拝啓、優しい嘘つき様
コツコツコツ……。規則正しく音を鳴らしている革靴は、ある扉の前で止まった。
そして、扉を軽く叩く音が静かな廊下に響いた。
「おはようございます、お嬢様」
私は夢想する。
例えば、王宮から逃げて、自由に暮らせたらどんな生活なんだろう、とか。
誰も知らないところへ行って見たい、とか。
そんな話をあの人にすると、じゃあ今は早く治さないとね、って返してくる。
治すことが先決なのはわかってはいるけれど、簡単に決断できたら苦労しない。
だから、少し現実から逃げている今だけでも、淡い夢をみさせてほしいだけなのに。
「お目覚めですか?」
微睡みの中であの人の声が聞こえた。また朝がやってきたのか。
「今日こそ手術しませんか?」
目を開けると、ベッドの脇に立っていた柊がにっこり笑って言う。
彼は数年前に父から指名された、私専属の侍医。
「…ずいぶん縁起の悪い朝の挨拶ね」
刷り込み学習が有効だと聞きまして、試してみようかと。
などと、笑顔を貼り付けたまま続ける。
「おはようございます、柊」
「おはようございます、お嬢様」
「今日は朝食後、健康診断がございます。その後は公爵とお勉強の時間。
午後からは隣国王子の朔弥様がお見舞いにいらっしゃいます」
「また来るの?」
あからさまに不機嫌な声を察したのか、柊は一旦口を閉ざした。
「と、仰いますと」
「あの王子、先週も見舞いに来たじゃない。何でそんなに…」
「お嬢様の容態がご心配だからでしょう?」
「別に、私は王子との「婚約を受け入れたわけじゃない、とでも仰りたいのですか」」
低い声に遮られて、今度は私が言葉に詰まる。
見上げると、柊は目を細めて私を見つめていた。
「ワガママお嬢様、少しはお父上の言葉に耳を傾けなさい」
「柊…わ、わかってるわよばか!」
厳しい言葉に知らず知らずのうちに目に涙がたまってゆく。
「なぜそこまで嫌がるのですか? 王子とのご婚約。
あちらの国は緑も海も資源も豊かで、長い目で見ても安定的な国だ」
「だって、婚約を決めたら、手術しろっていうでしょう?」
「それは当然のことです。婚約のために手術が条件でも、入っていなくても」
柊の変わらない優しい口調が、このときばかりは少し憎らしく思う。
私の気持ちなんてなんにもわかってないくせに。
「あなたは、それでいいの?」
「勿論でございます。
主治医としてまた一使用人としてお嬢様が元気で幸せになることが、1番望んでいることですから。
むしろ、それ以外に何を望めと」
私の頬を手のひらで包みながら首をかしげる彼は、
どこまでも私に甘い、ただの主治医でしかない。
「私は、嫌だわ。手術したくないし、ここを離れたくない」
手術をしたら結婚させられて、この王宮にはいられない。
それはつまり、主治医の柊とは離れ離れになってしまう。
私とあなたが一緒に居られるのは、私が寿命と引き換えにしている、
手術を受けるまでの執行猶予期間のみ。
「今日も説得失敗ですか。まあ、お嬢様と一緒にいる時間も好きですし、負けてあげましょう」
ゆっくりと私から離れてゆく。細くて伸びるような指。
「あの…ひいらぎ?」
「私は、嘘はつきませんよ。私は貴方が大事だから、厳しいことも言う。
私の幸せは、貴方の幸せですから」
大事と言いながら私が不幸になる決断を迫っていることを、彼はわかっているのだろうか。
わかっていて、これが彼なりの優しさなのだろうか。
彼の幸せが私の幸せ、という言葉の意味は、、、
「朝食の時間だわ。佐倉さんが待っているから、行くわね。柊も一緒に食べる?」
「いえ、私は別でいただきますよ」
「そう? 残念だわ」
無理やり考えを断ち切った。
彼は私と一緒にご飯すら食べてくれない。
立場をわきまえてのことだと分かっていても、少し悲しい。
そんな人とずっと一緒に居たいだなんて、結局叶わぬ願いなのだと思い知らされる。
今日はいつもより調子がいい。身体の痺れもあまりない。
手を借りなくてもベッドから降りられるかもしれない。
でも、いつも通りに
「柊、手を」
声をかけるだけで的確に私の身体を支えつつ手を差し出して、ベッドから降ろしてくれる。
ありがとうと笑顔で言うと、柊は、いえいえと少しだけ笑う。
「食堂まで付き添いましょうか?」
「大丈夫、今日はそんなに痺れてないし。少しでも歩かないと、ね」
心配そうな顔をするのはまさしく医者の顔で、
何かあったらお呼びくださいねとベルを机から渡してきた。
「じゃあ、また食後に」
そう言って、私室からゆっくり出て行った。
お嬢様が去る姿を認めて、ふぅと一息つく。
ただの主治医のくせにと毎回彼女に睨まれながらも、
健康を祈る身としては手術を進言せずにはいられない。
彼女が自分に向ける視線に色を感じつつも、
決して気付いてはいけないものだし、
気付いたら最後どこまでも堕ちてしまうような気がする。
確証など、このような類では持ってはいけない。
だから、貴女の想いに気づかないふりをしよう。
貴女が命を削ってでも僕との時間を選ぶなら、応えよう。
そうすれば、、、
嘘をつかないという嘘をつくことで、
今選ぶことのできない未来をつかめるかもしれない。
とりとめもないことを考えている自分を振り払うように、
カルテを片手に、医務室へ足を向けた。
最後までお読みいただき嬉しい限りです。
ありがとうございました。