表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/9

2-5

1-1同様、形式を修正+内容を微修正

 数日後、夕食を済ませた後で、三井さんは師匠と奥さんに清美さんとの関係が終わったことを告げた。話を聞き、二人とも残念だという表情を見せはしたがあまり驚いたという様子はなかった。奥さんは仕方ないわねと言った。師匠もそうだなと言い、その意見に同意した。奥さんは席を外し、夕食の後片付けをしに行った。あまり広くない居間に、師匠と三井さん二人きりになった。

 何かを考えているように俯き、沈黙していた師匠が、呟くように三井さんに言った。

「『お前、靴を磨きに道に出るの、もう止めろ』」

 三井さんは何を言われているのか理解できなかった。言葉の意味が、その目的が分からなかった。三井さんは混乱した。師匠は、しかし、その混乱をよそに言葉を続けた。

「『こんな仕事はもう止して、どこかまともな会社に行って働け。何もかも、全てはそれからだ』」

 師匠の考えはこうだった。

 時代は変わった。道端で靴を磨き、生計を立てるという生活は、時代に見合わなくなった。

 三十年前は違った。戦争が終わった直後の東京は空襲に焼け、更地が広がっていた。圧倒的に物資が不足した時代だった。人々は貧困に喘いだ。住む家が無く、食べる物が無く、着る物が無かった。道徳も秩序も希薄になっていた。混沌の中に人々は住んだ。

 そうした中で、誰もがその日一日を食い繋ぐために必死だった。働ける者はとにかく働き、作れる物は何でも作り、生活に必要と思われる物は全て残らず生み出した。そして、その過程で収入を得て、毎日の飢えを凌ぎ、どうにか日々を見送ってきた。俗に言う「戦後」と呼ばれる時代のことだ。そしてその「戦後」の時代は、この三十年の間で、もうとっくに過ぎ去っていた。それどころか、次の時代、高度経済成長期と呼ばれる繁栄の時代すら、既に終わっていた。日本は安定成長期と呼ばれる平和の時代を迎えていた。

 東京は発展し、世界的な巨大都市に成長した。一面焼け野原だった平野は至る所がコンクリートやアスファルトで覆われ、巨大な高層ビルが乱立するようになった。土の地肌が露出している箇所は激減し、一昔前までのように、雨が降っては靴が汚れるということも少なくなった。客の数も徐々に減っていた。もう靴磨きを商売とする時代は終わりつつあった。巨大なビル郡に見下ろされながら、背中を丸めて人様の靴を磨くことは時代遅れだった。ビルの中で世界を見下ろしながら仕事をするのが主流になっていた。

 また人間に対する需要も変わった。社会が整備され、物質的に豊かになるにつれ、単純な人力としての労働力は求められなくなった。体を汗に濡らし泥に汚して働く人より、交渉や技術開発に携わる人の方が求められるようになった。頭脳労働者を必要とするようになったのである。その結果、教育の底上げが起こり、万人が高校へと進学するようになった。中学を卒業したばかりの少年少女が、集団就職で上京してくることもなくなった。大学を卒業する人も増えた。大学卒業が一般的になるのも、そう遠くは無かった。

 洗練された人々が、洗練された街で、洗練された生活を営む。それが人々の目標で、それが達成されるのは、もう間近に迫っていた。

「師匠はな、俺の目を見て、こう言ってたな。『靴磨きなんて、時代の要望に合ってないんだよ。毎日電車に乗って、会社勤めをすること。頭を動かし、サラリーマンとして働いて、毎月給料を貰ってくること。それが時代の要望なんだよ。誰もが持ってる当たり前の価値感なんだよ。だから、お前は変わらなきゃいけない。俺はいいんだ。あと何年かすれば五十で、世間じゃイッパシに引退の年だからな。(この頃は五十五歳定年退職が一般的だった)でも、お前は違う。まだ若い。未来がある。結婚しなければならない。子供だって作らなければならないし、その子を育て上げなければならない。やらなきゃならないことは、それこそ山のようにあるんだ。そのためには、まず靴磨きで収入を得ることなんか止めるんだ。そして今すぐどこか、小さな会社でもいい、そこに勤めさせてくださいと頭を下げに行くことから始めるんだ。まずはそこからだ。なんとしても、そうしなけりゃいかん。時代がな、変わってしまったんだよ』」

 師匠はそう言った後、反論する三井さんの話を聞かず、無理に帰宅させた。家に帰って一晩良く考えてみろ、ということだった。

 家に帰った三井さんは静まり返った深夜の部屋で、布団に寝転びながら師匠の言ったことについて一応考えてみた。だが答えは既に出ていた。考えるまでも無かった。

 三井さんに靴磨き以外の仕事を選べるはずは無かった。

「大体な、俺なんかに会社勤めができる訳無いんだよ。……今更の話だよ、全く」

 三井さんはそう言った。確かに三井さんの人生を振り返ってみれば、その結論に行き着くのは良く分かる。

 三井さんは東北の農村で生まれ育ち、学歴は中卒で、学校の成績も極めて平凡だった。飛び抜けて得意だった教科も無かった。中学卒業後は東京にやって来て、紡績工場で短い期間働いたが、それで何らかの技術を学んだかといえばそんなことは無かった。労働の過酷さを知っただけで、それは世間で役に立つものでは無かった。その後は工場を逃げ出し、師匠に拾われ、弟子になった。それ以来ずっと道端に座り込んで、師匠と共に靴を磨いてきた。それ以外の労働経験はない。そんな人間が平均的な社会の中に出ることを考えた場合、今更の話だと思うのは当然のことだった。

 また、三井さんが元来備える性格も問題だった。頑固で、真面目で、愛想を知らない面があった。師匠や奥さんとの生活の中で、柔和な一面も手に入れつつあるものの、依然として人付き合いは得意では無かった。こうした点も、三井さんに会社勤めを億劫にさせる要因だった。

 しかし、三井さんに最も就職を躊躇わせたのは、師匠への恩情だった。

 三井さんの将来について、師匠の主張に間違いはなかった。三井さんにも自分の未来が先細りしていることは、薄々だが分かっていたのだという。どこにその原因があるのか、どうすればその未来を回避できるのかも、もちろん分かってはいた。確かに、師匠の言ったとおりだった。

 だが、三井さんには靴磨きを止めることはできなかった。情緒的に選ぶことのできない選択肢だった。

 三井さんにとっての師匠は、偉大な先輩であり、人生の教師であり、命を救ってくれた人であり、だが何よりも愛情ある父親だった。生家で植えつけられた冷たい家族観を暖かいものへと変えてくれた人だった。家庭の情愛を、そのありがたみを教えてくれた人だった。感謝してもしきれない人だった。

 だから三井さんにとって、靴磨きを止め、他の職業に就いてしまうという選択肢は、師匠を裏切ることのように思えた。師匠との出会いを否定することのように見えた。恩義を踏みにじることのように思えた。

 だからこそ三井さんにはできなかった。三井さんにとってこの義理は、何にも変えがたかった。

「師匠はな、きっと怒るだろうと思ったよ。俺がこのまま靴磨きで食っていくって言ったらな。『あれだけ言ったのに、まだ聞き分けられねぇのか!』ってな、そう言って怒ると思ったな。……でもな、これだけはどうしても譲れんかったな。師匠を裏切るような真似だけは、どうしてもできんかった。例え一生独り身になろうとも、貧乏のどん底に落っこちようともな、それだけはできんかったな」

 三井さんはそう言うと柿の種を一掴みして、乱暴に口に運んだ。そして口の中の物を飲み下すと、「まぁ、まさか本当にどん底に落っこちるとは思わなかったがな」と言って笑った。

 次の日、三井さんは帰宅に着く中で師匠に自分の意思を告げた。師匠は足を止め、三井さんの方に振り返った。それから三井さんと視線を合わせたまま、本当にそれでいいのか? と静かに凄み、迫った。三井さんも真っ直ぐに師匠を見て、いいのだと言った。師匠は、いいか、もう一度聞くぞ、と言った後に続けて、それは本当にお前が今やりたいことなのか? 今やらなければならないことなのか? と聞いた。三井さんは、そうだと言った。師匠はなおも視線を逸らさずに、本当か? 本当に本当か? と三度重ねて聞いた。三井さんは、本当だと答えた。二人の視線が勝ち合ったまま、短い沈黙の時間が流れた。師匠はふと視線を外すと、つまらなそうな口調で好きにしろと言った。そして、バカみたいに頑固な野郎だよ、お前は、と呟くと、振り返って家路を歩き出した。先を歩く師匠に続きながら、三井さんは心の中で、どうなろうとも覚悟の上だと、そう考えていた。

 後日、三井さんは、奥さんともこの件について話をした。

 奥さんは話自体はあの人(師匠のこと)から聞いているが、あなたは本当にそれでいいのかと、聞いてきた。三井さんは師匠に答えた回答と同じ返事をした。本当? と、奥さんは食い下がった。今の仕事を続けることで、本当に後悔しないのか? と。もしあなたが、自分やあの人に義理立てしているのなら、そんなことに気を配る必要はない、あなたは今自分の将来を真剣に考える分岐点に立っている、将来の幸せを目指さなければならない、あなたには幸せになって欲しい、そしてそのための選択をして欲しい、それこそが私達の本当の望みなのだと、そう言った。それから、もう一度だけ奥さんは聞いた。本当に、後悔しないのか? と。三井さんは奥さんの真剣な瞳を見つめながら躊躇わず、後悔しないと答えた。奥さんはしばらく黙った後、分かったわとため息を吐き、どうせ言ったって聞かないものねと、小さく笑った。

「でもね」と言って、奥さんは続けた。

「『あの人、あなたのこと、口ではバカだバカだ、大バカ野郎だって、散々罵ってたけど……。でもね。どこか嬉しそうだったわよ』ってな、奥さん言ってたな。内心、嬉しかったんだろうな、師匠は。誰だって、後継者がいなくなるのは寂しいもんな。何かを残したいって気持ちはな、俺にだって分かる」

 そう言って、三井さんはワンカップを一口飲んだ。その横で、三井さんには後継者がいるのだろうかと私は疑問に思ったが、直接口に出して聞くことはしなかった。そうしてしまうのは躊躇われた。非情なことなのかもしれないと思えた。


 結局、これから後、三井さんに結婚の話題が挙がることはなかった。会社という実質的な男女の見合いの場もなく、親類による伝手もなく、見ず知らずの女の人に誰彼構わず声を掛けるような甲斐性もなかったと、三井さんは言っていた。だからこそ結婚は不可能だったと。特に意識することも無く、いつしか三井さんは結婚を諦めていた。

 しかし一方で、その方が逆に良かったとも思えたのだという。家族という後ろ盾がなく、また商売上将来の暮らしに不安の残る三井さんにとっては、結婚して誰かを自分の人生に巻き込むのは心苦しく思えたそうだ。特に相手方の両親にとって申し訳ないことに思えたのだと、そう言った。将来に不安があるのを知りつつも、路上の靴磨きを選んだのは自分なのに、その決断の責任を、幾分かでも誰か他人に押し付けてしまうのは甘ったれの考え方だと、そう言っていた。こういうのを「男の気概」と呼ぶのだと、三井さんは豪語した。(「男の気概」についての異論はあるだろう。私にもある。だが、ここではこの件については触れない)

 この後十年程、三井さんは今まで通り師匠夫婦と懇意の生活を送った。世間は騒がしかった。テレビのニュースが平和と繁栄の時代が到来したことを告げていた。

 オイルショックの不況は長引き、インフレと円高が進み、巷の主婦からは節約の悩みが漏れ出た。自動車輸出の増大により、アメリカとの貿易摩擦が問題になり、何年も解決しなかった。コンピュータが台頭を始め、マイコン(パソコンのこと)が職場にも持ち込まれるようになった。インベーダーゲームが流行った。喫茶店にまで置かれる程だった。竹の子族や暴走族など、若者達の間に奇妙な連帯意識に基づく集団が生まれた。ノーパン喫茶なんてものまで流行った。世相からは切迫感が消え、人々の間には平和による恩恵と緩みが、音を大きくし始めていた。

 だがこの間も、世間の騒々しさと比べて、三井さん達の生活は静かで慎ましいものだった。

 年のせいか師匠が膝やら腰やらが痛いと言い出し始め、路上に出るのを休む日が出てきた。それでも次第に減っていく客と収入に、師匠は路上に出続けた。奥さんもそんな師匠を支えた。

 三井さん達に起きた変化といえば、そのくらいのものだった。三井さん自身の生活も、変わることは無かった。週に六日、きっちりと働いた。

 三井さんはサラリーマン達の靴を磨き続けた。目の前の足台に置かれた靴を丁寧に、熱心に磨き続けた。人を読んだ。人の好みを読んだ。客の満足とは何かに真摯に向き合い、最高と言えるものを求め、表現し続けた。経験を積み、自分の技を高め、調和に挑み、そして職人としての完成を目指した。そうやっていく内に、師匠にも一人前になったなと認めてもらえるようになり、固定客も随分と増えた。

 ある時「いつも良い仕事をするね」と言って去る老客に、三井さんは内心喜びを感じていた。その喜びは三井さんに、いつしか師匠が言っていた言葉を思い出させた。それは「プライドを持ってやることが重要だ。それは必ず認められる」という言葉だった。三井さんはこの言葉を理解した。言葉を包む通念としての外殻を破り、その中にあった本当の意味、具体的な人生から発せられたこの言葉の本当の意味を理解した。経験として、感情として、三井さんは理解することができた。なんて重い言葉だと、三井さんは思った。

 そして師匠のことが頭に浮かんだ。師匠は随分前に、このことを三井さんに伝えていた。三井さんは自らの成熟を実感していた。にも関わらず、三井さんの到達した場所は、かつての師匠がはるか遠い昔に足をつけた、単なる中間地点に過ぎなかった。道はまだまだずっと先の方まで延びていた。

 三井さんは師匠の背中を探した。師匠は三井さんの前を歩いていた。三井さんが進む道のずっとずっと先の方で、師匠は一人で歩いていた。その距離は余りにも遠く、果てしない長さだった。真の実力を身に付けたとの自負があったからこそ、三井さんにはそれがよく分かった。

「師匠はな、遠かったよ。ものすごく遠かった。俺の立ってた場所なんて、ほんの基礎を身につけたくらいのもんでしかなかったな、今思えば。……凄かった。とにかく師匠は凄い人だったな。……でもな、それ以上に、恐ろしいと感じたな、俺は。それまで随分長いことやってきて、それでいてまだ上があるんだからな。ホントに恐ろしいと思ったよ。師匠も。それから靴を磨くということに対しても。……大変なことだな、本当に」

 三井さんはボソボソとそう言った。

 私は三井さんの話を聞きながら、年月というものについて考えていた。

 拝みたくなる気持ちだった。


 この時代、三井さん達は平和だった。平和の時代の中に戯れていた。

 しかし潮目は変わり、時代は一変する。


「明るさは滅びの姿だろうか。暗いうちは人も家も、まだまだ滅びぬ」

そう言った人が昔あったのを、私は知っている。一九八六年。バブルがやってきた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ