騒がしい日常
作戦を決行するには、絶好の天気だ――と、アニーは思った。
空は蒼く澄み渡り、風はほとんどない。さらに、見下ろす中庭に人の姿は見当たらなかった。寂しいほどに閑散とした緑の庭を見下ろしながら、アニーは金の三つ編みを揺らして、むふん、といたずらっ子のように笑う。
そんなとき、下から声が聞こえてきた。
「ア、アニー! やめようよお!」
声に気付いた少女は、この庭でもっとも大きな木の上から、声の主を見下ろした。それは、木の根元に立って必死に手を振っている十歳ごろの少年である。短く切った茶髪に優しそうな目もと。おろおろと木を見上げる姿は、彼の気弱な性格をよく表しているようだった。
最高の気分に水を差されたアニーは、むっと顔をしかめて、少年を睨みつけた。
「何よフェイ! ここまで来て怖気づいたっていうの?」
「ぼくは最初から賛成してないよー。アニーが勝手に決めたんじゃないか!」
泣きそうな顔で言うフェイ。とにもかくにも、幼馴染の悪行――悪戯を止めようと必死だったのだ。しかしアニーが聞きいれるはずもない。彼女は木の上に仁王立ちをしたまま、そっぽを向いてしまう。
「そう言うんだったら止めないでよね!」
「立入禁止の準備室に入ろうとするなんて、止めるよ普通!」
フェイの絶叫は、静寂の中にむなしく響いた。
アニーはそれをさらりと無視して、軽々と体をひねると、庭を囲んでそびえる白い建物に向きあった。彼女が見ているのは、木に近い窓である。ランプなどの明りは灯っていないのか、中はまっくらだ。人影も見えない。薄暗がりにまぎれて、中にある木剣や防具の形がぼんやりと浮き出ている。
アニーはひとつうなずくと、その場で両足に力をこめた。木の枝がみしり、と音を立てて軋む。枝が重みに耐えきれなくなる前に、少女は勢いよく枝を蹴った。すると、小さな体はかろやかに宙を舞った。
「よっしゃあ!」
アニーは空中で叫びながら、器用に体勢を整える。勢いに任せて飛んだ体はそのまま、彼女が先程見ていた窓の、すぐ下の壁にぶつかりそうになった。しかしアニーは手を伸ばし、すぐ上の窓枠をしかとつかむ。
そのまま彼女は、窓枠にぶら下がった状態になった。少し低くなった景色を眺めた少女は、にやりと笑う。
「よしよし、と」
遠くから少年の声が聞こえた。止めようとしているのは確かだが、アニーはそれを無視する。両手で窓枠をがっちりつかみ、指の先に力を込めると、腕を曲げる。反動でぐんと上に動いた体をそのままひねり、彼女は窓の内側に足をかけた。笑みを抑えきれないアニーは、その体勢のまま、幼馴染の少年を振り返った。彼は、唖然としてこちらを見ている。
「いっくよー、フェイ!」
アニーが呼びかけると、フェイははっと目を見開いた。それから、慌てたように叫ぶ。
「も、もうやめなよ!」
「だーいじょうぶだって」
もうすでに両目に涙をためているフェイ。アニーは彼に向かってにこやかに手を振った。
――そのとき。窓枠に引っ掛けていた左足が、ずるりと滑った。
「あ」
間抜けな声を上げた少女は、直後、部屋の中へと転げ落ちる。視界はぐるぐると回転し、やがて黒くなった。
「ぎゃーっ!」
木の板が割れるような、けれどそれよりもっと激しい音が、薄暗い部屋に響き渡る。
自分が部屋の中の物に体をしこたまぶつけた音を他人事のように聞いたアニーは、やがて目を開けた。
「いったー……」
細い声が漏れる。アニーの視界はさかさまになっていた。彼女はどうにか、崩れ落ちた大量の物の中で起き上がると、物の山から抜け出した。
「はー。まったく、なんで武器と防具が積み上がってるのよー」
物に責任を押し付けたアニーは、ざっとそれらの山を確認した。自分が落ちたせいで壊れてしまっていたら、さすがにまずいと思ったのである。
この部屋に押し込められている物は、剣や盾、弓、それから防具に的などである。ただし「練習用」なので、たいていが木製、質がよくても青銅製だ。埃っぽさと戦いながらアニーは必死にそれらをかきわける。
――やがて彼女は、練習用の木剣の一本を掴んだところで、はたと手を止めた。
下町の武器屋ですぐ買えそうな木の剣。その長さや幅は、六~十歳の子供用に調整されているらしく、柄はアニーの手にもしっくりなじんだ。目立つ傷もない。問題はその上だ。
刃の上半分が無い。どう見ても折れている。
そしてどう考えても、さっきの落下が原因だ。通常、女の子一人の体重で折れるようなものではないが、窓枠から落ちて踏みつぶしたともなれば話は別である。
さっと青ざめたアニーは、自分の右足が何かを踏んでいることに気付いた。そっと足を上げると、そこには木の棒がある。いや、正確には折れた痕がある木製の刃先が。
「あ、ははー……」
乾いた笑い声を上げたアニーは、よろよろと窓の方に歩いていった。身を乗り出すと、中庭で立ちつくしたままの少年に声をかける。
「どうしよー、フェイ!」
「何。何やったのー?」
同年代の少年は、疲れ切ったような声で叫びかえしてくる。もう六年の付き合いになる彼に向かって、アニーは爽やかな笑みを浮かべた。
「戦士科の木剣、折っちゃった!」
一瞬、辺りが静まりかえる。そして。
「――はあっ!?」
フェイの悲痛な声が、学び舎の庭に響き渡った。