2-4
1-1同様、形式のみ修正
この七年の間に、特記するようなことは何も起こらなかった。師匠の指導を一年ほど受けた後で三井さんが独り立ちしたことと、喫煙と飲酒と女を覚えたことの二つくらいだった。学生運動が火勢を増したが(死人まで出る騒ぎになったという)、既に労働に携わり、自立を自覚していた三井さんは、いい気なものだと考え、運動に関わることはしなかった。あと強いて言えば、十六の冬に大風邪を引いたことと関係して、健康保険証の取得と、その前提である住民票の移動を済ませたくらいだった。(住民票は三井さんの故郷の村役場に自分で行き取得した。そしてその足で東京への転入手続きを済ました。もちろんその事は三井さんの家族はおろか、師匠夫婦にも報告しなかった。特に師匠夫婦に相談すれば、反対されるのは目に見えていた。誰にも悟られずに転籍することで、三井さんの家族との離縁は完全になった)
二十二歳になった三井さんに待ち受けていたのは結婚という問題だった。さらに言えば、結婚に際しての三井さんの職業も問題だった。
現代では二十二歳で結婚となるとかなりの早婚に分類されるが、一九七〇年頃の当時でいえば、そのくらいの年齢での結婚は、それ程珍しくは無かったのである。(第一高校卒業ですら当たり前の時代ではなかった)
この年、三井さんには結婚を望む女性がいた。春子さんといった。三井さんと同じく東北地方を故郷に持つ女性で、上京してきた理由も集団就職によるものだった。三井さんよりも年は一つ下だった。彼女も東京で暮らすようになって随分経つはずだが、どこか野暮ったく、格好に垢抜けない所が残っている人だったという。田舎の古い因習を引きずっているような部分があった。性格的にも普段は穏やかで明るかったが、道徳や伝統的価値観といったものについては譲ることが無かった。身持ちの固い人だったと、三井さんは言っていた。だが、それが気に入ったのだとも言っていた。
三井さんと春子さんの間にあった恋愛模様について、私は詳しくは知らない。三井さんも詳細に話してはくれなかった。ただ春子さんとはボーリング場で出会ったのだと言っていた。(当時はボーリングが大流行していた)三井さんの友達(客として三井さんに靴を磨いてもらううちに意気投合した若者)が、ボーリング場で「一緒にボーリングしよう」と誘った女の子達の中に、春子さんがいた。同郷に育った三井さんと春子さんは、細々とした田舎生活に共通点が多かった。また大阪万博で見て回った展示物も一緒だった。会話は自然と弾んだ。お互いに集団就職で上京した身の上であることも、二人の間に共感を生んだ。それ以来二人は仲を深めた。これが三井さんが二十歳のことだ。
それで三井さんが二十二のときに、結婚の話が持ち上がったのである。春子さんは三井さんからの「結婚してください」のプロポーズに「はい」と答えた。この結果は師匠と奥さんにも届けられた。師匠夫婦はとても喜び、三井さんを祝福してくれた。結婚はすんなり行くものと思われた。
しかし、それは夢に過ぎなかった。この話は破談に終わったのだった。
破談の原因は、春子さんの両親の猛烈な反対だった。家族と絶縁状態にあり、何の後ろ盾もないような男とは結婚させられない、ましてや定職に就きもせず、路上で靴を磨いてその日暮らしに興じている輩の元に嫁ぐことなど絶対に許さない、というのが春子さんの両親の主張だった。三井さんは当然反発した。家族の件はともかく、靴磨きで生きる人達に対する侮辱は三井さんには到底看過できる事柄ではなかった。三井さんは決して世の中に対する甘えから靴磨きをしている訳ではなかった。確固としたプライドがあった。
それは確かに真っ当に働きもせず靴磨きなどしている者が、単なる放蕩者だと思われるのは三井さんも分かっていた。世間一般にそう思われてしまうのは、それは仕方の無いことだと認識していた。だが三井さんは生半可な気持ちで靴を磨いている訳ではなかった。三井さんは至って真剣に、靴磨きを職業としていた。自分をこの道の専門家だと、職人だと自負していた。妥協のない仕事をしてきたし、これからもそのつもりだった。世間様になんら恥じることは無いと確信を抱き働いてきた。それは安易な偏見などに馬鹿にされて良いものではないと、そう思っていた。
だがそれ以上に許せなかったのは、その言葉によって自分だけでなく、師匠までも馬鹿にされたような気がしたからだった。
「俺のことはいいんだ、俺のことはな。いくら馬鹿にされたってな、それは俺がグッと我慢すればいいんだからな。でもな、師匠を馬鹿にすることだけは、絶対に駄目だ。絶対にな。それだけは絶対に許せない。そんな奴がいたら、誰だろうとブン殴ってやるな、俺は」
三井さんは多少厳しい口調でそう言っていた。
怒った三井さんは春子さんの両親に対し、今すぐ伝言してきた言葉を取り消して、謝れと要求した。そうでなければ結婚などこちらからお断りだと。
次の日春子さんが訪ねて来て、こちらに謝る理由などない、結婚は破談だと両親が言っていると、泣きながら三井さんに告げた。そして、形だけでいいから、どうか両親に謝って欲しい、また、結婚を許してもらえるようお願いするために、一緒に故郷に行ってくれと懇願した。三井さんは駄目だと言った。それから、そちらの親御さんがすいませんでしたと頭を下げて来るまでは、もう君とは会わないと春子さんに言い、玄関の戸をピシャリと閉めた。それ以来、三井さんが春子さんと会うことは無かった。
それから一週間程後のことだ。三井さんが仕事帰りに師匠の家で夕食を食べている時、話が三井さんと春子さんの結婚に移り変わった。最近春子さんから電話がかかって来ないが(電話は師匠の家のものを借りていた)、向こうの親御さんとはもう仲直りしたのかと奥さんが三井さんに聞いてきた。三井さんは結婚は破談になったと言った。師匠がどうしてだと聞いた。三井さんは二人に事の始終を語って聞かせた。
話が最後の方まで進むと、師匠は突然立ち上がり、怒った様子で三井さんの胸倉を掴み上げ、そして「馬鹿野郎!」と叫んで三井さんを殴った。三井さんは後方に吹き飛び、テレビに背中をぶつけた。痛みにうずくまる三井さんに、師匠は怒鳴りつけた。
「『馬鹿野郎! 今すぐ春子さんの所に行って、すみませんでしたと謝って来い! 呑気に飯なんか食ってるんじゃねぇ!』……師匠はそう言って怒ってたな。……分かってるんだ。師匠が俺のことを考えてな、そう言ってくれたのは。靴磨きの職を馬鹿にされただとか、師匠を馬鹿にされただとか、そんなつまらんことで折角の縁談をぶち壊しにするなっていう師匠の言い分はな。俺に幸せになって欲しいっていう思いがな、師匠の中で一番強かったのは、それは良く分かっていたよ。でもな、それでも、どうしても許せんかった。師匠を侮辱することだけは、それだけは、俺にはどうしても許せんかったな」
師匠を父親同然に思っていたのだと、三井さんは言った。一緒に仕事をし、一緒に帰り、一緒に夕飯を食った。朝もやの中を、または、夕暮れの帰り道を共に歩いた。夏も冬も、気持ちの良い春秋の季節も、二人で働きに出て、二人で帰宅した。儲けの多い時には喜び、稼ぎの少ない時には二人で寂しく笑い合った。そんな生活を、師匠と三井さんは、もうかれこれ七年近くも続けてきていた。毎日毎日の繰り返しを、毎年毎年の繰り返しを、二人は共に見送ってきていた。信頼があって、絆があった。そしてそれは、いつの間にか父子の形を取るようになっていた。
三井さんは師匠を実の父のように尊敬していた。また師匠は師匠で、三井さんを実の息子にするように厳しい愛情を持って接していた。二人はお互いの思いを感じ取っていた。男としての虚栄心から、二人とも明確な言葉や態度に表すことは決して無かったが、お互いがそう思い合っていることは明らかだった。互いに意地を張って、知らない振りをしていたに過ぎなかった。そんな二人の様子を、後に奥さんは可愛らしいと言って笑ったこともある。
春子さんとの縁談でも、彼女の両親から「家族と絶縁し、後ろ盾のない者は駄目だ」と言われその相談を持ち掛けたとき、両親としての役割を進んで買って出てくれたのは師匠夫婦だった。奥さんは嬉しそうに母親役を、師匠は恥ずかしそうに父親役を、それぞれが買って出てくれた。三井さんにはそれがありがたく、嬉しかった。実の家族、特に実の両親から冷たい仕打ちを受けて育った三井さんには、それが何よりもありがたく、嬉しく思われたことだった。人の温かみに、その優しさに、三井さんは打ち震えた。家族の、信頼の暖かさというものに、この時初めて触れ得たのだと、三井さんは私に語って聞かせてくれた。
「あの時は、本当に感動してな。……ありがたくて、ありがたくて、涙が出そうだった。恥ずかしいからって、泣くのを堪えてな。笑いながら歯ァ食いしばってな、必死に我慢して……。馬鹿だったなぁ、我慢なんかしないで、泣いてやれば良かったのになぁ、師匠の前で。……今はそう思うよ。喜んだろうにな」
だが結局三井さんは師匠夫婦の申し出を断わったそうである。これまでも散々迷惑掛け通しだったというのに、もうこれ以上二人に迷惑は掛けたくないというのが、三井さんの心境だった。そしてそのことを三井さんが言うと、師匠は水臭いぞと不機嫌になった。しかしそれでも三井さんは自分の意見を曲げなかった。当時は迷惑を掛けないことが師匠夫婦にとっては嬉しいことなのだと、本気で思っていたからだという。
「若かったんだな、俺も。……師匠と奥さん、寂しかったろうにな」
こう言った後、三井さんは「面倒を掛けたり、タダメシ食わしてもらったりするのも、若者の務めなんだぞ」と、私を叱った。覚えておきますと、私は答えておいた。
「それからな」という言葉に続けて、三井さんは師匠に殴られた時のことも語った。
「嬉しかったなぁ、あの時は。人にあんなに思いっきり殴られて、嬉しかったのは、後にも先にもあの時だけだったな。イテかったけどな、師匠のパンチは。なんせ、力一杯殴るんだもの。ほっぺは腫れ上がるし、テレビは壊れちゃうしな、散々だったけど、でもな……。嬉しかったな、やっぱり」
三井さんは笑いながら小さく言った。
師匠に殴られた後、三井さんは師匠宅を摘み出された。だが殴られた後も三井さんの意思に変化はなかった。春子さんの両親に対する不満や怒りは依然として強いままだった。三井さんが春子さんに連絡を取ることは無かった。
師匠とはその二、三日後に仲直りをした。どうしても相手の発言を許すことはできないと三井さんが言うと、師匠はもう何も言わなかった。残念そうに、「分かった」と言っただけだった。その日の夕方には既に笑いながら一緒にゆうげを囲んでいた。
春子さんとの縁はここで切れるが、三井さんの結婚の話は、それから四年後に再浮上することになる。
この四年の間に、三井さんも師匠も練馬の方に引っ越していた。師匠夫婦は小さな家を建てそこに移った。三井さんは師匠の家の近所に新しく部屋を借りた。(さすがに戦後まもなく建てられた長屋の貸家にいるのは限界に来ていた。当時の練馬はまだまだ田舎だったが、今後開発が見込まれる割には物件や家賃が安く、引っ越すのには丁度良かった)
三井さんの縁談の相手は清美さんといった。三井さんより三つ下の女性だそうだ。この頃日本中で競馬がブームになっていて、三井さんも師匠夫婦と連れ立って競馬場に足を運んでいた。清美さんとはそこで出会った。
ただ三井さん自体は賭け事をあまり好ましく思っていなかった。苦労して稼いだ金を、わざわざ負けると分かっている勝負につぎ込んでしまうなど、ただの愚行のように思えた。お金というものはその日一日を働き抜いた自分を労うため、また、明日に待ち構える労働に備えるために使うものだと思っていた。だからその分さえあれば良かった。それ以上のお金は不要だと思っていた。
だが師匠夫婦、特に師匠については全然違った。金は多ければ多いほど良いと考えるタイプの人だった。投資やギャンブルなど、貯蓄には常に積極的だった。特に世間に競馬ブームが来てからは、競馬に熱狂的にはまり込んた。師匠夫婦は日曜日には必ずといっていいほど競馬場に行き、興奮してレースを眺めやった。三井さんもその付き添いで連れていかれることが多かった。いつ行っても競馬場は人で埋め尽くされていたと、三井さんは言っていた。
ある時馬券売り場の窓口で、もたもたしているせいで後ろに並ぶオジサンにネチネチ文句を言われている女性がいた。その女性が清美さんだった。丁度たまたまそのオジサンの後ろに三井さんはいた。そして三井さんは清美さんを助けた。それが出会いだった。
三井さんは清美さんが馬券を買った後、自分は馬券を買わないまま列から抜け出た。清美さんは三井さんに迷惑を掛けたと言って謝った。話を聞けば清美さんは、ここには父親に無理矢理連れて来られたのであって、競馬に興味は全くない、馬券を買うこと自体初めてだということだった。それから、こんな賭け事なんかよりも、自分は映画を見たいと言った。三井さんはその意見に賛同した。そしてレースのことなどそっちのけで、二人で映画の話題をし始めた。二人の恋愛が始まるきっかけだった。
清美さんは麻布に邸宅を持つ箱入りのお嬢様だと、三井さんは言っていた。当時では珍しく、女子大生だったのだという。我が薄いのか自分の意見を押し通したことが一度もなく、何事にも柔らかな物腰で応じる人だったそうだ。(現代では天然とか、癒し系で括られるタイプの女性だと思われる)プロポーズの時にも、三井さんの問いかけに屈託なく了解してくれた。
ただその婚約は間もなく破棄された。清美さんの両親、特に母親が結婚を許さなかったからだ。
反対理由は春子さんの時と同じく、三井さんの職業にあった。三井さんが上京してきた時には中卒など珍しくもなかったが、時代は変わり、この頃には高校全入時代を迎えていた。人力としての単純な労働力よりも、高度な知識を背景にした頭脳労働やサービスが求められる社会に、変わり始めていたのである。現代の母親達にも通じる教育熱の高まりも、この頃には既に表れていた。オイルショックによる不況も、保護者が安定志向に走る理由となっていた。(ただ不況といっても、それまでの十数年来に渡る好景気に比べての不況であって、現代社会が問題に抱える不況に比べれば、その深刻さの度合いは数値上では全然大したものではない)
そうした時代背景の元で、中学卒業の学歴で職業が路上の靴磨きである三井さんが、名家である清美さんの家族に歓迎されるはずもなかった。
三井さんは清美さんに聞いた。親の反対を押し切ってまで自分と結婚したいかと、未来に待っているのはきっと苦労の連続だが、それでもいいのかと、後悔しないのかと、そう聞いた。清美さんは両親と相談して決めると言った。後日、清美さんから手紙が届いた。そこには「申し訳ないが結婚はできない、両親の意向にはやっぱり逆らえない、でも、あなたは良い人だからきっといつか素敵な人に出会えると信じてる、元気でいて欲しい」そういったことが書かれていた。三井さんはそれを読み、がっかりもしたが、それよりも安心の方をより強く感じたという。それで良かったのだと言っていた。
「無理に結婚したって、お互い幸せになれないことは分かっていたからな。特に清美の方はな、箱入りだったから。大学出の才女様だしな、向こうは。住んでる世界が違ったんだな、やっぱり。……向こうの親御さん達の判断は正しかった。あれが一番良い判断だった。清美にも、俺にとってもな。…そういうこともあるんだな、人生には」
この時三井さんは「人生」という言葉を使ったが、私には大げさには聞こえなかった。ただ私は肯定も否定も返さなかった。どちらの権利もない様に思えた。そうかもしれませんね、と言うに止めた。




