第二十三話 葵の怒り
月に向かって咆哮する犬の怪物を目前に、美央は震えていた。
その理由を、武者震い、あるいは歓喜の震えだと本人は嘯くかもしれない。
自分が求めていた新たな知識、新たな力が完全な形で目の前に現れたのだ。
だが、それは紛れも無く恐怖の発露。
目の前の怪物は、美央に対して純然たる殺意を向け、それを隠そうともしていない。
葵の性格から考えて殺されることはないにせよ、戦えば負ける。
「先生……。五体満足で済むなんて思わないで下さいね」
いや、一歩間違えれば殺されるかもしれない。美央は自分の目の前の少女が、嘗て自分と一緒に子供だましの映画を見た少女だとは信じられなかった。
葵もまた、内側から湧き上がる衝動と、自らが発する言葉が、とても自分のものだとは考えられなかった。
だがそれが、妹に守られることの無くなった、本来の自分の心の有様だと直ぐに考え直す。
目を背け、誤魔化してはならない。葵は紛れもない自分自身の怒りで、目の前の女性を八つ裂きにする決意を固めた。
「手を組みましょう!」
後ずさりをしながら美央が叫ぶ。美央自身、そんなつもりは毛頭無い。
話しながら距離を可能な限り稼いで、空中に逃げる。
美央の背中の羽の機能では素早い飛翔は不可能だが、それが唯一の道だと思われた。
「その力があれば、何だって出来る!」
なおも後退を続ける美央。葵は動かない。
「私は貴女に相応しい待遇を提供できる! 貴女の素晴らしい力に見合った環境を!」
葵は動かない。だが、自分の力を確かめるように、その手の開閉を繰り返している。
じりじりと、美央は喚きながら距離を離していく。
そして美央が、十分な距離を稼ぎ、逃亡のため背中の羽を震わせたその瞬間。
葵の立っていた地面が炸裂した。そして美央と葵の中間の地点が、再び炸裂する。
赤い影が、美央が必死に離した距離を一瞬で無駄にした。
だが、その勢いは、美央の目前で急停止する。
踏み込んだ地面に左足の爪が突き刺さっていた。
その爪は地面だけではない。そこに存在する空間自体に突き立てられている。
それだけでは足りなかったのだろうか、身体の側面部分の爪状装甲が励起していた。
それが、周囲の空間を削り取りながら、葵の勢いを殺していた。
なぜ、わざわざ直前で止まったのか。
突撃の前、葵は自分がどれほどの力を出せるのか試すつもりでいた。
そのため全力で地面を蹴った。
その結果、葵は自分が生み出したその速度に驚愕した。
このまま攻撃すれば、殺してしまうかもしれない。少なくとも、命だけは助けてやらなければならなかった。
しかし、命さえ奪わなければ、後はどうなろうが葵はかまわないと考えていた。
それは、葵の考えなどではなかったのかもしれない。怒りに飲まれそうになる葵の思考を赤犬が必死に理性として押さえつけていた。
それを自覚して葵は自嘲した。
「(彼女がいなければ、取り返しの付かないことをしてしまうところだった)」
葵は目前に迫った醜悪な蝿の怪物をねめつける。胸部装甲が、美央が持つ巨大な胸のため大きく隆起している。
攻撃するなら、そこではない。葵は腹部に眼を落とした。
それを察知した美央が言葉を発する。
「やめ……」
「いやです」
言い終わる前に攻撃に移る。
葵は力任せに腹部を蹴りつけた。咄嗟に防いだ美央の両腕が、両方とも手前方向に曲がった。
悲鳴が上がる。蹴られた勢いで、美央は10メートルほど吹き飛んだ。
葵は、その悲鳴を聞いて、先程の凛音との戦いを思い出していた。
自分の腕は、あの時折られたはずだが、今はもう完治している。
あれではすぐ治る。
事実、離れた位置で這いずっている美央の腕は、解放骨折しているにも拘らず、装甲の修復と共に正しい形に治りつつある。
葵は倒れたままの凛音の姿を横目で確認する。まだ装甲は完全に外れていない。
にも関わらず、一切の回復が行われていない。
「凛音ちゃんは治ってないのに、なんで貴女は治るんですか?」
早歩きで、葵は美央に近づく。
呻きながら這いずる美央の腹部で何かが壊れる音がした。
瞬間、凛音の側から、これまでで幾度目かになる警報が鳴り響く。
葵は、思わずそちらに目を向けた。
その機を逃さず、美央は上空への離脱を図る。その身体が、背中の羽の音と共に浮き上がった。
「早くお友達を病院にでも連れて行ってあげるのね!」
葵に背を向け、全力で離脱を行おうとする美央。だがその背中に赤い影がしがみついた。
「ひぃっ!」
「なに逃げてるんですか。逃がすわけ無いでしょう」
葵はまるで階段を駆け上がるように空中を進んでいた。蹴りつけられた空間が、その痕を示すように青い光を残している。
背中に、両手の爪が深く食い込んでいる。青い火花が一方的に美央の背部装甲から吹き上がった。
そのまま葵は両手を振り下ろした。何の抵抗も無く、その背中は蝿の羽ごと引き裂かれる。
「ぎゃああああああああ!!」
飛翔能力を失った美央がきりもみしながら落ちていく。葵は引き裂いた背中を今度は足で蹴りつけるとそこから離れた。
蹴りの勢いで落下の方向が変わる。美央は屋上の際、フェンス付近に墜落した。
それを確認した葵はゆっくりそこへと歩いていく。
美央はフェンスを掴むと、よろめきながら立ち上がった。
そして葵へ身体を向ける。
「私達は同じ仲間よ!」
美央は必死に叫ぶ。ここに来て説得は無意味だと理解はしていた。だが、時間を稼ぐ必要があった。
背中の状態を葵から隠しながら話を続ける。
「共に、アニマトゥーラという進化の力を得て、人類の先に到達した仲間なのよ!」
それの言葉を聞いて、葵の歩みが止まる。そして
「この力は、きっとそんなものじゃありません」
きっぱりと葵は告げた。
「確かに、凄い力です。私も凛音ちゃんもこれが無ければきっと死んでました」
葵は自分の手をじっと見つめた。異形の手がそこにはあった。
「先生言ってましたよね。姿や形を決めるのは自分の嫌いな物と、苦しい経験だって」
葵は手を見つめながら話し続ける。
「そうよ。相手に最も効果的に恐怖と痛みを与えるため、自分の経験から形成するのよ」
それを聞いて葵は首を振る。
「こんな姿になるのは、きっと自分のことを知ってもらいたいだけです」
葵は美央を見据えながら言い放った。
「自分の嫌いなものや、辛かった思い出を他人に知ってもらいたいだけなんです」
そして歩みを再開する。
「それって、とっても人間らしいと思いませんか?」
葵はさらに美央に近づく。美央は後ろ手にフェンスを掴んで立っていた。
恐怖のためか、その息が荒くなる。
「私は自分の好きなものや、楽しい思い出を、凛音ちゃんや他の人と一緒に語りたい」
こんな力はもう使わなくていいようにしたい。そう言って葵は美央の眼前に立った。
「そのためには貴女は邪魔です」
美央は自分の羽が回復しつつあるのを感じていた。
「殺すなんてこと、絶対にしません。けど、生かすつもりもありません」
だが、到底逃げられるとは思えない。
「貴女は絶対に許しません。可能な限り死んでもらいます」
その言葉を聞いて、美央は掴んでいたフェンスを力任せに引きちぎった。
そこに人間が通るには十分すぎる穴が開く。
屋上から落下して逃亡を図る美央、その頭を
「せっかくだから、私も一緒に行きます」
葵がその、鉤爪を備えた右手でしっかりと掴んだ。
「あああああああああああああああ!!!!!!」
そのまま、地面へと飛び降りる。5階建ての校舎からの落下はおよそ20メートル程の高さを伴った。
時間にして数秒の出来事だった。その落下の最中、葵の目は美央が腹部を守ろうと動いたのを捉えた。
腹部に何があるのか。
葵は美央の装甲のデザインを思い返した。そしてそこにあるものを思い出す。
そして、凛音と美央の戦いの様子を思い出した。
葵はようやく合点がいった。何故、急に凛音の携帯が回復したのか、何故、凛音の身体が回復しないのか。
その瞬間、美央の腹部を守ろうとする行いが示す事実に、葵の心は一色に染まった。
葵は目の前もが、赤く染まる錯覚を覚える。
そして、次に行うべき行為が決まった。
葵は落下の勢いのまま、美央の顔面を地面に叩きつける。
だが、装甲を介さない衝撃はそれを破壊するに至らない。
代わりに、葵の身体の下敷きと成った各部が悲鳴のような軋みを上げた後、砕け散った。
葵は地面に叩きつけられ、その衝撃で呻いている美央の身体を校舎に向かって蹴り飛ばした。
美央は依然腹部を守っている。そしてそのまま、校舎の外壁に身を預けながら立ち上がる。
全身からは黄色に変わりつつある火花が撒き散らされていた。
それを確認して葵は距離を離す。そして、先程決めた行為の準備を行う。
それは、この戦いの最後の一撃を放つための準備だった。
離れた位置で、葵は地面を蹴った。そしてそのまま、美央のいる壁に向かって走り出す。
単純に力をこめて走ると、力が強すぎて足を滑らせてしまうため、地面の空間ごと足の爪を突き立てながら走った。
蹴られた地面が、猛烈な青色の火花を放っている。蹴りだすごとにその色は濃さを増していく。
三歩目にして、葵は身体の前面に透明な壁のようなものを感じた。
その壁が邪魔だった。
葵は両手の爪でその透明な壁を左右に切り開いた。そして両手を壁の縁に掛けたまま、その壁の隙間に向かって体を滑り込ませる。壁を越えた瞬間、何かに引っ張られたかのように、その身体は速度を更に増す。
右脚が前に突き出ていた。
それは凛音が自分との戦いで二度放った技。
ヒーローが好んで使う技。
必殺のキックが、音速を超えて放たれた。
「ぜりゃあああああああああああ!!!!!!!!!」
それは未だ防御を固める美央の腹部へと深々と突き刺さり、それを容易に砕いた。
全身から血の様に赤い火花が吹き上がる。そしてそれと同時に、濃紺の火花が葵の右脚から僅かに放たれた。
美央の身体が、鉄筋コンクリート製の校舎へ突き刺さる。血が、その蝿の口吻から噴出された。
だが、それでも尚、美央は装甲を解いてはいなかった。
彼女のプライドだけが、その全てを支えていた。
そしてそのプライドを、葵の残った左足が粉砕する。
食い込んだ右足の爪に力を込め、葵は自分の身体側に引き寄せていた左足を、渾身の力で同じ場所に蹴りこんだ。
校舎に突き刺さった美央の身体が、その壁を突き破る。
そしてそのまま、生身の身体を晒しながら吹き飛んでいった。
葵はその場に着地すると、その様子を伺う。
装甲は完全に崩れ去っていた。
美央は暗い部屋の中で、身体を前屈の様に曲げながら動かない。
だが、その手が、僅かだが動いている。
死んではいないようだった。
安堵と共に、葵は自分の装甲を解いた。赤い光が、その身体から離れていく。
そのまま葵は屋上を見上げた。
「凛音ちゃん……!」
友人の名前を呼ぶと、無事を確かめるため、屋上へと向かう。
だが、走り出そうとする身体が、その動きを止めた。
突如、頭の中で何かが暴れ回っていると錯覚するほどの激痛が彼女を襲った。
そして、鼻、目、両耳から、血が流れ出す。
それを止めようと葵は手で鼻を押さえ込もうとする。だが、激痛の中、その意識は遠のいていった。
そのまま葵は地面に倒れこんでしまった。
薄れ行く意識の中、葵の耳には、どこか遠くで響く警報の音だけが鳴り響いていた。




