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回想電車

作者: 木尾荷悠

 一人で乗る電車は初めてではないが、独りを求めて乗る電車は初めてだった。三十路にもなって何をやっているのだろうと思う理性は、本来降りるべき場所と共に離れていく。

 ――ああ、やってしまった。これでは出勤に間に合わない。

 思考とは裏腹に自分の口角はつり上がっていた。どこからともなく沸き起こる充足感を抑える術を知らない僕は、独り……笑っていた。

 都市の中心部に位置する駅から二、三駅過ぎると喧騒の渦から解放され、季節に似合わないひんやりとした風が心に吹き、凍てつかせた。

 もう、この車両には僕を含め数人しかいない。皆、どこへ向かうのだろうか。もしくは、僕のように全てを放ってしまいたい人達なのだろうか。人一人分空いた横に座る少女は、端の優先座席に座る老婆は、僕の斜め向かいで眠る初老の男性は、目的地があるのだろうか。


「貴方も独りを求める人なんですね」


 不意に左側から女の声が聞こえた。振り向くと、制服を着た少女だ。僕と人一人分という距離、そして、彼女は前を見つめたままでこちらを見ていない。だが、そうだ、これは彼女の独り言ではない。僕に向けて言ったものなのだと、確信に近い何かがあった。


「ああ、安心してください。私は怪しい者ではないので」


 僕は思わず吹き出す。


「普通、それを言う側は僕のほうじゃないのかい?」

「ピチピチの女子高生が、自分の父親と変わらない年齢の男性に話しかけるのは普通ですか?」

「ピチピチじゃないから普通だな。それと僕は30歳だ。おっさんの領域に片足突っ込んじゃいるが、おっさんじゃない」

「悲しいですね、30過ぎれば要介護という諺を知りませんか?」

「ここまで生きてようやく分かるんだよ、20代までは子供と変わらないんだとね。つまり君は今、世の中の大人を全員敵に回したんだ。これは形ある謝罪をしてもらわないといけないな」

「子供を強請りますか、こんな大人にはなりたくないものです」


 そう言って彼女は大げさに肩を竦める。これまで、制服を着た少女は一度としてこちらを見ていない。


「……もう、授業始まってるんじゃないのか?」

「そうですね、それがどうかしましたか?」

「……いや、なんでもない」

「貴方はスーツを着ていますが、今日は仕事なんでしょう?」

「そうだね、それがどうかしたかい?」

「……いえ、なんでも」

「……」

「……」


 自ら生んだ沈黙。しかし、いつものような不安はなかった。

 扉の開閉が二度起き、幾度目かの揺らぎに誘われようかという時、再び彼女のほうから口を開いた。


「人間関係とは、なんとも面倒ですね」

「そう、だね。年に数回は全てリセットしたくなる。これがゲームならば何度リセットボタンを押してるか分からない」

「知ってますか?最近のゲーム機ってほとんどリセットボタンが無いんですよ?やっぱり時代の差を感じますね」

「そうなのか、しばらくゲームなんてしてないから分からなかった」

「昭和の壁」

「……」

「昭和の壁」


 彼女は僕との間に右手を泳がせ、見えないバリアのようなものを敷く。その行動を終始冷ややかな目で見ていたが、どうやらこちらを向かない彼女には効果が無いようだ。

 二度目の沈黙。しかし、今回はすぐに破られた。またしても彼女によって。


「やっぱり、戻らなくちゃいけませんか?」


 これまでとは打って変わって悲痛な面持ちになる彼女。


「……戻りたくないのかい?」

「戻らなくてもいいのなら、戻らない……でも全てを捨てたら生きていけなくなる。こんなの……植物じゃないですか。根を張らないと生きていけないなんて」

「……」


 人間は窮屈だ。なまじ意思を持つ分、植物よりも酷くそう感じるのかもしれない。

 よく人を鳥に例え、不自由さを鳥籠で表現されることがよくあるが、僕は違うと思う。なぜなら、鳥は籠という加護が無くても生きていける力があるからだ。だが、人間は動物との境界線を引くために、自らの矜持を保つために、「人」という文字をそのままの意味にさせるために、独りでは生きていけない、独りを殺す世界にした。

 彼女も。そして、僕も。そんな世界に意味を見つけようとする努力が出来なくなった。疲れたんだ。食物連鎖の頂点に立ちながらも、植物と変わらない生き方をする人間という種族に嫌気が差したんだ。

 独りが殺される世界で、独りになることを望む。それは、ただの自殺願望だった。


「じゃあ、死のうか」

「……えっ」


 普通の感覚を持った人間ならば、恐ろしいことを言ったと思う。だが、今の僕の顔は恐らく――この上なく穏やかだったに違いない。今度こそ振り向いた少女の顔が、優しく微笑んだ。


「名前も知らない初対面の男性と心中ですか、面白いですね」

「そういう人生経験もしてみたほうがいいんじゃないか?」

「一度しか味わえない濃厚な経験ですね。一生忘れられそうにない」

「違いないな」


 底から響く電車のブレーキ音を耳に、僕は立ち上がる。少女はくすりと笑い、僕に細く白い手を差し出した。やがて、完全に停車すると、僕は彼女の手を取り、扉へ向かう。炭酸飲料を開けた時に似た音とほぼ同時に扉が左右へ動く。


「生まれ変わるとしたら何になりますか?」


 僕に手を引かれ歩く彼女の顔は見えていないが、彼女は恐らく笑っているだろう。そして、僕の出す答えも分かっているだろう。


「そうだな、やっぱり次は……次こそは――」


 ――人間になれますように。

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