第九話 黒い鬼の力
「怖い思いをさせてごめん」
目の前の人物は、そう言うと、先ほど自分が吹き飛ばした怪物を見据える。
「すぐに終わらせるから」
はっきりとそう告げると、左手を、右手よりも高さと位置を前にして、両手を構えた。
その手の握りは、ゆるく保たれている。
左足が前に出ているため、必然的に右足が後ろに下がっている状態だ。
全身に付いているハッチがわずかに開く。
呼吸音に似た、空気が吸い込まれる小さな音がそこから聞こえてきた。
あれは、空気を吸っている?
灰色の鎧を身に着けた犬の怪物は、それをじっと見つめていた。
だが、次第に興奮を増し、開かれた口から覗く舌の動きと呼吸が荒くなっていった。
先ほどの衝突で破損したであろう鎧は、既にその損傷が判らなくなっていた。
ハッチが閉じる。
それが合図だったかのように、怪物が彼女に飛び掛ってくる。
「あぶな……!」
私が声を掛けるより早く、彼女は動いた。
胸の位置に向かって飛び込んでくる怪物に合わせて、わずかに身体が沈みこむ。
それと同時に、右足が右腰と連動して捻り込まれるように動いた。
だが、そこから先は、まるで見えなかった。
突如として、突風が巻き起こった。
そして一際大きな衝突音と共に、青い火花が怪物から大量に撒き散らされる。
撒き散らされたのは火花だけではなかった。怪物の、血液、そしておそらく牙が空中を舞っていた。
飛び掛っていった勢いよりも速く、またもや怪物は吹き飛ばされていた。
その顔面がひしゃげている。
彼女は右手を突き出した状態で止まっていた。右の拳が血に塗れている。
右手の状態の変化はそれだけではなかった。
およそ確認できるだけの全ての右手側についているハッチが開いている。
一体、何をしたのだろうか。
彼女は吹き飛んで行く怪物を一瞥すると、今度は左手を前に出し、右足で地面を蹴った。
今度は左手側全て、そして右足と背中のハッチが開いている。
同時に、そこから猛烈な勢いで空気が吐き出された。
きらきらと、青い光を伴っている。
それはまるでジェット噴射だった。
相手が吹き飛ぶ速度よりも速く、彼女は前方へ加速すると、突き出した左手で怪物の顔面を掴んだ。
背中のハッチから、先ほどよりも強い光と共に空気が吐き出される。
それは彼女の身体を斜め上へと押し上げた。
彼女は左手は頭を掴んだまま、右肘と右膝で、怪物の首を挟みこんだ。
今度は全身のハッチが開く。
その体勢のまま、今度は空の方向に向かって全身からジェットが噴射される。
美しくも恐ろしい青い光が強く煌いた。
轟音。
結果、彼女が着地した地点のアスファルトは大きく陥没し、そこから放射線状に広がるヒビは数メートルにも渡っていた。
彼女は右膝を立てた状態で止まっていた。
開いていたハッチがゆっくりと閉まっていく。
怪物は、その身体を痙攣させながら、鎧を段々と剥がれ落としていった。
地面に落ちた鎧は、赤い光の粒となって空気中に消えていっている。
痙攣が止まる頃には、完全に鎧など身に着けていないただの犬へと戻っていた。
剥がれ落ちた鎧すらももうどこにも存在しなかった。
目を見開き、舌がだらんと垂れ下がっている。
首は、ほとんど胴体と繋がっていないようだった。
彼女は、頭を掴んでいた左手を開くと、そっと犬の目を閉じた。
そしてその遺体をゆっくりと地面へと降ろした。
静寂が、暗闇を支配していた。
この凄惨な戦いの勝者が、こちらを向く。
「葵……大丈夫だった?」
それはやはり、間違えようも無く、凛音ちゃんの声だった。
血塗れの装甲を身に纏ったまま、凛音ちゃんと思わしき人物が立ち上がり、近づいてくる。
それを確認したとたん、私の身体は糸が切れたように倒れていった。
「葵!」
混乱と、恐怖と、わずかな安堵の中、そこで私の意識は薄れていった。
流血表現登場。基本的に戦いの部分はちょっとグロくなると思われます。