4.動物園に行く。
休み時間に友達と話していると背中をとんとんと、つつかれる。振り向くと尾久川君がいて、小さい声で言う。
「明日さ、なんか用事とかある?」
「ない、けど」
「じゃあさ、どっか行かない?」
「えっと……」
一瞬迷ったけれど、目の前の友達がわたしを見てニヤニヤしていた。恥ずかしくなって早く話を終わらせたくて妙に焦って「うん」と頷く。
「やった! じゃあ連絡する」
尾久川君は携帯を出して示して、笑って自分のクラスに帰って行った。
遊びの誘いを最初から携帯でくれればもう少し考える時間もあったのに。また勢いに飲まれてしまった。
「すず、尾久川にオッケーしたんだね」
「え……瞳ちゃん知ってたの?」
「知ってるもなにも、あいついっつもウチのクラス来てすずのことばっかりチラチラ見て、わざわざ後ろに座ったりしてさ、すっごいわかりやすかったじゃん」
「……そんなに?」
「すず、気付いてなかったの? みんな分かってたよ」
「み、みんな……」
事態の深刻さと自分の愚かさに気が遠くなる。
「でもすずがオッケーするとは思わなかったよ」
「……」
「良かったね? 尾久川なら結構優しいし、いい彼氏なんじゃん?」
「は、はぁ」
「あたし一年のとき同じクラスだったから知ってるけど、あいつあれで結構人気もあるんだよ」
「あはは……」
自分にもよく分からない笑いがもれた。
こんな状況で、わたしはもしかしたらもう断れないかもしれないと思った。今さら断ったら、尾久川君だけでなく、周りみんなに知られてしまう。そしたら、余計な恥までかかせてしまう。
諦めて付き合っていたら、いつか近いうちに尾久川君が飽きて、わたしのことを振るだろう。それまで我慢していた方が楽かもしれない。
*
土曜日になって、尾久川君は待ち合わせ場所に先にいた。
私服もやっぱりお洒落で、わたしは自分の野暮ったい格好を恥ずかしく思った。
平日は制服だし、アルバイトもしていないので、私服はあまり持っていない。たまにお母さんと買い物に行って買ってもらうけれど、派手なものは買わないし、こんなことになるなんて思ってもなかったのでとてもデートに着ていくようなものは持っていない。それでもなんとかそれっぽく見えそうなスカートを引っ張り出して、なんとか必死にお洒落をした。
だけど、その服は尾久川君と並ぶとやっぱり恥ずかしい類のものにしか感じられなかった。
尾久川君と歩くのが、ちょっと恥ずかしい。自分がみっともない。彼といるとこんな思いばかりしている。
「すず、どっか行きたいところある?」
「え、特に無いけど」
言ってからまた申し訳なく思う。デートに誘われて行ったのに気の無い返事をしてしまった。
「動物園、行かない?」
「えっ」
「動物園、嫌い?」
「ううん、好き」
なんとなく、尾久川君の雰囲気からカラオケとか、ゲームセンターとか、そんなようなものを想像していた。
尾久川君は笑いながら言う。
「俺、すずと出掛けるってなって、もう動物園しか浮かばなくて……」
「なんで?」
「すずの雰囲気に似合うし、すずと行きたいなって」
「そう、なんだ。……行きたい」
「よーし行こう」
また自然に手を繋がれて、駅の方に向かった。
尾久川君はすぐに手を繋いだりするしなんだか慣れている気がするけれど、もしかして前にも彼女とかいたんだろうか。
電車に乗って、扉の横の手すりにある彼の手を見ながらそんなことをぼんやり考える。
動物園に着いて、門をくぐる。
園内のマップを片手に尾久川君が指を指してルートを提案する。
「俺、バクが見たい」
「バク……」
「マメジカとハシビロコウも」
「うん」
なんだか妙なものを見たがるんだな。別にいいけど。
「すずはなんか見たいのある?」
「……パンダ」
「うん、じゃあ、ここを、こうまわろ」
動物園は数年前家族で来て以来、久しぶりだ。友達ともわざわざ行く感じでもなかったので、ちょっとワクワクする。
だけど、尾久川君がまた手を繋いで来たのでそっちに意識が行ってしまった。
鳥を見ていても、カワウソを見ていても、尾久川君と繋いだ手が気になって落ち着かない。もう少し離れてくれないと緊張するし、わたしの手汗がすごい。なんで簡単にこんなことするんだろう。色々考えて、ぐるぐるしてしまう。
「あの、手……」
「え?」
繋いだ手をそっと解いた。
「あの、わたし飲み物買うね!」
そう言って、自販機に向かう。
オレンジジュースを買って近くのベンチに座る。喉がカラカラだ。冷たいジュースをごくりと飲んで、一息ついた。来たばっかりなのに、なんだかもう疲れてしまった。
隣に座った尾久川君がわたしの顔を覗き込んで「疲れてる?」と聞く。覗き込まれてびくりと萎縮して、距離を取った。すごく近い気がしたから。
それから慌てて「疲れてないよ」と首を振って返して、立ち上がる。
「疲れたならもう少し座って休もうよ」
「……ううん、大丈夫」
わたしはどこまでも他人に気を使って顔色を窺ってしまう。それは他人の為では無くて、自分が嫌なひとに思われたくないから。自分本位な思考だ。だけど、癖のように、習慣のようにそんな自分は顔を出す。
夏の終わり、陽射しの厳しさは和らいでいたけれど、蒸し暑い日だった。
なんだか頭がぼうっとする。
幾つか動物を見ながら歩いたけど、無口になってしまった。
相変わらず何か言われてもわたしは「うん」とか「そうだね」とか、そんなことばかり言っていて気の利いた言葉が全然返せない。今日は暑さによる疲労も手伝って、愛想笑いだって浮かべられなくていつもよりさらに酷かったと思う。
尾久川君はこんなわたしと居て、楽しいんだろうか。
隣のクラスの、割と人気のある男子。わたしのことを、優しい子だと思っている。勘違いしている。勘違いして好きだと言っている。
頭もぼうっとするし、なんだか暗い気持ちになってしまって、わたしはどんどん無口に拍車がかかって、ろくに相槌もうてずにいた。正直あまり話を聞いていない状態だったかもしれない。色んなことが頭を渦巻いて、ちっとも冷静でいられない。ずっと慌てているような感覚だった。
彼も途中から話しかけるのを止めてしまった。自販機の前で解いた手は繋がれることなく、パンダの場所にたどり着いた時はふたりとも無言だった。
「すず、ちょっとそこ座ろう」
ベンチに移動すると尾久川君が立ち上がって、自販機に行ってジュースを買った。
「蒸し暑いから、くたびれたんじゃない? 具合悪かったら言って?」
そう言って、冷たい缶をわたしの手に乗せる。
「大丈夫。具合悪いとかじゃ、ない」
「じゃあ……つまんない?」
「そんなこと……ないけど」
尾久川君は少し黙って隣に座っていたけれど、やがてわたしの顔を見て疲れたように言った。
「……帰る?」
失望させたと思った。やっぱり、わたしと居てもつまらなかったんだ。
わたしは、尾久川君はすぐにわたしに飽きるだろうと思っていた。彼の思うような子ではきっとないから。だから、思った通りになったのだけど。
しばらく無言で手のひらで冷たい缶を転がしていたけれど、結局尾久川君が溜め息を吐いて「帰ろう」と言って立ち上がって、彼の見たかったバクは見ることなく帰った。
いつもわたしは彼の言う言葉に上手く返せなかったけれど、それでも今日みたいに気まずくなることはなかった。
もしかしたら彼はずっとわたしに気を使っていたのに、いい加減わたしの態度に疲れてしまったのかもしれない。もっと愛想笑いぐらい出来たらよかっただろうか。
きっと、彼はわたしをつまらない子だと思っただろう。実際その通りだった。
わたしは彼を楽しませることの出来る話題も、何も持っていない。いつだってわたしは、ひとに合わせているだけだったから。