力者の私には容易なことであった。居場所を確認しながら彼女を優しく車に乗せてエンジンをかける。
半日掛けてずいぶん遠くまでやってきた。一面みどりの草原で心地の良い場所であった。草木が風にゆられて、眠っている。夕焼けが私をあざ笑いように照らしていた。屋根の高い一軒家、ここが画家の妻がいる家である。車のトランクから用意してきたナイフを取り出し、ポケットへ入れる。彼女が汚れないようにビニールで包み、ドアを三回ノックした。ガチャリとドアが開くと画家の妻であろう女性が家からでて来た。
「あの、どちら様?」
女性ははじめ、特に私に警戒心をもっていない様子であったが、彼女をみた瞬間瞳の色ががらりと変わって悲鳴を上げた。煩わしい蛙のような鳴き声であった。案外楽な仕事でまるでバースデーケーキを切り分けるような、そんな感触であった。ナイフから滴り落ちる血液をみた彼女の瞳から憂いが消えることはなかったが、私は満足である。彼女をいじめていた存在は消えたのだ、いや私が消したのだ。誇らしさと勇気を胸に抱えて家に帰った。家に帰るとやはり安心する。彼女を見つめていると、彼女が私に話しかけているように見えた。
「ありがとう」
確かにそう言ったのである。彼女を守るためならなんでもできる。彼女との時間は永遠のように感じたが、いつも終わりは突然やってくる。一週間くらいたった頃だろうか。噂が街全体に広がっていた。やはり、ホームレスとは状況は違い、画家の妻の死体は早期に発見されて通報されたらしい。それを聞いた美術館の責任者は顔が真っ青になっていたという。まぁ、誰しも自分が殺人の手伝いをしたと知ればそうなるであろう。終わりは近い。しかし、私が刑務所にいる間、彼女が誰かの手に渡っていると考えるだけで私は耐えられないであろう。ならばいっそ一生二人きりで居る方法があるではないか。暖炉にある薪をカーペットに巻き付けてマッチを一本擦り落とした。驚くほどに炎は舞い上がり、部屋を覆った。私は彼女を抱え、ベットの上で燃える窓から月を見上げた。今となってからは彼女と会った瞬間から、この世に産まれた時から、なんとなくこうなることがわかっていたような気がした。そうしてもう一度彼女に問いた。
「何故君はそんなに悲しい眼をしているんだい?」
返事は返ってこないように思えた。これが唯一の後悔であろう。最期に彼女を直に見ようと額縁から外す。すると彼女が描かれている絵の裏側に文字が見えた。
「私を愛した人間を狂わせるためよ」
自然と笑みがこぼれる。なるほど、最期まで私は彼女に操られていたようだが気づくにはもう遅いようだ。靴に火が届く。炎は私を優しく包み、薄れ行く意識の中で月の明かりが炎に照らされて、紅い彼女の瞳のように見えた。
最期に彼が見たのは、彼女の狂気的な表情であった。
フラッシュがたかれる台の上で仕事を失った俺は証言する。
「ロウフ卿があんな殺人鬼だと思いませんでした。そして店長がその手伝いをするなんて・・・」
どの新聞の一面にも「ロウフ卿紳士の皮をかぶった殺人鬼!?焼け崩れた現場からは死体が!!」とでかでかと乗っている。この町一番の事件であろう、殺人事件の動機はどうやら迷宮入りのようである。ロウフ卿宅から出てきた絵は炎に包まれたにも関わらず無傷だったという。あの絵を見つめていたときから殺人犯だったのだろうか?そうだとしたら鳥肌が止まらない。
しかしあの絵に描かれてた女性、あんなに笑った表情だったっけな?