第十四話 思い出と決意
赤犬の左脇の損傷は見る間に回復していった。
同様に、わたしの右肩も、既に傷一つ無い。
わたしは素早く起き上がると、赤犬を注視する。
やつは、猫背のまま、両手をだらんと下げて、大きく、荒い呼吸をしていた。
しばらくにらみ合いが続く。
赤犬は、歯の間から長く息を吐くと、一気に後方へ飛びのいた。
蹴られた地面が、アスファルトにも関わらず大きく抉れる。
そのまま脇目も振らず、逃げ去っていく。
あっという間にその姿は見えなくなってしまった。
わたしの後ろで倒れていたおばさんは、なんとか立ち上がると、そのまま悲鳴を上げながら逃げていってしまった。
姿が見えなくなるのを確認して、わたしは変身を解く。
黒い装甲が剥がれ落ち、赤い光となって消えていった。
離れた位置で買い物袋を見つけると、その中身を確認する。
大丈夫なようだ。
わたしが安堵していると、ポケットの携帯に着信が入る。いつの間にか通信は回復していたようだ。
電話の相手は善治だった。わたしは今起こったことを仔細残さず報告する。
話しながら、わたしはおばさんの逃げていった先をにらみつけたのだった。
早く帰らなければ。
葵はどうなっているだろうか。大丈夫だろうか。
そんなことを思いながらわたしは帰路に着いた。
20分ほどかけて、ようやく、寮の前までたどり着いた。
ロビーを抜けて部屋につくまでの間、自分の姿におかしなところが無いか確認する。
先ほどの戦いで爪があたった右肩などは特に注意する。
問題が無いことを確認して、わたしは扉を開けた。
「お帰りなさい」
リビングのドアを開けて、玄関を覗く葵の姿が見える。
その姿は恐らく中学の時のジャージ姿だった。
「たっだいまー!」
わたしは食材の入ったビニール袋を掲げる。
わたしから食材を受け取った葵は、取り合えず準備だけしておく、と言ってボウルに調味料を入れていく。
わたしは、自分の作る生姜焼きとは手順が違うなと思いながら、着替えのため部屋へと入っていった。
わたしも中学のジャージに着替える。やっぱりこの方が落ち着くな。そう思いながらリビングへのドアを開けた。
「はい、どーん! 前田です!」
胸のところの刺繍を両手で前に突き出しながら笑いかける。
「あはは。最上だよ」
下ごしらえを終えて手を洗っていた葵も自分の胸の刺繍を見せてくる。
夕飯までには時間がある。
それまで二人でテレビを見たり、これから始まる学校のことを話したりした。
そんなことをしている間に、そろそろ夕飯にちょうどいい時間になっていた。
葵が料理をしてくれている間、今のうちにわたしはお風呂を掃除することにした。
さすがに掃除くらいは出来る。
「もう、手はへーきなのか?」
お風呂掃除が終わって、湯張りの時間をタイマーにセットしたわたしは、キッチンに立つ葵に声を掛ける。
「うん、大丈夫」
葵はいつの間にか包帯が取れた右手を見せてくる。もう傷はないようだった。
「お腹すいてるでしょ。今お肉焼いちゃうからね」
冷蔵庫からタレが入った大きなボウルを取り出すと、そこに漬けてあったロース肉をフライパンで焼いていく。
わたしの大好物の匂いが、部屋に充満していく。
今日、わたしは赤犬に出会った。
だがそれを伝えるのはよそう。
全ては、彼女が気づかないうちに終わらせてしまいたい。
食事が終わって、二人でダイニングテーブルに座ったままテレビを見ていた時だった。
「凛音ちゃん」
葵が不意にわたしの名前を呼んだ。
「なーに?」
わたしは思わず軽い口調で返す。
だが、葵は真剣な眼差しでこちらを見つめてくる
そんな彼女の眼から感じられる雰囲気が伝わり、わたしはその姿勢を正した。
「とっても聞き辛い事なんだけど、凛音ちゃんのあの、変身した後の見た目……」
葵はやや、目を伏せる。
「どうして、あの姿なのかなって……」
わたしの姿。
少しだけ、心臓が跳ねた。
そんなわたしの様子を敏感に感じ取ったのか、葵は慌てて質問を撤回する。
「ごめんね。聞いちゃいけないことだったね」
「いや、葵さえよければ、話を聞いて欲しいかも。でも、あんまり聞いてて気持ち良い話
じゃないよ。不幸自慢みたいだし」
わたしはそう答える。
わたしは前もって調べられていた葵の過去をブリーフィングの時に聞いている。
彼女自身も巻き込まれ、両親を亡くした悲しい事故の話も、その後の話も全て聞いていた。
こっちはプライバシーに踏み込んでいるのに、あちらからの質問に答えないのはフェアじゃないように感じられた。
だがそれも、詭弁かもしれない。
わたしは聞いて欲しかったのだ。
自分の過去を、そしてそのとき感じた思いを。
やはり、不幸自慢なのかもしれない。
少し長い話が終わって、それを聞き終わった葵は泣いていた。
昨日と逆だな。先日の自分の有様を思い出して苦笑してしまう。
葵が椅子から立ち上がってわたしに抱きついてくる。
今度はわたしが葵の頭を撫でた。
悲しい思い出は、わたし達二人とも沢山持っている。
これからはそれより多くの楽しい思い出を作りたい。
しばらく抱き合っていると、お風呂が沸いたことを示すアラームが鳴った。
「先入っていいよ」
わたしがそう言った後も、しばらく葵は抱きついていたが、ややあって離れた。
葵がお風呂に入っている間、わたしは善治からの連絡を受けた。
『確認が取れた。明日、突入を行う』
具体的な内容は当日集まった際に確認をすることとなった。
電話を切ったわたしは、葵が入ってる浴室のほうを向く。
明日。
わたしは、まだ葵がお風呂にいることを確認すると、初日と同様の行為に及んだ。
「お湯の加減はいかがでございましょ~」
初日と同じような悲鳴が上がる。でもその声には笑い声も含まれていた。
明日だ。
明日終わらせて見せる。
葵と同じ湯船につかりながら、わたしの心は決意に燃えていた。
別題。レッツバスロマン2。