混乱
2.混乱
何かが起こっているのは間違いない。
自室のドアを開けたら岩がゴツゴツした処につながっていた。
呆然としながらも、あの時は、俺の部屋のドアはいつの間にどこにでもドアになったんだ、ココは何処だ、と考えていたように思う。しばらくして見なかったことにしようと考えたのは、自然な流れに違いない。
今までにも、予想外の結果になって驚いたことはあった。むしろ日常の一部だったように思う。そういう場合、よくよく落ち着いてみてもう一度同じ動作を繰り返せば、何事も無かったように予定された結果となっていた。
思えば、大学の合格発表で受験番号が見当たらなかったことがあった。
試験の問題はよく解けて自信は相当にあった。だが自分の番号はない。熱に浮かされたように何度見直しても、自分の番号はなかった。灰色の浪人生活を覚悟した。
しかし僅かな希望をもって、これが最後と掲示板を見直してみれば、自分の番号は、さも当然のようにそこにあったものだ。
そう、原因は自分の注意力の欠如以外の何物でもない。
合格発表以外にも無駄に絶望し、無駄に時間を掛け、無駄に安堵してきた。
しかしながら絶望から一転、自分の思い描いていた通りの理想が実現したときの高揚感は、とても言葉では表せられないほどのものだ。例えそれが自分の不注意が原因のマッチポンプだったとしても、だ。
全身が弛緩し、頬が緩むのを止めることができない。脚が震え腰が砕けそうになる。高鳴った心臓は血液を体中に送り始める。そして周囲の音が戻る。身を隠し息を潜めていた日常が再び動き出すかのように。
今回もそうなのだろう。そうに違いないと思った。
何事もなかったかのように、また日常に戻るのだろう。
さっきのは見間違いに違いない。
見間違いであってくれ。
再びドアを開け――開かなかった。
ノブが回らない。
部屋のドアに鍵はない。だがノブが回らない。乱暴に引っ張ってみたが開く気配はなかった。押してみても開かない。悪態をつきながら力を込めるが、何をしてもドアが開くことはなかった。
今回は、違った。
◇◇◇
あのあと、いるであろう家族を大声で呼んでみたが返事はなかった。7時ならいつも母親は起きているし、父親の寝ているであろう寝室はドアを隔ててすぐ隣だ。聞こえないわけはない。そもそも呼ぶ前に叫びながらドアにぶつかってたんだ、朝から五月蝿いと文句を言ってくるはずだ。
携帯は圏外だった。
窓は開かなかった。初めは恐る恐る開けようと試み、最終的には金槌を力いっぱい叩きつけるに至ったのだが、割れることはおろかヒビさえも入ることはなかった。金槌を叩き付けてもガラスは震えもせず、伝わる感触は分厚い石壁のようでまるで割れる気がしない。
何かが起こっているのは間違いない。それもとびきりの何かが。
――― はぁ……
ベッドに腰掛け、これからどうなるのかと漠然とした不安に苛まされつつあったとき、その存在に気がついた。
本のようだ。
大きさは部屋にある化学辞典ほど。ひと抱えと言っていいほどの大きさで、厚さは人差し指の長さほどある。分厚い。色は黒一色。表紙や背表紙に文字は見当たらない。白いページの部分とのコントラストが刺々しい。半ば布団に埋もれながらも圧倒的な存在感を示すそれに、なぜ今まで気が付かなかったのだろうか。
いや、さっきまでは無かったはずだ。間違いなく、無かった。
◇◇◇
黒一色の本はずっしりとした重みがあった。多少の疲労感を覚えていたこともあり、動かさずその場でページを開く。
黒一色に見えた表紙も、色は黒のみであるものの、細やかな装飾がなされており、凹凸が指に心地よい。表紙は思ったよりも厚みがあった。めくると、白一色のページに文字が。デフォルメされた――「beginner」の文字。
めくった表紙の側に重みを感じ視線を移すと、コインが嵌っていた。500円玉大の銀色のコインで、数は7。ページの中心に1つ、六角形を作るように6つ。
コインは、縁に装飾がなされているものの、中央には何も描かれてはなく、薄暗い室内で鈍く輝いているのみだ。
そして本は、信じられないことに頁を開くことができなかった。まるで表紙以外の全ての紙が糊付けされてしまっているかのように閉じられたそれは、どんなに力を込めても開くことはできなかった。
――― こんなんばっかりだな
扉も本も、開いて初めて用をなすそれらは、どちらも貝のように閉じたままだ。まったくもって役立たずもいいとこだ。
――― いや、役立たずは俺か。
人生が順風満帆な奴が、こんな夢としか思えない、わけの分からない状況に陥るものか。
普通の人付き合いをこなせず、友人と呼べる者も片手に余るほどしかいない俺。普通に大学卒業後に就職することもできず、将来のビジョンもなく目的もなく、ただ言われるがままに院へと進んだ俺。
そんな俺は間違いなく役立たずであり、つまるところ、社会的に無価値だ。望みの就職先へと進んだ高校の同期、大学の同期は、研修や配属先などの話題をSNSに書き込んでいる。彼らは社会に望まれ、社会へ貢献し、結婚をし、人生を築いていくのだろう。
――― くそっ!ふざけてんじゃねぇ!
好きでこんな人生歩んできたわけじゃない。イラつく気持ちを指先に込め本を掴む――とページに凹みがある。beginnerの文字の下、円形の凹みがある。深くはない。1ミリか1ミリもないくらいといったところ。大きさは、丁度――そう、丁度向かいの頁のコインの大きさの凹みだ。
コインは思いのほか簡単に外すことができた。コインの縁は紙面からはみ出していて、指を引っ掛けやすいからだろう。よく見るとコインの横の部分にも溝が掘られており、爪が引っ掛かりやすい構造になっているようだ。
コインは、想像していたよりはずっと重く、ずしりとした重みを感じる。500円玉よりも若干厚みはあるが、それだけではない材質の違いを感じさせられる。銀貨ではないのか。銀もこれだけ厚みがあると重いものなのだろうか。そういや銀の比重ってどのくらいだったっけ?そんなことを考えながら、鈍く光るそれを凹みに――
――― いや、待て。落ち着け
凹みの上で手を止めて――思考する。おかしい。なぜこんなことをしている。凹みを見つけたさっきまでの俺は全くもって冷静ではなかったはずだ。
俺をあざ笑うかのような、くその役にも立たないこの重い本を投げ捨てんばかりにイラついていたはずだ。それが怪しげな凹みを見つければ、躊躇する間もなくこれまた怪しげなコインを嵌め込もうとしている。
明らかにおかしい。
幸いにして今は冷静なようだ。先ほどまで感じていた苛立ちは、ほとんど、いや、朧気といったところか。
何かを思考していなかったわけではない。凹みとコインの大きさを比較し、判断した。加えてコインを取り外し、側面をなぞり爪を引っ掛けやすいと思った。
そうだ。
さらにコインを嵌めようとする直前、想像よりも重いと感じ、知りもしない銀の比重を思い起こそうとしていたはずだ。考えてはいる。まさに穏やかな思考だ。しかしそれまでの激情などまるでなかったかのような穏やかさは、不自然極まりない。
原因は、―――おそらくはこの本。
コインを掴む指に緊張を覚える。
本を見つけるまでは全く冷静ではなかった。ドアが開かず、窓が開かず、呼びかけても誰も来ない。その場で考えられる限りのことをやった。ありとあらゆることを、最後は自棄になりながらやった。わけの分からないこの状況への苛立ちを、ドアに、窓に、ぶつけていた。
いや、本を見つけても冷静ではなかった。どこの世界に表紙しか捲れない本が存在するというのか。役立たずなことこの上ない。漬物石ですらもっとまともだ。
本来の用途を成せず、周囲の期待を裏切り続けるものは無いほうがよっぽどいい。役に立たないばかりか足を引っ張りさえする。無価値という言葉さえ甘く、呼ばれるべきは、ゴミだ。
ああ、思い出してきた。いや、さっきと同じことを思っただけか。うん、冷静だ。
イラつきながらも冷静を保てているのは好奇心ゆえか。つくづく理系なんだなと実感する。落ち着いてみれば自分の中の好奇心が疼いているのが分かる。混乱が収まったか、寝起きの頭に漸く血が巡り始めたか。さっきまでなら兎も角、今なら疑問を検証すべきだ。
そう、卵とはいえ化学者の端くれなら検証してしかるべきだ。この奇妙な状況を。