はじまりは フルートと ともに … 1
カタカナの 地名や 人名が多数登場しますが、少しずつ 慣れて頂ければと思います。
『伴奏者なら――― ここに いるよ?』
すべては、その 《ひと言》から始まった ――――― 。
※ ※ ※
バタバタと、音を立てて 走る者がいる。
準備担当の生徒は、《音を立てるな》とか 《静かに!》という注意を受けながらも、走ることをやめない。 …… 否、やめられないのだ。
舞台裏の、戦場――― 誰もが 緊張と、焦りと、高揚感と…… 様々な感情に支配される、特別な 空間。
その 舞台裏に。
なぜか、自分が 引っ張りこまれている。
「…… 時間が無いよ? 出番までは 四十五分。 十分で着替えて、二十分で 練習して、残りの 十五分で 《合わせる》――― ルルなら、できるでしょ?」
目の前の青年に言われたことが、頭の中に 入っていかない。
ルシフェルのことを 《ルル》と呼ぶ人は、限られていた。
とっておきの 愛称であり、家族しか知らない 秘密の呼び方。
ルシフェルの 腕を掴んで、ニコニコと 笑いかける その顔は、昔のものと 少しも変わらなくて。
だからこそ。
彼 ――― チェ・ヨンハ の着ている制服が、よりにもよって 《普通科》のモノであることが、何よりも 衝撃だった。
「ヨ…… ヨンハ先輩…… 何で……」
何で、普通科の制服を 着ているのか。
何で、今 目の前に いるのか。
何で、自分の姿を 見つけて、腕を掴んでいるのか。
問いたいことは たくさんあるのに、咄嗟のことで 言葉が出てこない。
「僕のことは、今 問題にするべきこと? だいたい、何で ここにいるのか……って、そんなの 僕の方が聞きたいくらいだよ、ルル?」
ここ。
つまり、この――― アスタルテ学院に、何故 入学できたのか。
「いろいろ 事情があるのは お互い様。 そんなことより、時間が無いんだよ。 僕の服を貸すから、早く こっちの部屋に来て」
相変わらず、細いのに けっこうな腕力を持っていて、笑顔なのに かなり強引で。
甘ったるい 容姿と 声は、姿を消した頃よりも 数段、大人になっているのだが。
「ちょっ…… と、待った! …… 事情があるって わかってるんでしょ!? ボク、目立ちたくはないんだよ!」
苦手の勉強を 必死に頑張って、自分の戸籍も ひた隠しにして。
なんとか 勝ち取った、入学許可証なのだ。
「見たら わかるでしょ!? ボク、一年生! 高等部に 入学したばっか!」
アスタルテ学院 高等部、普通科の 一年。
デザイン性のある 黒の ジャケットに、下は 黒チェックのズボン。 胸のタイは 高等部 一年を表す 紅色だ。
目の前の ヨンハも、黒の上下を着ていた。 ルシフェルと同じく、普通科の生徒という証。
「…… うん、ピカピカの一年生だ。 入学 おめでとう。 入学式では 見当たらなかったけど……」
「入学式 出られなかったからだよ!」
とある、とっても 《不本意な事情》のせいで。
「…… はっは~ん……」
真っ赤になって怒る ルシフェルの様子を見て、敏感な ヨンハは 状況を察したようだ。
「男ばかりのアスタルテなら、仕方ないか。 飢えたオオカミの群れに、突然 可愛い子羊が 来たとあっちゃあ、黙って見ているバカは いないよね」
入学式に出られなかった 理由。
早い 話が…… 絡まれたのだ。 上級生の 集団に。
『俺の 《弟》になってほしい』とか 『いいや、ぜひ僕に』とか、終いには 取っ組み合いになり、 大騒ぎへと発展するところだった。
騒ぎは 困る。 なるべく、卒業までは おとなしく、地味に、静かに 過ごしたいのだ。
持てる知恵を 総動員して、なんとか その場を収めた頃には、一度しかない入学式は 終りを告げていた…… ということであり。
「入学早々、サボリだなんて…… どんだけ怒られたと思う? これ以上、教師の印象を悪くしたくないんだよ!」
奨学金制度を利用して、なんとか通学させてもらっている身としては、なるべく 《優等生》を貫かねばならない。
「そうは言っても…… ねぇ。 可愛いんだから、狙われるのは 仕方ないよ」
話している間にも、ヨンハが案内する部屋へと、どんどん近付いていく。
「人の話 聞いてよ!」
「聞いてるよ~」
ヨンハは 軽く言いながら、目当ての部屋の扉を開けて、中に ルシフェルを 押しこんだ。
「…… はい、僕の服で申し訳ないけど、サイズは これで合うはずだから」
問答無用とばかりに、奥のクローゼットから取り出された服、一式。
だいたい、何で パッとみ見ただけで サイズがわかるというのだ。 会わなくなってから、もう何年も経つ。
「…… ヨンハ先輩…… すけべ」
思わず 眉をひそめて 軽蔑してみたが、面の皮が厚いのか 相手は どこ吹く風だ。
「ほら、おしゃべりしていたから、あと五分しかないよ? 部屋の外で待ってるから、急いで 支度して?」
「ボクは…… やるなんて、言ってませんよ」
「う~ん? 聞こえないなぁ?」
「聞こえてるでしょ!」
《絶対音感》 を持つという、誰より 聴力に優れた、かつての 《兄弟子》。
「都合の悪いことは、自然と 聞こえないんだよ」
「ぬけぬけと……」
「早く 着替えないと、《お着替え》させちゃうよ? 僕は それでもいいけど」
「!」
咄嗟に 身構えたルシフェルの頭を ぽんぽんと叩き、ヨンハは くすりと笑った。
「わかれば よろしい。 じゃ、外で 待ってるからね」
くるりと背を向けて、扉を閉じる 寸前に。
ルシフェルが 無視できないような言葉を わざと 落としていく。
「…… プライスの《フルートの調べ・ト長調・作品二十八》だからね?」
――― 得意でしょ、この曲なら。
そう言っているような ヨンハの瞳は、ルシフェルを動揺させるには 充分な効果があったのだ。
※ ※ ※
ロイデン大陸のひとつ。
大地の女神 クローチェの加護を受けるといわれる、クロイス共和国。
小国ながら、この国が 発展し続けているのは、ひとえに 《良いモノは受け入れる》という、なかば 《何でもこい》という おおらかな精神が 昔から根付いているからであろう。
人も、物も、文化も、クロイス伝統の 《良さ》は残しつつ、他のモノとの 《融合》を厭わない。
その反面、新しいモノに 飛び付く輩も、きちんと 自国のモノも大切に、手放さない。
そんな、イイとこ取り…… の要領の良さと、愛国心を忘れない 頑固な部分が、クロイスの《自慢》でもあった。
中には 《恥知らず》と 非難する国があることは事実だが――― 国民はもとより、この気質に憧れて 移り住む人々が多いことを考えれば、これは これで ひとつの文化と言えるのかもしれない。
クロイスの首都、学業と 芸術の町 シュメールは、今日も 気持ちのいい風が吹いていた。
春も終りを告げ、夏にさしかかる前の、ほんの 少しの間。
アイラという 青紫色の花が 咲きだし、日差しは 眠気を吹き飛ばすほど キラキラと輝きだす、第五の月 《メルフォル》。
ルシフェルの 誕生月であり、一年で 最も好きな季節だというのに―――。
「ほらほら、その仏頂面 なんとかしなさいよ」
可愛さの 欠片も無い、ひどい形相の頬をぐにぐにと触りながら、ヨンハは ご機嫌だった。
「…… どうやったら、笑えるの? この状況で」
「す…… すみません、僕が 悪いというのに…… ご迷惑をっ……」
すると、すぐ隣から 泣きだす声が飛んできて、ルシフェルは げんなりした。
「…… ……」
「気にしなくていいよ、ヨシュア君。 この子は 素直じゃないだけだからね」
「何の根拠があって、そんなことを 言えるんですかね、先輩?」
その 整った顔を引っ張ってやりたくて、手を伸ばすが…… あっさりと ヨンハに掴まれてしまう。
昔よりも 大きくなった手に、少しだけ どきりと心臓が はねた。
そんな ルシフェルに気付いているのか いないのか、ヨンハは 淡々と 事実を告てくる。
「…… 今でも、弾いている 手だね?」
「!」
「ウソをついても 見ればわかるよ。 僕を誰だと 思ってるの?」
――― チェ・ヨンハ。
音楽を司る神 オルディーヌの再来と 称された、若き天才 音楽家。
ルシフェルの 兄弟子であり、師匠の元から 巣立ったあとは、どこかの国の 宮廷楽師になったとばかり思っていた…… みんなの憧れの人。
「今 この場で ヨシュア君を助けられるのは…… ルルしか いないよ」
神秘的な 漆黒の瞳に 見つめられると、逆らえなくなるのが 昔から 悩みの種だった。
この人は、ズルイ。
今も 昔も。 それだけは 変わることなく。
「先輩は…… いつだって、ズルイ」
「それは、引き受けたっていう 返事なのかな?」
「いまさら 断わったって、逃がしては くれないでしょうが」
「う~ん、さすが ルルだね。 僕のことを よく理解してる」
ぱちんと ウインクする姿が 様になっているのだから…… 嫌な男だ。
こうなってしまったら、誰も ヨンハの決定は 覆せない。
やると言いだしたら、どんな手段を使ってでも やる性格だ。
これ以上 拒否したところで、事態は 好転しないだろう。
それならば。
「…… 時間が 勿体ないから、手短に 教えて」
渡された 楽譜を握り直して、ルシフェルは ヨシュアという少年に 向き直った。
少年の名は、ヨシュア・ナリミヤ。
東方 《シン国》の出身で、現在 十五歳――― ルシフェルの 一つ年下だ。
彼も ルシフェルと同じく 《奨学金》で入学したクチであり、中等部の 三年生だという。
「中等部といっても…… 違うんだね」
ヨシュアは 見るからに、賢そうな顔をしていた。
しかも、彼が身に付けているのは、白の上下――― アスタルテ学院の 《音楽科》の制服なのだ。
音楽科は、一般の学問のみならず、実技の評価が良くないと 進級できない。
勉強量は、普通科の 三倍とも言われている。
ちなみに、銀色の クセのある髪に、漆黒の ウルウルした瞳。
文句なしで、可愛い 美少年だ。
美意識の めちゃくちゃ高い ヨンハの目を引くには、充分な 容姿ではないか。
「…… ……」
なんとなく、おもしろくない。
おもしろくはないが、今は そんなことを 言っている時間もない。
「この曲は、出だしは伴奏じゃなくて フルートからだから。 君の音を…… 聞かせて」
用意された 練習室と、与えられた 一台のピアノ。
蓋を開けて、譜面台に 楽譜を立てれば…… あとは もう、弾くしかない。
静かな 前奏部分を、メインのフルートが 奏でていく。
「これは……」
可愛らしい 外見からは 想像しにくい、落ち着いた音色だった。
感心しつつも、彼の 音の感触や 間の取り方を 逃さないように、ルシフェルは 全身の神経を広げていくのであった。
※ ※ ※
その日は、音楽科の生徒にとって、今年 初めての 実技試験の日だった。
ヨシュアは、試験のために《伴奏者》を探し回っていたが、何故か いっこうに 見つからない。
音楽科は、中等部と高等部の 関わり合いが、わりと多いところだ。
緊張しつつも、高等部まで足を伸ばし、引き受けてくれるピアニストを 片っ端からあたり、そこそこ 評判のいい 伴奏者が見つかったのは 幸運であったのだが。
その伴奏者――― ピアノ専攻の、ロバートは。
ヨシュアに対して、恋愛としての 《関係》を迫ってきたのだ。
そして、関係を断った 《腹いせ》とばかりに、当日になって、試験の場から 行方をくらませてしまったから…… さあ、たいへん。
試験は、必ず 伴奏者と 《二人一組》が原則だ。 伴奏者が不在…… それは すなわち、試験の 《放棄》を意味している。
もうダメだ、当日なんて、誰も 引き受けてくれる人など いない。
奨学金の生徒が、試験を放棄だなんて…… 前代未聞だ。 退学の 可能性も出てくる。
泣いている ヨシュアの前に通りかかったのが、何故か 普通科の ヨンハであり。
その ヨンハの、偶然 視界に飛び込んできたのが――― ルシフェルの姿だったというわけだ。
※ ※ ※
「だいたい、部外者のボクが 参加して、問題ないわけ?」
とりあえず、規則としては 《学院内の人物》であれば、誰でもいいらしいが。
「普通科のボクでいいなら、何で ヨンハ先輩が やってあげないの?」
ルシフェルなどより、よほど 《適任》なのは 間違えないのに。
すると、ヨンハは うっすらとほほ笑む。
「適任なのは 君の方だから、声をかけたんだよ、ルル」
『常勝 ピアニスト』
それは、ルシフェルが 幼い時に付けられた、音楽仲間の間の 《あだ名》である。
はじめまして、の方も。
他の作品を ご存じの方も。
ごきげんいかがですか、水乃 琥珀と申します。
この度、めちゃくちゃ 《ただの趣味》に走った、学園モノを 始めることに致しました。
連載中の 《アリス》が、バカっぽい半面 シリアス満載なので、こちらは もう少し 気楽に進めていくつもりです。
ちなみに、ヨンハ先輩の名前は、韓国風の響きにしたかっただけで、俳優さんとは いっさい関係ございません。あしからず。
恋愛モノの 王道のネタで、どこまで 書けるのか。
自分に対しての、ちょっとした 《挑戦》でもあり、今から 心臓はドキドキですが…
お時間のあるときにでも、お付き合いくだされば 幸いです。