孤独なヴァイオリニストに 祝福を… 2
「おーい、坊主。 ゴミまとめたら、もうあがっていいぞー」
「はーい、了解でーす」
この町でも 有名な 《繁華街》の、奥まった 《裏通り》。
酒場の 給仕のバイトは、遅番だと 深夜近くにもなる。
本来なら、未成年は このような時間まで働くことを禁止されているのだが、ここには ここの、暗黙のルールというものが存在していた。
雇い主のマスターは、ルシフェルの事情を考慮し、試験期間は 休ませてくれるし、なるべく早く帰れるように、融通してはくれるのだが。
たまたま、今日は病欠が重なり、人数が足りないからと、急遽 仕事に入ることになっていた。
「ふぅ …… これで、よしっ」
店の裏に設置されている ゴミ箱に、店内のゴミを入れる。
こういう日に限って、客が多かったり、酒よりも 料理の注文が多かったりなど、店員は 目が回るような忙しさを味わうものだ。
中からは、まだ 多くの客の笑い声が聞こえている。
この様子だと、閉店時間を過ぎても、客は 帰らないだろう。 最悪の場合、朝方になる。
ルシフェルは 未成年なので、さすがに そこまで拘束されることはない。
店内に 溜まったゴミを回収し、自分の分だけ片づけて、早く帰ろう。
なんといっても、ここは 裏通り。
表の 常識や 法が通用しない、いわば 《無法地帯》なのだ。 あまり 遅くなるのは、危険を意味する。
「それじゃ マスター、お先に失礼します」
「おー、今日は 悪かったな。 気を付けて帰れよ?」
「はーい。 …… あ、先輩、お先でーす!」
「ああ、お疲れ」
「早く 寝ろよ~」
ガラは悪いが、親切な職場仲間に挨拶をして、ルシフェルは ようやく店を後にした。
「あー …… 今日 一日で、覚えた単語が 全部飛んでいった気がする ……」
初日にある 外国語の試験が、まず 最初の難関なのだが ――― 歩いた数だけ 忘れていく脳が、とても呪わしい。
弟 アンシェルの、半分でも 賢ければ ……。
否、考えても仕方がないことは、やめよう。 時間の無駄、労力のムダだ。
「イ、チェリ、ファドュン、コルーソ、マグ、テンデ ……」
記憶力の悪さを 補うには、とにかく 《反復》が重要だった。
ひたすら 書いたり、口に出したりして、とにかく 脳内に刻み込むこと …… 帰り道だって、侮れない。
怪しい呪文のように、ぶつぶつと 唱えながら歩いていると、前方から 荒々しい声が聞こえてきた。
「大人しく 言うことを聞けば、何も しねぇよ」
「そーそー。 お前だって、痛い目には遭いたくないだろ?」
…… うーわー、ヤバイ現場に 遭遇しちゃったよ。
男三人に、誰かが 絡まれている。 いわゆる、カツアゲと呼ばれる 行為だ。
「ほんと、世間知らずな 《お坊ちゃん》だな。 ここが どこだかも知らねぇで、ふらふら歩いているんだからな!」
…… お坊ちゃん!?
じゃあ、相手は 《素人》かよ! ますます、タチが悪いな。 あー、やだ やだ。
回れ右をし、関わらないようにと 道を変えようとしたルシフェルの目に、とある 制服が目に入った。
「えっ ……」
毎日 着ている、自分の黒い制服を、そのまま 白に塗り替えたような ―――。
そう、つまり。
アスタルテ学院の、《音楽科》の制服である。
「ちょっ …… いったい、誰が ……」
疑問は、すぐに解けた。
男たちの 隙間から見えた、被害者らしき 人物。
「レ ……… レニアス・コールド!?」
つい先日、中庭で会ったばかりの彼が、こんな所で 何をしているのか。
彼は、音楽一家に生まれた、サラブレットだと聞いた。
もちろん、お坊ちゃまが集う アスタルテの中でも、とりたてて 金持ちだろう。
「あーん? 何だ、坊主? この坊ちゃんと 知り合いか?」
「げっ …… しまった ……」
つい うっかりと大声を上げたばかりに、自分の存在まで 気付かれてしまうとは。
「丁度いい、てめぇも こっちへ来い!」
「うわぁっ! ボクは 関係ないのに!」
掴まれた腕を 振り払うことができず、レニアスと同様、ルシフェルは壁際に追いつめられてしまったのだ。
※ ※ ※
「…… ルシフェル・ターナー。 君が、なぜ ここに?」
「ボクは バイトの帰りだよ」
「バイト ……?」
「…… だから、酒場で働いてたの!」
ああ、今日は厄日だ。
出なくてもいいはずの バイトに駆り出され、店内を走り回って 疲れているというのに、チンピラに絡まれるとは。
「ちょっと、おにーさん。 ボクんち 貧乏なんだ。 だから、こんな時間まで働いてんの。 意味、わかる?」
つまり、カツアゲされたって、出せる金など無いということだ。
「金なんか持ってたら、今頃 遊んで暮らしてるっての。 だから、解放してよ。 ね?」
「…… 裏通りで働いている割には、甘いなぁ、坊主?」
ぐいっと顎を掴まれて、無理やり 上を向かされる。
「へー …… 向こうの酒場に、金髪で えらく《可愛いガキ》がいるって聞いてたが、お前のことか」
「……… 人違いじゃない?」
「ふっ …… 気が強いのも悪くない。 おい、計画 変更だ」
リーダー格の男が、後の二人に 目で合図を送った。
もしかしなくても、これは 最悪の展開だ。
これ以上、仲間を呼ばれては困る。 逃げ場が無くなる前に、逃走すべし。
「…… レニアス、足に自信はある?」
「…… は?」
ルシフェルは、聞こえるか 聞こえないかギリギリの、ごく小さな声で、隣に話しかけた。
耳のいい 音楽科の生徒なら、雑踏の 裏通りでも、難なく 聞き取れるはず。
「あいつら、仲間を呼ぶ気だ。 逃げるなら 今しかない。 ボクが 抜け道を案内するから、ついてきて!」
「えっ ……」
言い終えると同時に、ルシフェルは 地を蹴った。
「大事な 《楽器》は、自分で 死守しなよ!」
制服姿のままの レニアスは、手に ヴァイオリンケースを下げていた。
おそらく、どこか 学校以外の場所で練習し、気が付けば こんな時間に ――― 早く家に帰らねばと、軽い気持ちで 《近道》をしたら、裏通りに入ってしまった …… というところだろう。
まったく、これだから お坊ちゃんは!
酔っ払いの脇をすり抜けて、道なき道を進むうちに、大人たちは 追ってはこなくなっていた。
逃走、成功。
「あ~ …… 疲れた ……」
とりあえず 安全を確認して、その場に しゃがみ込む。
「…… 楽器、大丈夫だった?」
いくらケースに しまわれているとはいえ、あれだけ激しく走ると、中身は相当 揺れているだろう。
特に、ヴァイオリンは 繊細だという。
呼吸を整えていた レニアスは、ルシフェルの言葉に 我に返ったのか、慌ててフタを開けて 中を確認した。
「…… 大丈夫だ、問題ない」
「不幸中の 幸いってことかね。 …… これに懲りたら、もう二度と、軽い気持ちで 裏通りなんか入ってくるなよ?」
裏通りは、荒くれどもの 住処。
お坊ちゃんが来るような場所では ないのだから。
「君は …… なぜ、いきなり走り出したんだ? 逃げ切れたから よかったものの、捕まれば もっと酷い ―――」
「あのねぇ、あと少し 遅ければ、仲間が うじゃうじゃ集合してたっつうの。 いっとくけど、ボクは あんたより、裏通りには詳しいんだからね?」
可愛いガキ ――― あの男は、ルシフェルのことを そう呼んだ。
ああいう無法地帯には、人身売買が、未だに存在している。
《少年》を好んで可愛がるという、危ない嗜好のオジサマたちに高く売れるし、売れなくても、仲間内で 《可愛がる》こともでき、男たちには損はない。
だから、可愛いと 目を付けられるのは、無法地帯では 一番危険だった。
「人身売買 ……」
その単語を初めて耳にしたのか、レニアスは 驚きを隠せないようだが、これは事実だ。
「レニアス・コールド ――― 苦労せずに暮らしていける あんたには、想像もできない世界だろうけど、これは この国の現実なんだ。 ボクのように 働かないと食べていけない子供が、まだ たくさんいる。 危険だと知っていても、稼げるなら こういう場所で働かなくちゃいけない」
当たり前に、ご飯が用意されて、楽器が 目の前にある。
そんな生活など、ごく一部にしか 手にすることができない、夢のような話。
「わかったなら、早く 帰りな ――― あんたの 《家》にね」
「…………」
あのまま 大人しくしていたら、ルシフェルは売られ、レニアスは 金を取られて 殺されていただろう。
そういう世界も あるということ。
反対に、自分は 音楽に専念できる 《幸運》な環境に生まれたということを、彼は もっと知るべきだと思う。
「じゃあね」
呼吸が落ち着いたのを 見計らって、ルシフェルは別れを告げた。
ああ、歩いただけではなく、走ったせいで、ますます 単語が記憶から漏れていく ―――。
「くっそ、 こんなんじゃ、メルツ語の試験に 間に合わないっ!」
甦れ、我が 記憶たちぃぃっ!
夜道に響く 天使の絶叫を、レニアスは ぽかんとしながら 聞いていた。
短時間のうちに、いろいろな事が起こり過ぎて、思考がついていかなかったのだ。
※ ※ ※
「…………」
嵐のように去って行った、普通科の 有名人、ルシフェル・ターナー。
音楽科でもないのに、前回の 実技試験で伴奏をつとめ、見事 ヨシュア少年を 《一位》まで導いた、張本人。
ピアノ科の ロバート・ダイルと 《演奏対決》をした時も、ホールを借り切って 三年生たちと 《演奏会》を開いたことも、レニアスは すべて知っている。
どれも、観に行ったのだから。
…… あんな、デタラメな演奏など、絶対に認めない。
技術を ないがしろにした音など、音楽に対しての 冒涜だ。
音楽が大切なら、練習すればいい。
己の、すべてを懸けて。
「俺は ――――」
それが正しいと信じてきたし、実践してきて、今がある。
練習は、裏切らない。 努力など、当たり前。
できないと嘆くのは、才能よりも、根性が足りないからだと思っていた。
「俺は ―――」
初めて ルシフェルの演奏を聞いたとき、すごく腹が立ったのだ。
彼の演奏を、《心が惹かれる》と 絶賛した 音楽科の生徒にも、腹が立った。
あんなもの、音楽でも なんでもない。 ただの、茶番だ。
楽しさだけを追求する、独特な あの姿。
キラキラと輝く ステージが、目に焼き付いて離れなくても …… あんなもの、認めるわけにはいかない。
『…… 酒場で働いてたの!』
『ボクんち 貧乏なんだ。 だから、こんな時間まで働いてんの』
彼が 《奨学生》であることは、噂で知った。
けれど、実際に それが どんなものかなど、自分は 知りもしなかった。
自分が 楽器に心血を注いでいた時間、彼は 働いていたというのか。 生活をするために。
『苦労なく 暮らしていけるあんたには、想像もできない世界だろうけど ……』
確かに、彼の 言う通り ――― 自分は、何も 知らなかった。
『あんたみたいな 弾き方してちゃ、曲が かわいそうだ! 楽器がかわいそうだ!』
数日前の、ルシフェルに言われた 言葉は、実際 他の誰より、レニアスの心に 居座り続けていて。
「俺は ――――」
今まで 信じていたものが、音を立てて 崩れていくような予感。
星空の下、寒くはないのに、レニアスは ぶるりと身を震わせたのである。




