第四十三話 帰還限界点
供美達がショッピングモールで騒ぎを起こした、その次の日。
供美にとっては永遠に来て欲しくなかった日がやってきた。
供美は自分に割り当てられた暗い部屋の隅で、布団の上に膝を抱えたまま蹲っていた。
その顔に浮かぶ血色は、一睡もしていないことを示していた。
供美は一晩中、今までの自分の人生を思い返していた。
酷い人生だった。
供美の両親は平凡な人間だった。特に優れた個性があるわけでもなく、かといって他人と比べて劣っているということも無かった。
だが、そんな人間にありがちな、自分は他人より優れて部分があるはずだという、根拠の無い自信ばかりが人と比べて強かった。
そんな二人が、供美の持つ特別な才能に端を発する宗教に嵌ってしまったのは必然かもしれなかった。
子供が特別ならば、親もまた特別であるはずである。
中学に上がる際の健康診断で、供美のアニマトゥーラへの適性が認められてから、供美の両親は今まで持ち得なかった自信の在り所を娘の才能に縋った。
そんな妄執に取り付かれた二人に、供美の極当たり前の忠告は届くことは無かった。
代わりに供美へ届いたのは、両親からのあまりにも激しい叱責だった。
それゆえに供美は二人に対して、口答えの一切を諦めた。
供美が高校に上がってからも、その熱は冷めることは無く、激しさを増していった。
そんな両親に対して、供美は自ら行動を起こすことをしてこなかった。
誰かが、何とかしてくれるのではないか。
だが、そんな思考を持った供美を誰が責められるのだろうか。
供美はまだ十五歳、紛れも無い子供だったのだ。
数は少なかったが、当時は存在していた友人の様に、子供らしく、先のことを考えず生きて何がいけなかったのだろうか。
てんせいのひかりに関する一連の事態は、自分のような子供ではなく、誰か大人が、責任を持つ立場に居る別の人間が、本来ならば正さなければならない問題だったはずだ。
供美はそこまで思考して、他人に責任を求める自分を嫌悪した。
真実、供美に責任を求めることは酷な話だった。その点で供美の指摘は正しい物と言えた。
だが、そうと知りながらも自分を嫌悪してしまうのが供美だった。
そういった供美の精神的潔癖さと、自己否定に繋がる思考形態を持つに至った原因は紛れも無くある事件が原因だった。
今から二年ほど前のあの日、供美がアニマトゥーラを発現させる原因となったあの事件。
供美は両親に連れられ、てんせいのひかりの儀式へと向かった。当然行くつもりなどなかった。だが、これまでの経験からそれを拒否することが供美には出来なかった。
結果起こったのが、構成員同士での殺し合いだった。
その時の余りにも凄惨な記憶を、供美は何度も夢に見ていた。
飛び散る血液、それとは異なる液体、悲鳴、怒号、恐怖に引きつった顔、怒りに歪んだ瞳、動く気配の失われた人間、だったもの。
そして、恐らくは両親の最期の姿。
思い出したくも無い記憶だが、決して忘れることが出来ない記憶。
そして今日、その記憶に類する出来事が起こるという事実。
それが供美に安らかな眠りを許さなかった。
いつの間にか、閉じきったカーテンの隙間から、光が漏れていた。
決して来て欲しくなかった時間。それが遂に来てしまった。
「供美、起きなさい。そろそろ出るわよ」
部屋の外から、聞き慣れたくも無かった声がする。その声の持ち主に向けて、供美は扉越しに嫌悪のまなざしを向ける。
供美は緩慢な動きで立ち上がると、部屋の外へ出る準備を進める。
部屋の外へ出た供美を出迎えたのは、準備を終えていた鳶鑢と錆鋸の二人だった。足元にはそれぞれ紙袋が一つずつ置かれていた。
その袋の中身を供美は知っていた。凝視しそうになる視線を抑え、代わりに先程声を掛けてきた女性へと視線を向ける。
「遅いわよ」
不機嫌な口調でそう言い放った女性を横目に男性がこれからの行動を説明し始める。
それは作戦というには余りにも大雑把なものだった。
先に二人が外へ出て、爆弾の準備を済ませる。火災が起きるまでに、三人はそれぞれ三方へと散り、火災の際の混乱に乗じて包囲を突破する。
突破できた者は、予め決めておいた集合地点へと向かう。決められた時間までに来ないものは置いていく。
粗だらけの作戦だ。作戦とは到底呼ぶことが出来ない。
自分達以外の仲間は皆逮捕されているか、そうでなくとも追われているだろう。包囲を突破できたところでそれ以降はどうすることも出来ない。
結局のところ、自分達は既に詰んでいるのだ。
そして遂に、供美が最も恐れていた話題へと話が変わる。供美達が誘拐した大西龍三郎の処遇についてだ。
ここを出て行く前に始末する。
その結論は変わらないようだった。それを確認したところで、供美は自分の耳を心理的に閉ざした。その話を聞き続けることは到底耐えられなかった。
だが、それとは無関係に話は続く。心が抜け落ちた抜け殻のような面持ちで、供美はただ時間が過ぎるのを待った。
だが、女性の一言でその心は強引に現実へと引き戻される。
「何、ぼーっとしてるの。あんたがやるのよ」
女性は供美を見つめていた。
「力は使ったら駄目よ。探知されてしまうからね」
そういって女性が代わりの手段となるものを用意するため台所へと向かう。
そして戻ってきた女性が机の上に置いた物、それは包丁だった。
「別にこれじゃなくてもいいけどね」
事も無げに語る女性を、信じられないものを見る目で供美は見つめる。
言われたことを理解できない供美を置き去りにして、二人は着々と準備を進める。
「別にやらなくてもいいわよ。ただその場合、私たちがあんたをどうするかは、分かってるでしょうけど」
供美は今までずっと現実の問題から逃げ続けてきた。だがそれも、仕方の無いことだった。
だが遂にその逃げ道は塞がれ、目の前にはぽっかりと空いた暗い穴のみが存在していた。
その穴に供美の意識は吸い込まれていく感覚を覚えた。
だが、玄関の閉じる音で供美は我に返った。いつの間にか二人は外へ出ていたようだった。
薄暗いリビングに、供美は一人取り残されてしまっていた。
震える手で、供美はその包丁を手に取る。
これであの爺さんを殺す。
容易だろう。
変身など必要ない。
相手は老人だ。
供美の脳裏におぞましい手順が思い浮かぶ。
その瞬間、供美は猛烈な吐き気を覚えた。
出来るわけがない。自分はそれを行うことが出来る。だが、それを実行するとなれば話は別だ。
出来るわけがない。
だが、やらなければならない。そうしなければ、死ぬのは供美なのだから。
供美は包丁を握り、震えたたままの右手をだらりと下ろした。そして、老人を監禁している部屋のドアへと向き直る。
ドア越しに供美の姿が見えるわけも無い。だが、彼女は包丁を持った右手を自分の後ろへと隠した。
供美はぎゅっと目を閉じる。視覚が閉じられたことで、自分自身の鼓動が強く感じられた。
供美はその鼓動が収まるのを待つも、それは無駄な足掻きだった。代わりに、次第に強くなる思いが供美の心中を満たしていった。
諦観。
供美はドアの鍵を包丁を持ったまま外した。
そして、そのままゆっくりとドアを開ける。
部屋の中には、いつもと変わらぬ姿の老人が座っていた。その表情にも変化は見られない。
ドア一枚しか隔てていない部屋だ。先程の会話を、老人は恐らくは聞いていただろう。
だが老人は胡坐を掻いたまま、薄目がちな表情で佇んでいる。そこに焦りや恐怖は感じ取れない。
後ろ手に包丁を隠したまま、供美は部屋の中へ入った。
供美の心臓は早鐘の様に音を鳴らし続けていた。それが彼女の身体を震わせ続ける。
「やめなさい」
低い、落ち着いた声色だった。供美は突然のその声に驚き、それを発した人物を見つめる。
大西龍三郎。
老人も供美を見つめていた。その両目ははっきりと開かれている。
「い、命乞いか?」
平静を装おうとした供美だったが、その動揺は明らかに表へと出てしまっていた。老人はそんな供美の隙を突くかのように口を開いた。
「そう受け取ってもらっても、構わない。だがこれは君のためだ」
「私のため……。お、お笑い種だな。誘拐犯の身を気遣うっていうのか」
「そうだ。もし、君が私を殺せば……私でなくともそうだが、君はもう戻ることは出来ない」
戻る。その言葉に動揺の渦中にあった供美の心は一気に怒りへと傾いた。彼女の体温が上がって行く。
「ふざけるな! 何が戻るだ!!」
供美は言葉の勢いのまま、後ろ手に隠した包丁を露にした。だが、老人はそれには一瞥もくれずに会話を続ける。
「では言葉を変えよう。私を殺せば君は何処へも進めなくなる」
「良くある言葉だな。だがな、人殺しでも随分前向きに生きてる奴もいるようだぞ」
老人は供美の背後にあるドアへ一瞬視線を移す。
「あの二人は、既に手遅れだな。それに、彼らは前には一切進んではいない。方向も分からなくなって、ただ落ちて行くのを、それと錯覚しているだけだ。」
その言葉に、供美の心は一瞬同意しかけた。さらに老人の言葉は続く。
「だが君は違う。 進むべき道が、未来がまだ残っている」
「確かにあんたと比べればそうだろうさ。それに言っただろう? 道なんて、未来なんて見えないんだ」
「君に見えないだけだ……松永君」
老人の言葉に、供美は稲妻に打たれたような衝撃を覚えた。そして包丁を、老人へと向ける。
「なんで名前を……! 知ってたのか!あんた、私達が誰なのか!」
「……アニマトゥーラは管理されなければならない。てんせいのひかりは、事件以来常に監視下にあった」
そもそもなぜ、供美達が、老人の動向を掴むことが出たのか。監視下にありながら、なぜ誘拐の実行を防ぐことをしなかったのか。
「ただ、逮捕するだけならば事も無かった。だが物事は、出来る限りまとめて解決すべきだからな」
「なにを言っている!」
「本来は、これほど時間を掛ける予定も無かった。私は速やかに殺されるべきだったのだが……」
老人は供美を見つめる。だが彼女は、老人の顔から、自分の手の中の凶器へと視線を移した。
「今は助かりたいって訳か?」
「あの男はそのつもりらしい。そして私も、もはやそのつもりは無い」
「じゃあ、いっそのこと『神風』でも呼んだらどうだ? 『神風を呼んだ男』なんだろ?」
その言葉に、老人は初めて微かに笑った。だが、その笑みは明らかに自嘲の念が込められていた。
「残念だが、もう居ない」
供美はそれが意味するところを理解した。老人が自分に吐いていた嘘を。
「本当は居たんだな! 晴嵐は都市伝説なんかじゃないんだな!」
「ああ、居た。だがもう居ない」
供美は包丁を握る手に力が入って行くのを感じていた。身勝手な怒りだった。だが、それでも力は理不尽に増して行く。
「自殺した」
不意に聞こえたその言葉に、供美の力がすとん、と抜けていく。
「彼は……間違いなく日本を救った。だが、そのために多くの人間が犠牲になった」
老人は話を続ける。
「私の甥だった。私の提言の下で行われた作戦、人的被害は最小限になるはずだった。」
そこまで言って、老人は顔を歪めた。その顔を、供美は一度見たことがあった。
「彼は台風を起こすことが出来た。正に奇跡のような力だ。だが、それだけだ。止めることは、出来なかった。その結果台風は諸島群、そして北上して中国大陸沿岸を襲い、何万人もの死傷者が発生した」
供美は静かに話を聴いていた。包丁を握る手には、もはや力は篭っていなかった。
「私も彼も道は無くなり、彼は死を選んだ。そして私は立ち止まり続けたが、この有様だ」
そこで老人の話は終わったようだった。供美はその手に包丁を握ったまま部屋の入り口で立ち尽くしていた。
自分が助かるためには、目の前の老人を殺さなければならない。
だが供美は、その行為の意味する所を本当に理解していたのだろうか。
本当にやらなければならない事は何なのか。
供美には分かっていた。だが、老人が言っていた自分に残っている未来というものは間も無く消滅するだろう。
準備を終えた二人が戻ってくるまでに老人を殺していなければ、それでお仕舞いだ。
供美は逃げ続け、そして暗い穴の前に立っている。問題はそこからどうするかだった。
自分一人ではどうしようもない。勇気を出したところで結果は見えていた。
彼女達二人に殺されなくとも、供美の人生は少なくとも加害者、誘拐犯として終わるだろう。
「私は……」
供美が口を開いたその瞬間。
ピンポーン
突然のチャイムの音に、供美の身体は過剰な反応を見せる。そして思わず包丁を手から落としてしまった。
終わった。
供美の顔が絶望に染まる。残された時間は後どれくらいだろう。数秒? 数十秒? それが供美に残された時間だった。
彼女は自分の足元に落ちた包丁を慌てて拾おうとする。もしかしたら、今からやろうとしたという言い訳が通用するかもしれない。
だが、供美は違和感に気づく。
合図であるはずのチャイムが、一回しか鳴っていない。
それが意味するところを理解する前に、彼女の耳に届いたのは驚くべき人物の声だった。
「松永さーん! 葵です! ここを開けて下さーい!」
玄関の外から叫んでいるためか、届く声は小さかった。それでもその声は、あまりにも大きな衝撃となって供美の心に響き渡った。
「何で!!? どうしてあの子が!!」
供美はドアを乱暴に押し開けて玄関へと走った。もう一度チャイムが鳴る。だが、やはり仲間を示す合図のそれではない。
玄関のドアを叩く音と共に、居るはずの無い少女の声が響く。
だが玄関へと走る音が聞こえたのか、供美が到着する前にドアを叩く音は鳴り止んでいた。
そして供美が玄関前に来たのを確認した訪問者は、閉じられた扉の向こうに居る人物へ向かって声をかける。
「松永さん。来たよ。」
玄関扉のガラス越しに認められるシルエット、それは正しく供美がショッピングセンターで出会った少女。
最上 葵。その人だった。




