守護獣
獣の姿は実に奇妙なものだった。少なくともアニーには、そう見えた。
全身を覆う白銀の毛。同じ色の耳は、三角にしては先がやや丸い。金色の目は猫を思わせる。顔かたちもどことなく猫っぽかった。けれど、尻尾は犬や狼のように毛で覆われた太いものだ。
「なんなの、こいつ……」
剣を抜くことすら忘れて突っ立っていたアニーが言う。隣で呆然としている、彼女の幼馴染は顔をしかめた。
「虎みたいだな……」
独り言のような、うわごとのような言葉だった。アニーは耳に馴染みのない単語に反応し、思わずフェイを見る。
「とら? 何それ」
「別の大陸にいる動物で、猫の仲間らしいよ。前に、本で読んだ」
フェイはアニーの問いかけにすらすらと答えたあと、ロトを見上げた。こわばった目はけれど、緊張とは無縁の好奇心を投げかける。
「ロトは見たことある?」
「ないな。確かに図鑑で見たことはあるが、実際にお目にかかったことはない。そもそも、北大陸に虎はいない」
ロトは無感情な声で答えた後、小さく「あれは寒いところにはいねえよ」と付け足した。それから彼は、きっと目の前の獣をにらむ。面倒くさそうだった表情が、一瞬で引き締まった。
「今は、そんなのん気な会話をしている場合じゃないな」
ロトの言葉を受けとめて、子どもたちはようやく、事の深刻さを理解する。二人揃ってごくりと生唾をのみこんだ。しかし、その後の動きは早かった。フェイは何も言われずともアニーとロトの後ろに隠れ、アニーは無言で剣を抜く。
このときだけは、小さなわだかまりを忘れ、少女は青年を見た。
「それで、あれはなんなの?」
「おそらくだが……守護獣だ」
「守護獣って、昨日話してくれたやつ?」
アニーは目を瞬いた。何気ない会話の中に紛れ込んだ情報を思い出そうと、必死になる。少し悩んでいると、ふいに青年の声が頭の奥に閃いた。守護獣のことを「番犬の魔物版」のようなものだと彼は言っていた。そして、「大事なものを守っている」とも――
「ひょっとしたら、この先にあるのかもしれない」
何が、とはあえて言わない。アニーが呟きながら剣を構える横で、ロトが不敵に微笑んだ。
「ああ。――出くわしたら戦うしかないって言ったのは俺だけど、こんなに早く自分の言葉が現実になるとは思わなかったな」
皮肉めいた彼の呟きが、宙に消えていく。
同時に、守護獣の瞳が二人を捉えた。喉の奥で低くうなった獣は、直後、大きく口を開いて吠えた。獣の咆哮は大気を震わせ、体の中に渦巻いていた力を容赦なく外へと放出させる。素人のアニーですら、その大きさを肌で感じ取れるほどだった。
守護獣は足をたわめる。アニーもロトも同時に構えを取った。
白銀の足が地面を蹴る。太い五爪がアニーに向かって振りおろされた。空気がうなるほどの強烈な一撃に少女の体が竦む。だが、爪が彼女の体を引き裂く前に、攻撃は見えない壁に阻まれた。獣が弾かれるように後ろへ跳び、困惑したようにうなる。アニーも一瞬、呆然としかけたが、すぐに剣を握って駆けだした。怯んでいる獣に向かって剣を一突きすると、刃は獣の胴体の肉をこそぎ取った。銀色の毛が宙を舞い、怒りの咆哮が天を覆う。
アニーはそのまま追撃を加えようとした。――が、襲い来る衝撃を感じて踏みとどまった。鋭い一撃が宙を薙ぐ。少女は、身体を逸らしてぎりぎりのところで攻撃をかわした。深く身を沈めて、慌てて後退した。そして獣の様子を見て、愕然とする。
「傷が……ない?」
手ごたえは確かにあった。
しかし、守護獣の体のどこにも、傷は見当たらない。だが、床に血の滴が落ちているので、アニーが傷を付けた気になっていただけというわけではないようだ。ということは、考えられる可能性はひとつ。
「傷が、治っちゃったってこと?」
「守護獣の、最大の特徴だな」
横から青年が言った。アニーがその方を振り向くと、ロトは額に滲んだ汗をぬぐいながら敵を睨みつけているところである。彼は、淡々と少女の言葉に答えた。
「『あれ』は魔物の中でも特別だ。役目を終えるまで、死ぬことはない。傷を負ってもすぐに治ってしまう。致命傷も同じだ。――もっとも、深い傷なら治るのにも時間がかかるらしいが」
「ほぼ無敵じゃない! そんなのあり!?」
「まあ……人の手で造られた生き物だっていう説もあるくらいだからな。自己再生くらいはできてもおかしくない」
ロトの口調は、場にそぐわないほど軽い。だが、表情からは明らかな緊張が見て取れた。少女の、剣を握る手にも自然と力が入る。固まりかかった血を力任せに払い落したアニーは、獣の動きから目を離さないまま、ロトに問いかけた。
「でも、どうすればいいの? 勝てないじゃない、そんなの」
「方法は、一応ある」
魔術師の青年は、あっさり言った。言い回しに自信がなさげなのは、慎重になっていることの表れだろう。アニーはじっと彼を見つめ続ける。
「守護獣には、『弱点』が必ず一か所あるらしい。そこは一番再生に時間がかかるし、長い間守護獣の動きを止めておくことができる」
ゆっくりと語られた言葉をアニーはのみ込んだ。そして、鈍く光る自分の剣を睨む。曇った刃に、険しい少女の顔が映った。
「つまり、『弱点』さえ見つけて攻撃できれば……」
「少なくとも、『雪月花』があるかどうか、調べるだけの時間は稼げるってこった」
「勝てるわけじゃないんだ」
アニーが思わずそう呟くと、ロトは軽く顔をしかめた。だがすぐに、内心の不快感を隠して、冷え切った表情になる。
「十分だ。勝つのが目的じゃないからな」
彼が言うと同時に、その目が細められた。視線はそっと、横から前へと移動して、低いうなり声を上げる獣を捉えた。
「無駄話をしすぎたな。いいかげん、虎が怒ってる」
深い青の瞳が、氷のごとき冷たい光を放つ。白銀の獣が臨戦態勢を取った。少女も剣を構える。がり、と微かに床をひっかくような音がした。
訪れる一拍の沈黙。――破ったのは、獣の方だった。銀色の四肢に力が込められた直後、その姿がぶれる。鋭い風を感じて、アニーが剣を構えた。同時に、ガリガリッと鉄を石でひっかいたような金属音が響く。虎の爪の残像が見えて、少女の手に痺れが走った。
アニーは細く息を吸い込んで、剣を振った。すると、空中に現れた獣の体が後ろに跳ねる。そこに追い打ちをかけるように、アニーの後ろから獣めがけて氷の矢が放たれた。
氷の矢はまっすぐに虎へ向かう。虎の形をした守護獣は、右前脚を支点として体を回転させると、太い尾で矢の一本を薙ぎ払った。しかし、防御の隙をついて飛んだもう一本の氷の矢が、銀の体毛で覆われた背中に突き刺さる。
赤い血の飛沫が飛んだ。獣の咆哮が白い部屋を震わせる。痛みに苦しんでいるというよりも、怒り狂っているような激しさがあった。容赦なく耳をえぐってくる鳴き声に顔をしかめたアニーが、嫌そうに口を開く。
「こんなんじゃ、弱点なんて見つかりっこないじゃない」
苦々しげに呟いた少女は、剣の柄を握りしめる。海色の瞳で守護獣を見据えた。
直後、守護獣の体から氷の矢が弾け飛び、背中の傷がみるみる癒えていくのを捉える。猫のような金色の瞳は、怒りと闘志でめらめらと燃えていた。
このまま防戦一方では、弱点を攻撃するどころの話ではない。それが事実である一方で、アニーとロトだけでは守護獣とまともに張り合うには戦力不足、という現実もまたあった。アニーがもっと熟達した剣士であれば、あるいはロトが制限なく魔術を使えれば話は変わってくるが、ないものを望んでも仕方がない。
アニーは焦っていた。自分たちはこんなところで足止めされているわけにはいかない。それに――こんなところでやられるほど弱いとは、思いたくなかった。
唇をかむアニーに、ロトがやや後ろから声をかけた。
「弱点を見つけるには、むやみに突っ込んでいっても意味がない。少しずつ攻撃をしながら、様子を見るしかないだろう。今は、逃げ腰になるくらいがちょうど良い」
「……うん」
内心を見透かされたかのような言葉に、アニーはただうなずくしかなかった。その様子に何かを思ったのか、ロトはじっと彼女を見つめてくる。
だが、ゆっくり話をしている暇はなかった。すぐに硬い地面を蹴る音がする。アニーは慌てて振り返った。同時に、ロトが魔術の氷を飛ばす。五本続けて放たれた氷の刃は、白い空間で鋭く光った。
氷刃はまっすぐに飛び、獣の顔を狙う。獣はそれを睨みつけると、深く息を吸い込んだ。何か分からずアニーは剣を構えたが、横ではロトが顔をこわばらせる。彼はすぐに振り向いて叫んだ。
「全員、耳をふさげ!」
アニーはその大声に驚いて、剣を近場に放り投げると同時に耳をふさいだ。――そよ風が、肌をなでる。
一秒も経たないうちに、すさまじい咆哮が遺跡を揺るがせた。空気がびりびりと音を立て、大地は今にも崩れそうなほどに鳴動している。耳をふさいでいても、凄まじい雄叫びは耳朶を打った。
「つっ……」
耳の奥に鋭い痛みが走り、アニーは思わず顔をしかめた。
少しして、叫び声は収まる。辺りに、先程までの衝撃が嘘のような、冷たい静寂が広がった。アニーはそれに気付くとぱっと耳から手を放し、剣を拾い上げる。耳の奥が痛い。頭もくらくらする。だが、それだけで済んでいた。
アニーは構えを整えながら横を見て、驚いた。
ロトが眉をしかめ、息を切らせている。額にはじっとりと汗がにじんでいた。左手の先には、消えかかっている緑色の魔方陣が浮かんでいる。アニーは、さっきの叫び声でさほどひどい目に遭わずに済んだ理由を、初めて悟った。彼が風で、音を少しさえぎっていたのである。
「ったく。氷を割るためだけに、あそこまでするか? 普通」
彼は悪態をつくと、呼吸を整えて姿勢を正す。
アニーは切りこむ隙を探った。そのとき、隣から青年の呟きが聞こえる。
「前言撤回、か? このままじゃ、まともに攻めるのすら難しそうだな……」
いつも、苛立っているか落ちつき払っているかのどちらかである彼の声は、切羽詰まっているようだった。ところどころに荒い息遣いが混じっている言葉を聞いて、アニーは奥歯を噛みしめる。
なんて弱いんだろうと、思った。何もできないことが、ただひたすらに悔しかった。
じりじりと時間だけが過ぎる。獣はうなっているだけで、積極的に攻めてこようとはしなかった。胸が締め付けられるような空白のあと――獣の目が、動く。
金色の猫目は、アニーから逸れて、ロトの方を見た。細い瞳の中心に殺気が走る。
瞬間、アニーは大きく踏み込んだ。
今、守護獣は自分を見ていない。倒すべきものとして考えていない。なら、その油断につけこむだけだ。
アニーは裂帛の声とともに、獣の右足を切りはらう。鮮血が噴き上げ、咆哮が上がった。あまりの威圧感に怯みかけた少女はしかし、動かなくなりそうな自分の両足を叱咤して、獣の正面から離れた。すると、先程までアニーがいた場所に爪の一撃が叩きこまれた。硬い地面に穴があき、岩の破片がばらばらと飛び散る。
アニーは素早く、獣の左足の方に回り込んだ。わずかに見える横顔は、激しい怒りで引きつっている。その足元に向けて炎の球が飛ぶが、守護獣はすべてを避けてしまった。巨体に寄らず俊足だ。アニーは少し離れてぶれる獣の体を観察した。そして、残像が消えて実体が現れた瞬間を狙い、再び剣を手に突っ込んだ。獣は気付いていない。
腕を後ろに引き、銀色が見えたところで思いっきり突き出す。今度の一撃は突きだ。赤い血が噴き出すとともに、ずん、と思い手ごたえが少女の腕を駆け巡る。アニーは思わず歯を食いしばった。
獣の目がその方を向く。自分がまた攻撃されたことに気付くと、守護獣は体を激しく振りまわし始めた。体が強く引っ張られるのを感じたアニーは、慌てて両足で踏ん張る。
それでも、力の差は一目瞭然だ。暴れ狂う巨体の力に耐えきれず、小さな体がじりじりと引きずられはじめる。アニーは両腕に、そして全身に、力を込めた。
剣を深く差し込もうとして、思いとどまる。
刹那、少女の身体が浮き上がる。
縦横に振りまわされる獣の身体に振りまわされ、少女の体は一緒に宙を舞おうとしていた。
「ちょ、嘘!」
アニーは咄嗟に剣を引っ張った。全身全霊を腕に込め、無我夢中で後ろへと力を入れる。大きく飛ばされそうになった直後、努力が実って、剣は獣の体から抜けた。血に濡れた刃先が見えたとき、アニーは束の間表情を緩める。
だが直後、彼女は後ろに思いっきり弾かれていた。
視界がぐるぐると回転し――ふわり、と刹那の浮遊感のあと、悲鳴を上げる間もなく衝撃が走る。轟音がやけに遠く聞こえた気がした。目の前が白くなり、息がつまりそうになる。
やがて、体中を駆け巡った痛みが引き潮のようにおさまっていくのを感じたアニーは、起き上がろうともがきはじめる。だが、すぐに固まってしまった。
猫のような目を、真正面から見る。それほど近くにいるわけではないのに、なぜかすぐ近くで睨まれているように錯覚してしまった。
守護獣は、怒り狂っている。目がぎらぎらと輝き、歯はむきだしになっていて――口の奥には、膨れ上がる銀色の光があった。
それがなんなのか、すぐに気付いたアニーは、顔色を失った。
「うそ、でしょ」
驚きに満ちた言葉も、今はかすれている。
――魔物は、魔力を持っている。だから魔術に似た力を使うことができる。
ならば「番犬の魔物版」である守護獣も、同じような力が使えるはずだ。
銀色の光はみるみるうちに大きくなっていく。まばゆい輝きは、少女の目に焼きついた。
もうだめだ。ふとそう思う。
剣を握る右手から力が抜けた。どこからか、名前を呼ぶ声が聞こえる。一回か、二回か。 死ぬかもしれないと思った。けれど怖いのと痛いのは嫌だった。だからアニーは、ぎゅっと目をつぶった。
しかし、いつまで待っても焼けるような痛みが来ない。
それどころか、感じていた光や熱が消えていくのが分かる。遅れて、遠くで雷鳴のような音が轟いた。
不思議に思ったアニーは、おそるおそる目を開ける。そして驚きのあまり、絶句した。
怒りに満ちた守護獣の姿はない。
代わりにあったのは、うす青い光をまとった、青年の背中だった。




