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一九八五年のプラザ合意を革切りに、日本は急激な円高に見舞われ、輸出産業が大打撃を受けた。一九八〇年代初頭の不況からようやく抜け出た矢先のことだった。日銀は再びの景気悪化を恐れて公定歩合を引き下げ、企業の設備投資を後押ししようとした。不況を回避しようとしたのである。しかし世の人々は金の使い道を誤った。企業は低くなった金利で金を借り、土地や株式を買い漁った。当時、「財テク」と呼ばれた資産運用の方法だった。その結果、土地も株も異常とも言える暴騰を繰り返した。(NTT株は新規上場から二ヶ月で二倍以上に急騰したという)味を占めた企業や地主達は、価値の上昇した土地を担保に銀行から金を借り、さらに土地を買った。地価は上昇し続け、そして一般庶民には手が出せない金額にまで達することとなった。そうした人々は家を持つことを諦め、その代わりに高級車や高級酒、高価なサービスに金を使った。誰もその異常さを疑わなかった。理由の見えない異様な好況に戸惑いながらも、ただこの時流に乗り遅れまいと先を行く者に追随する者ばかりだった。
遊興が蔓延し、労働は蔑ろにされた。しかしそれでも資産は増え、富は積み上がっていった。時代の歯車が狂い始めたのは、この時からである。
金は流れに流れ、景気は恐ろしいまでに加熱していった。身の回りが金に溢れ、日本中が熱狂し、人々は熱狂の中に狂った。土地を買っても、その地に足を付ける事もなく、また足元を見ることも無かった。その足元が将来壊滅的に崩落するなど、誰も想像しなかった。バブルとはそんな浮き足立った数年間だった。人々はそれまで酷いインフレに苦しみながらも、慎ましく質素に暮らしてきた。勤勉の美徳にもそろそろ飽きが出る頃だった。だから、突如として開いてしまった夢の世界の入り口を、人々が拒めるはずも無かった。
バブルの熱病は日本を支配した。そして当然ながら三井さん達にも影響を与えた。最初に感染したのは師匠だった。
師匠はバブルに入る前々年には既に小額の株券を持っていた。株式の暴騰が始まったのは一九八六年からではあるが、それ以前にも長い不況を脱したことを理由に、株価の上昇は継続していた。元々株式投資やギャンブルの好きな師匠は、資産運用の一環として株を取得していた。当然だが、この株は値を上げた。そして、そのことに気を良くした師匠は老後のための備えとして取っておいた貯金を、半分とは言わないが、相当量株に投資した。(本当は半分出したかったそうなのだが、奥さんの反対に屈したらしい)師匠の買った銘柄はバブルの波に乗り、簡単に高騰した。この時から師匠はおかしくなり始めた。
師匠は奥さんに黙って貯金を叩き、全額を株式に投資した。そしてそれは利益を生み、師匠はそれを喜んだ。値上がりした株の一部を売り、それで手にした金を使って奥さんに高価なダイヤの指輪をプレゼントした。丁度その年は師匠夫婦が結婚して三十五年を迎える年で、日頃の感謝とお祝いを込めてということだった。もしこれが五年後だったなら、優しい話に完結したかもしれないが、皮肉にもこの時は一九九〇年代を臨む年、バブルの最盛期だった。奥さんは喜んだが、結論から辿れば、これは時代の罠だった。それまでバブルの熱気に戸惑い、傍観気味だった奥さんにも、世間に蔓延する熱病は襲い掛かった。奥さんに抵抗する術があるはずも無かった。
師匠は奥さんと相談して、家を担保に銀行から多額の金を借りた。そしてその金で田無に新たな土地を買った。良く考えもせず、使い道も決めず、世間の言う土地神話を信じ、ただ熱に浮かされての安易な投機行為だった。だが、まだ土地神話は破られてはいなかった。市場のアナリストの予想通り、新たに購入した土地の地価は上昇した。
その頃から師匠は靴磨きに路上に出なくなった。腰が痛く、体が辛いということが理由だった。奥さんはそのことを咎めなかった。それまで十分働いてきた上に、投資した資産からの利益で生活費は賄えていた。だから体に鞭打ってまで、無理に働く必要はないというのが奥さんの言い分だった。それまで一緒だった師匠がいなくなることに多少の寂しさを感じてはいたのが、三井さんもその意見には賛成だった。三井さんは一人で仕事に出るようになった。
師匠夫婦が投資熱に浮かされる一方で、三井さんについては様相が違った。バブルの真っ只中であっても、三井さんが株や土地に手を出すことは無かった。
元手がなかったというのではない。株式であれば、投資に必要な元手はあった。客の絶対数が減ったとはいえ、客単価自体は上がっていたから、収入はバブル以前に比べてほぼ倍増に近い位にまでなっていた。
バブルは人々の金銭感覚を変えてしまっていた。それまでの靴磨きの料金は、一回五百円に設定されていた。だがその値段だと千円札を出す客の多くから、お釣りのやり取りが面倒だと文句が出た。そして彼らは決まってお釣りを拒んだ。五百円玉は財布が重くなるからと、そう客がこぼすをある時三井さんは聞いた。料金を千円に変えた時、常連の客の中には便利になったと喜ぶ人までいた。また酔った客の中には、千円札が無いからと言って、五千円札や一万円札を出し、お釣りを受取らずに立ち去ってしまう客もいた。万事がそういった風で、だから、稼ぎが増えるのは当然のことだった。
それでも三井さんが余分な金を使って「財テク」に走ることは無かった。三井さんには日常生活で必要となる金額以上の金を稼ぐという行為に、意味が見出せなかったからだ。七〇年代にあった競馬ブームの時から、三井さんの金銭に対する価値感は変わっていなかった。
しかしこうした三井さんと師匠夫婦の金銭感覚のズレは、両者の関係にそれまでに無い溝を作った。はっきりと言葉に出された訳ではないが、その溝は確かに三井さんと師匠夫婦の交友に亀裂を生じさせた。その影響の一つとして、長年続いてきた夕餉の団欒は廃れてしまった。三井さんによれば、師匠夫婦の会話があまりにも生臭くなってしまったからだということだった。
三井さんがその日一日を働いて帰り、師匠の家で夕食を囲っている時、師匠や奥さんの話題は大体が金儲けの話と、その使い道の二通りに終着した。師匠はどの銘柄で幾ら幾ら儲けた、次はあの銘柄が来るだろう、そうするとまた幾ら幾ら儲けることができる、そういう事を三井さんと奥さんに話して聞かせた。そして奥さんは、じゃあ儲けたお金の内、この分であれを買って、この分で美味しいものを食べに行き、この分で旅行に行ける、でも少し足りないから、不足分は前に買った何々を売れば補える、そういう話を三井さんの前でした。三井さんは最初は興味が無いながらも、話に合わせて適当に相槌を打つようにしていたのだが、それが毎日のように続くと、さすがに嫌な気持ちになった。そしていつしか師匠夫婦を敬遠するようになっていった。
「金の話なんかより、説教でも食らった方がまだマシだったな、俺にとっては。……つまらん話だったな、『儲けた』だとか、『必要の無いもん買う』だとかの話はな」
師匠夫婦が旅行に行き、三井さんが師匠の家を訪問する頻度が下がるのに合わせて、三井さんが仕事後に師匠宅に足を向けることは、次第に少なくなっていった。最終的には、月に一、二度くらいまで落ちたのだと、三井さんは言っていた。
三井さん達のバブル期はそんな風に過ぎて行った。そして様々な準備が整い、日本が見た夢は終わりを告げる。バブルの崩壊である。
一九九〇年の春になった途端、株価は暴落を始めた。(現在では土地を担保にした融資を禁止する政策が施行されたのが、原因だと言われている)年始には約四万円だった日経平均株価が、四月には三万円を割り込むようになった。それでも人々は安穏としていた。何かの間違いだろうと多くの人が考えていた。実際、地価については伸び悩んでいたものの、価格の下落自体は始まってはいなかった。今は一時的に停滞しているだけで、また直ぐに勢いは復活する。繁栄は約束されている。誰もがそう信じていた。師匠夫婦もまた、そうした人々の一部だった。
しかし、一度冷めた熱狂は元には戻らなかった。バブルが崩壊したのは一九九一年の二月と一般に知られているが、土地も株もそれから数年後には、ピーク時の半値にまで落ち込んだ。それでも夢の終わりを否定する人はいた。だが実際、日本が不景気のトンネルに入ったことは、もろもろの数字を見ても明らかだった。巷では急激な不況により企業の倒産が相次ぎ、倒産企業に対する貸付の多くが不良債権と化して、銀行の経営を圧迫していた。耐え切れなくなった銀行は潰れ、それが連鎖倒産を引き起こし、社会問題として幾度もメディアに取り上げられた。その頃になって誰もがバブルという夢と、そしてその消滅をはっきりと認識するようになった。テレビや新聞には「リストラ」「就職氷河期」「激安」といった、現代にも通じる言葉が引っ切り無しに見られるようになった。失業率が過去最高を更新し続け、日本の暗さは年を追うごとに増していった。
一方で、師匠の家は静かだった。師匠も当然バブル崩壊により大損害を食らったはずだが、師匠の態度からは切羽詰った焦燥感のようなものを感じ取ることができなかった。師匠は明るかった。バブル以前の師匠に戻ったようだったと三井さんは言っていた。
ただ変わった点ももちろんあった。再び働きに出るようになったことと、酒も煙草も止めたこと、金の話をしなくなったことの、この三つは確かに変わった点だった。しかし、それ以外は以前のままだった。三井さんに対して苛々をぶつけることもなく、弱音を溢すことも無かった。バブル以前のように、笑い話に興じていることの方が多かった。
だが、三井さんは心配だった。師匠の明るさが単なる強がりだということが三井さんにも分かっていたからだ。しかし、求められてもいない助けを与えるのは、相手を侮辱することなのではないかと三井さんには思えた。だから三井さんには言えなかった。
「師匠、大丈夫なんですか?」
そういう言葉が何度も口に出そうになったが、三井さんはその度にその言葉を飲み込んでいた。
時間は着実に世界の上に降り積もっていた。昔のように師匠と帰る道すがら、後ろを付いて歩く三井さんにはもう昔と同じ心持で師匠を見ることができなくなっていた。夕日を浴びてオレンジに染まる師匠の背中はとても小さく、か弱く、そして縮んで見えた。そこには老いが刻まれていた。以前には感じられなかった老いという確かな切なさが、そこにはしっかりと表出していた。年を取るのは悲しいことだと三井さんは言った。悲しいことだと。
変わったのは師匠だけではなかった。世の中も確実に変化していた。人々は道端に座り客を待つ靴磨きなど相手にしなくなっていた。路上で靴を磨く行為慣自体が時代遅れになっていたのだった。当然日々の稼ぎは、人一人が切り詰めれば何とか暮らしていける程度にまで落ち込んでいた。そしてそれが改善される兆しも、やはり見えなかった。
ある日の夜分のことだった。師匠が三井さんを訪ねて来た。上着のポケットに両手を突っ込んだまま、そわそわと落ち着かない素振りだった。沈痛な面持ちをしていた。上がって下さいという三井さんの言うことも聞かず、師匠は玄関に立ったまま「金を、金を貸して欲しい」と言った。三井さんはこの日が来ることを、ある程度予測していた。だから部屋の奥から通帳を取り出してきて、黙って師匠に差し出した。百万が入っていた。バブルの時に貯まったものだった。師匠は慌てるように通帳を開いて金額を確認すると「済まない、恩にきる」と言って通帳を胸ポケットに仕舞い、背を向けて帰って行った。
侘しい老人の後姿が、薄暗い闇の中を街灯に照らされ、ゆっくりと静かに遠ざかっていく。
それが三井さんが見た、師匠の最後の姿だった。
次の日の朝、三井さんが師匠宅を訪れてみると、師匠夫婦はそこにはいなかった。炬燵の上には紙切れがあり、そこにはこう書かれてあった。
「『コウジ(三井さんの名前)、済まない。借金で首が回らなくなった。借りた金は返せそうにない。達者でな』」
師匠夫婦は夜逃げをした。部屋はしんとしていた。四人掛けのテーブルはきちんと椅子が引かれ卓上も整理されていた。何もかも、これまで三井さんが慣れ親しんできたものが、ただそのままに残されていた。
三井さんは師匠達の残したメッセージを持って部屋を出た。出勤前のサラリーマン達が腕時計を確認しながら歩く中を三井さんは逆に進んだ。朝日が眩しくきれいだった。いつもと変わらない一日が始まろうとしていた。
三井さんは再び一人になった。
「金のことはいいんだ、金のことはな。頭には来るけどな、でも、元々師匠に拾ってもらったようなもんだからな、俺の命なんて。……別れの挨拶が無かった事もな、別に気にはしてないんだ。追い詰められていたんだろうからな。でも、ただな……。それでも……、せめて相談ぐらいはして欲しかったな。師匠の口から。一言で良かったんだ。一言で。それだけでいいからな、相談して欲しかったな、俺は。……何だったんだろうな、俺は。師匠にとって」
私は返事を返せなかった。
その後も、三井さんは靴磨きのあがりを唯一の収入源として日々を暮らした。だが稼ぎは悪化の一途を辿るばかりだった。過去に路上で靴を磨いてもらっていた人々は、そのほとんどが既に定年を迎え、引退していた。道行く人の多くは靴を磨いてもらうことに抵抗を感じる若い人間ばかりになった。東京は昔の人々が望んでいた洗練された都市なのだ。三井さんのような者が、相手にされる訳はなかった。限界が来ていた。
この段階に来て三井さんは初めて靴磨きを続けるか、それとも日雇いでも何でもいいから、とにかく安定して収入を得ることのできる仕事に切り替えるかを真剣に悩んだ。そして結論を出した。路上の靴磨きとして生きるという結論だった。
もちろんそれが愚かな選択であることは、三井さんも良く理解していた。しかし三井さんにはプライドがあった。約三十年もの間、一筋に道行く人の靴を磨き続けてきた。
三十年。三十年である。あまりにも長い時間だった。今更アルバイトの若者達に交じり、靴磨き以外の仕事をする自分など許せるはずもなかった。譲れぬものがあった。この職業と心中するしかないと、その時三井さんは思ったそうである。
それから間もなく、三井さんは家賃を滞納するようになり、そして部屋を追い出された。特に意外でもなく、予想された結末だった。
それ以来、三井さんはホームレスとなり、現在に至るということだ。ホームレス経験は、かれこれもう十二年間も続いているという。良く生きてこれたもんだと三井さんは笑っていたが、私にはそれが印象的に映った。自らの選択を、自らの責任の下で積み上げてきた人間だからこそ、こんな風に苦境の中でも笑えるのだろうと、その時私は思った。




