戦いの重み
穴の先に続く、石の階段を三人は慎重に降りた。階段は数段ほどで終わっており、降り切ると辺りは一気に暗くなる。ロトがそこで手早くランタンを取り出し、火をつけた。赤い火がぼうっと燃え上がり、彼らの周囲を仄かに照らす。
アニーとフェイが緊張の面持ちでいると、青年は突然振り返った。
「そうだ。言い忘れるところだったが、いくつか注意することを言っておくぞ」
二人が慌ててうなずくと、ロトは指を一本立てた。
「第一に、単独行動は禁止だ。必ず、俺の後ろについて歩くこと。勝手に動いて迷子になっても、探しには行かねえからな」
「わかった」
アニーが返事をすると、ロトはうなずいて、二本目の指を立てた。
「第二に、動くときはゆっくりだ。何かの気配を感じても、走ろうとするな。ここに棲みついている魔物を刺激するってのもあるが、走った衝撃で遺跡が崩れてくることが一番危険だからな」
これにはフェイが、こくこくとうなずいた。天井が崩落する様を想像したのだろう。ロトは無表情で三本目の指を立て、もう一方の手に持っているランタンを掲げた。
「第三に、明りは最小限のものだけを使う。ランタン一個だ。おまえたちが持ってるのは、予備だと考えてくれ。あんまり明りが多いと、魔物を怒らせる可能性がある」
「そ、それ一個で大丈夫なの?」
アニーが震える声で訊くと、ロトはにやりと笑った。
「魔術で少し、光を強くしてある。道を照らす分には問題ない」
青年の本職を思い出したアニーとフェイは、ほっと息をついた。ロトはそんな彼らの様子に構うことなく、「ほれ、行くぞ」と歩き出す。二人は短く返事をして、その後を追った。
淡々と、無言で歩いていく。時折ロトがつま先で地面を叩いたり、壁を二、三回触ったりしていたが、それ以外は変化のない道のりだった。やがて、沈黙に耐えきれなくなったアニーが、そっと口を開いた。
「ねえ、ロト。ひとつ訊いても良い?」
「なんだ?」
ロトは小声で返してくる。彼女も、小声で続けた。
「ロトが受けたヴェローネルからの依頼って、なんなの?」
彼は歩みを止めなかったが、ちらと背後を振りかえった。アニーがじっと見ているのを確かめて、再び無愛想に前を向く。
「フェルツ遺跡周辺で起きている、魔物の異常発生の調査だ」
「つ、つまり……?」
「最近、このあたりでたくさん魔物が出るんだとよ。普通じゃ考えられない大群がな。それで、原因を突きとめてほしいと依頼されていた」
淡々とロトが言う。その言葉に、フェイが身を乗り出した。
「魔物、ですか。ここまで一体も見ていませんけど……」
彼が疑問をぶつけると、青年は鷹揚にうなずいた。それから、遺跡の入口の方を示す。少しだけ、淡い光が差し込んでいるのが見えた。
「まだ朝方だからな。夕方から夜にかけて、かなり活発になって、街道付近まで出てくることもあるらしい」
「え、ええっ!?」
アニーとフェイは声を揃えて叫ぶ。叫んでから、慌てて口を押さえた。ロトが呆れたようにため息をついたが、すぐに説明を続けてくれる。
「それで、何度か調査に出た結果、俺はこの遺跡が魔物の『発生源』ではないかと考えた。あとは……昨日話した通りだ」
つまり、手掛かりを求めて遺跡に入ろうとしたものの、面倒な手続きを求められたので、依頼を放置してしまった――ということだ。気ままといえば気ままだが、アニーはその話を聞きながらなんとなく、考えていた。
きっとロトは、私たちに出会わなくても、いつかは依頼をこなしていただろう、と。
そんな会話をした後、三人は淡々と歩いていた。一個のランタンだけが、行く先を照らしている。ときおり、ロトが辺りを見回して何かを考え込んでいたが、彼は何も言わない。
どれくらい経っただろう。今度は、フェイが口を開いた。
「あの。『雪月花』がどのへんにあるかっていうのは、確かめなくてもいいんですか?」
ロトは、細い道の先をじっと見た後に、ランタンを掲げた。
「ああ。鉱脈があると判明しているのは、もっと奥の方だから。それにこの辺には、魔力の石の気配がしない」
それを聞き、アニーは眉を寄せる。ロトが魔術師だということを思い出していた。
「ついつい、ロトの本業って、忘れそうになるなあ」
「覚えててもらわなくても支障はない。むしろ、魔術師うんぬんは気にしないでもらえた方がいい」
てっきり無視されるか憎まれ口を叩かれるかのどっちかだろうと思っていたアニーは、思わぬ返しに目を見開いた。疑問と不安と好奇心に満ちた目で、青年の背中を見上げる。
「え? それってどういう」
しかし、言葉を続けようとしたアニーを、ロトは手で制した。ランタンを掲げると、口の中で何かを唱える。すると、火の光が、徐々にしぼんでいった。
ぽかんとしている子供二人を振りかえらずに、彼は言う。
「フェイ、下がってろ。アニーはいつでも剣を抜けるようにしておけ」
ランタンの光が小さくなる。ロトは、半歩後ろに下がってきた。初めてそこで振り返り、暗い海のような瞳で、アニーをひたと見据える。
「武器を取れ。――来るぞ」
直後、道の向こうの暗闇から、不穏な音がした。
ロトが手ぶりでアニーを呼ぶ。前線に出ろ、という意味だ。アニーはうなずいてロトの前に出ると、腰に下げた鞘から、すらりと剣を抜き放った。普通の剣より短い。が、刃は本物だ。わずかな明かりを受けて、白刃がちかりと煌めく。
同時に、闇の先で何かが動いた。バサバサとやかましい羽音が辺りを包む。アニーが構えをとると、上空から黒い塊が飛来した。塊が低空飛行をしたところを狙って、アニーは思いっきり剣を叩きつける。刃はあっさりと塊を両断した。そして塊は、赤黒い血を噴き上げながら地面に落ちた。
「血の色が違う……」
「魔物だね」
背後から、フェイの震えた声が聞こえてくる。それに、アニーは答えた。
刹那。突然、アニーの右耳のあたりが熱くなった。はっとして彼女が前を見ると、襲撃者が炎の矢に貫かれたところだった。火に照らし出された姿は、コウモリだった。コウモリは、目を見開いてギッ、ギギッと鳴くと、焦げて崩れ落ちた。
「油断するんじゃないぞ!」
斜め後ろから大声が聞こえる。アニーは少しだけ首を傾けて、声の主を――ロトを見た。彼は右手を前面に突き出しており、その前には赤い光で形作られた魔方陣が浮かんでいる。
「ありがとう、ロト! そうしてると魔術師らしいね!」
「阿呆、言ってる場合か。あと、あんまり俺をあてにするな。そんなたくさん魔術を使えないからな」
「……どういうこと?」
「ちょいと事情があるんだよ。それより、来るぞ」
ロトに促され、再び前を見たアニー。しかし彼女は、顔を引きつらせた。羽音だけでなく、キィキィと甲高い鳴き声まで聞こえてくる。彼女の目の前は、黒い塊で埋め尽くされていた。しかも、一対の赤い光がたくさん見える。
「目、光ってるぅ……。これはさすがに気持ちが悪い」
呟いて、彼女が半歩後ずさりをすると、ロトの声が聞こえた。
「厄介な大群だな。――アニー! おまえは死なないことだけ考えて、とにかく戦え!」
「わ、わかった!」
アニーはうなずき、剣の柄を握り締めた。手が汗ばんでいる。口が渇く。こんなに緊張した戦いは初めてだ。初めての、模擬戦ではない、命のやりとり。
わずか十一歳の少女は、洞窟の路地の真ん中で深呼吸をする。まるでそれが合図だったかのように、コウモリの大群が飛びかかってきた。
殺気立った鳴き声を聞きながら、アニーは単身群れへと飛びこむ。次々と、コウモリたちを切りはらっていった。もう無我夢中で、何をしているのか分からない。だが確かに、アニーの握る剣は、コウモリを切り、薙ぎ、刺していた。横から羽音が聞こえると、彼女はぱっと体を反転させて、襲撃者の体を突いた。続けざまに剣を回転させて、一匹を切りはらう。続けて襲ってきた二匹を見たアニーは、腹に力を込め、鋭い裂帛とともに、一気にそれらを両断した。
アニーの大立ち回りの間を縫うようにして、火の矢や氷の刃が、コウモリを撃ち落としていく。彼女は気付いていなかったが、その援護のおかげで、背後を気にせず戦うことができていた。アニーに対して、「当てにするな」と彼は言ったが、実力は、十二分に戦場において通用するほどだったのである。
血と悲鳴が迸る。アニーは夢中で剣を振っていた。必死すぎて、自分が本物の戦場に恐怖しているのだという自覚さえ、なかった。
彼女の握る剣が、コウモリの群れの、最後の一匹を切り裂く。ギギッと悲鳴を上げてコウモリが落ちると同時に、辺りは静寂に包まれた。剣を構えた姿勢で固まっていたアニーは、はっとして腕を下ろす。
狭い通路は、血と亡骸の山になっていた。地に落ちたコウモリたちは一匹も動かない。切り裂かれているものだけでなく、炭と化しているものや、氷漬けのものもいた。
「これが……」
アニーは力の抜けた声で呟く。血の気が引いていくのを感じた。
これが戦い。これが、命を奪うということ。――そして今回、命を奪ったのは、自分だ。
事実に気付いた途端、足先から脳天まで、一気に寒気が駆け抜ける。ふらついて、剣を落としそうになる。だが、彼女がへたり込みそうになったところで、体を支えられる感覚があった。少女が顔を上げると、目の前に魔術師の青年がいる。
「初めての実戦にしては、よくやったと思うぞ。――お疲れさん」
「うん……」
無愛想には変わりなかったが、そう言われた途端、目頭が熱くなる。アニーは、唇を噛んでうなずいた。するとロトは、彼女の肩をいささか乱暴にどやしつける。
「ほれ、しゃきっとしろ! まだ遺跡に入ったばっかりだぞ! ま、吐いたり小便漏らしたりしなかっただけ、大したもんだけどな」
「――! や、やめてよぉっ!」
ロトにそう言われた途端、アニーは眦をつり上げてぱっと体を起こす。下品な物言いをされたことに、少し腹を立てた。
だから彼女は、怒った自分を見てロトが微かに頬を緩めたことに、気付かなかった。
アニーがぷりぷり怒りながら剣を鞘に収めている横で、ロトが振り返る。それから大きすぎず小さすぎない声で、残る一人を呼んだ。
「おい! そっちは大丈夫か?」
「そっち」というのが幼馴染のことだと気付いて、少女は慌てて振り返る。同時に、少し離れた岩陰からフェイが姿を現した。言葉はない。彼は小刻みに震えながら、こくこくと何度もうなずく。涙目で二人のを順繰りに見てから、その涙を両腕でめちゃくちゃにぬぐった。
「す、すみません……本物の戦い、なんて、初めて見たから……」
フェイがしゃくりあげながらそう言うと、ロトは安堵とも呆れともとれる表情で、肩をすくめる。
「最初はそんなもんだ、気にするな。そのうち慣れる」
「ほんとですか……?」
「本当だ。多少なりとも戦いをする人間なら、誰もが通る道だからな」
フェイが訊くと、ロトはさらりと答えた。それから腰を上げる。自分の得物を確かめていたアニーはその姿を見て、ぽつりと問いかけた。
「誰もが通る道……ロト、も?」
彼は、ほんの一瞬動きを止めた。だが、すぐに、何事もなかったかのように口を開く。
「ああ。それに俺は、戦い以前にもっとむごいものを見た」
淡々と言う彼の目には、翳りがある。二人の子供が眉を曇らせると、彼はぱんっと手を叩いた。
「さあ、行くぞ! 風の流れから考えるに、この先に少し広い空間があるはずだ。そこまで行ったら、休憩にしよう」
ことさらに明るい青年の声は、アニーたちの胸に深く染み込んだ。