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1-1同様、形式のみ修正
Ⅱ
三井さんは東北、秋田県の山里深い農村の生まれで、今から大体五十年前、一九六五年に東京に出てきた。中学を卒業して直ぐの年、十五歳の時だったそうだ。
まだ少年だった三井さんは風呂敷包み一つで上京した。そうするだけの理由があったのだという。
当時は高度経済成長期の只中で、拡大していく需要と消費を背景に、あらゆる分野、あらゆる業界において、健康で丈夫な働き手が諸手で歓迎されていた時代だ。そんな労働需要の逼迫した中で、中学卒業と同時に上京する若者は非常に多かった。特に東北の寒村から東京に出稼ぎに来る者の数は異常とも言える程だった。村のほとんどの若者が東京か、あるいは地方都市に職を求めて出て行った。三井さんの先輩や友達の中にも、そうやって何の知識も経験も無く、若さと労働意欲だけを武器にして、村を飛び出す人間は多かったのだという。都会への憧れも手伝ったと言っていた。
また三井さんの実家が稲作を行っていたことも関係する。六五年の頃、米の生産は先細りすることが予見されていた。戦後の二十年間で日本の米に対する自給率は百パーセントを超えていて、三井さんが中学を卒業する頃には、毎年毎年消費しきれない程に生産される米が問題になっていた。村の大人達が水田の中でこれからどうなるんだろうと、不安げに話をするのを、三井さんはよく耳にしたそうだ。そうした当時の情勢も、三井さんの上京の動機となった。
だが何より三井さんを上京へと促したのは、三井さんの家庭内の不和だった。三井さんには、両親、祖父母、兄一人、妹二人がいたのだが、祖父母以外とは余り仲が良くなかった。特に両親との仲は最悪だった。父親は、事ある毎に三井さんを殴った。三井さんが中学に入った年のある晩、余りに殴る父親を見かねて祖母が仲裁に入ったことがあった。しかし父親は、子供の躾に口を挟むなと激高し、祖母を突き飛した後、三井さんをさらに激しく殴り続けたという。母親も母親で三井さんには冷たかった。好き嫌いというレベルではなく、無関心に近い冷たさだと言っていた。三井さんが父親に殴られようが蹴られようが、我関せずの態度だった。
「あんまりお父さんに歯向かうんじゃありません。……私まで怒られるでしょ」
三井さんが散々父親に殴られた後、母親は溜息を吐いてそう言ったという。
だが、そうしたことは仕方の無いことだったのだと三井さんは言う。自然を相手にする厳しい労働環境と、古い因習の根強く残る農村では、重用されるのは跡取りであり、愛情を一心に受けるのは長男なのだ。次男である自分が、一つ下に扱われるのは仕方の無いことなのだと言っていた。現代では過酷だと捉えられることであっても、あの時代背景から言えば、ちょっと運が悪かったで解決するのだと。
また昔から口が重く、そのくせ強情で愛嬌を知らず、真面目一辺倒だった自分にも原因はあったと、三井さんは言っていた。事実、三井さんを除き、兄も妹達も父親から殴られることは一度も無かったのだそうだ。彼らと母親の関係も良好に見えた。兄は三井さんを除いて妹二人を可愛がっていたし、妹達もまた兄を慕っていた。ただ兄も妹二人も、三井さんには余り話しかけては来なかった。話してもつまらないと思われていたのだろう。それどころか彼らは自分を馬鹿者扱いする態度さえ滲ませていたと、三井さんは言っていた。食卓に着いている時、兄妹達の低音高音の入り混じる会話はとても楽しそうに聞こえたと、そうも言っていた。
家族の中で自分だけが除け者にされ隅に追いやられている、そんな寂しさの中で少年時代を過ごしたと、三井さんは恥ずかしいのか、少し笑ってそう言った。兄妹達は談笑し、父親は仕事に精を出し、母親は父親の農作業の手伝いと家事炊事に追われ、三井さんは父親に殴られ、祖父母はそれを傍観する。それが三井家の役割分担なのだと思い返していた。家庭の中に居場所はなく、自分はただ生かされているだけだったのだと、そう言っていた。
だが、家族の中での孤立は、当然ながら三井さんの家族愛を欠落させる結果となった。当時三井さんの学友の中にも似たような境遇に喘ぐ者がいないでもなかったが、しかしだからと言って、同じ忍耐の中に身を置く同志達の存在が、三井さんの寂しさや苦しさを和らげたかと言えば、そんなことは無かった。三井さんは苦しみ、当たり前のように家族を嫌った。特に父親を嫌悪していた。一方的に理不尽な暴力を振るう父親は、三井さんにとってとても許せるものではなかった。だがそれ以上に、他の兄妹達との扱いの違いに三井さんは憤りを感じていた。自分に対するあからさまな差別に傷ついていた。殴るのはいいんだ、と三井さんは言っていた。殴ることは別に構わないと。殴って育てるのは、あの頃ではそんなに珍しくもない教育方針だったからなと。しかし一瞬の間を置き、三井さんは私から顔を背け誰にとも無く呟いていた。
「兄妹が全員同じように殴られていれば、まだ納得もいったろうにな」
これは話を聞いた私自身の印象ではあるが、彼は父親と共に、自分の運命をも憎んでいたと、そう断言しても差し障りないように思う。彼が繰り返し口にしていた「仕方が無い」という言葉の裏には、とても諦め切れたものではないという運命に対する悔しさが、まざまざと滲み出ていたように感じられたからだ。
だから、と言っていいだろう。三井さんは中学卒業直後の三月には上京していた。当時集団就職と呼ばれた東京への出稼ぎは、本来であれば四月になってから郷里を後にするのが一般的だったが、三井さんは四月を待ってはいられなかった。一刻も早く、家族から決別したかった。それで家に両親のいない時を狙って床下に隠してあった現金を持ち出し、国鉄(現在はJR)の駅までの遠い道のりを歩き、そして東京行きの夜行電車に乗り込んだのだという。家族の者には何も告げなかった。書置きも残さなかった。荷物は風呂敷に包めるだけの着替えしか持って行かなかった。もう二度と戻ることは無いと心に決めて家を出た。詰まる所、三井さんは家出少年だったのである。
「今では悪いことをしたと思っとるよ。なんせモノがなかったからな、あの頃は。家にあった着替えは、父と兄の分も含めて全部持ってきてたしな、金もほとんどかっぱらって来てた。いい気味だと思ったんだがな、あの頃は。……あと、先生についてもな。先生、ああ、俺の当時の担任だがな、先生にも迷惑かけたろうなぁ、きっと。働き出した後に、仕事が厳しくて逃げ帰ってくる奴は仰山いたが、まさか就職する前に逃げ出す奴がおるなんて、先生は想像もしなかっただろうにな。……就職先にな、なんて言って、謝ったんだろうな」
三井さんは懐かしそうに、少し笑ってそう言った。
上野駅に着いた三井さんはまず住み込みで働ける職場を探した。三井さんには内定している就職先があるにはあったのだが、でもそこに勤めようとは思わなかったそうだ。そこで働けば、万が一家族や担任教師が自分を探しに来た場合、簡単に見つかってしまう。それが三井さんには嫌だった。できるなら今後一生、家族の者達とは顔を合わせたくは無かった。それで小さな町工場を一軒一軒聞いて回ることにしたのだという。
勤め先は簡単に見つかった。当時中卒の若者は「金の卵」と言われる程人気があった。金の卵が自分から飛び込んで来たのである。欲しがろうとしない訳が無い。工場の主人らしき人とほんの短い面接の後、三井さんは墨田区の紡績工場で働くことが決まった。また、その日から泊まっていいという許しも出た。三井さんは喜び、とりあえずの安心を得た。
しかし労働は過酷だった。朝は九時から、夜は十時半まで仕事は続いた。休みは二週間に一度で、にも関わらず極めて薄給だった。勤め始めて最初の半年は、月に二千円の給料だと言われた。当時はかけ蕎麦が一杯五、六十円だった。中学を卒業したばかりの、食欲旺盛な男子に、月々二千円の小遣いではどうしたって足りない。三井さんは飢えに飢えていたそうだ。
「菓子パンが一つ十円でな、それを三分割して、朝、昼、晩で食べたもんだ。腹が減って、腹が減って、もうどうしようもなくてな。仕事なんてできたもんじゃなかった。一日一日、いかに動かず、喋らず、その場に突っ立ってることができるか、もうそれだけだったな。説教でも食らえば儲けたもんだった。働かなくて済むんだからな。…それでも、なんとか続けた。帰る家が無かったからな、仕方がなかった。二、三ヶ月もする頃にはガリガリになっててな、鏡に映る自分が自分じゃないみたいだった。頬に穴が開いたみたいへこんでな、それから目が落ち窪んで、ギョロギョロしててな。……いや、酷い時代だったな」
それから三井さんは「今は本当にいい時代になったな」と、しみじみ溢していた。そして今の若者は世間様に感謝しなきゃならんぞと、私を叱った。
また住環境も最悪だと言っていた。三井さんの勤める工場には、三井さんの他にも集団就職で上京してきた少年労働者が六人いた。三井さんを含めて全部で七人である。その七人が六畳間の一室で寝泊りしていた。部屋に隙間無く布団を敷き詰め、そこで七人全員で雑魚寝をするのである。プライバシーも何も、在ったものではないと三井さんは言っていた。
「仕事が終わってな、皆疲れているからな、直ぐ消灯になる。でも皆直ぐには寝ない。何をするかって? ナニしに行くんだな、皆が。宿には便所が一つあってな、一人になれる所なんか、そこしかないから、皆が順番にそこに通うんだな。順番も決まっててな。一番年長の人間が一番最初に便所に行く権利がある。早く済ましてしまえば、その分だけ寝る時間が長くなるからな、年の順に便所に行く権利があるんだな。ただ面倒臭いのは、誰もが毎日抜きに行くって訳じゃない所だな。俺が入った時には全員が先輩だったが、どの先輩も『俺は今日はトイレ行かないぞ』とは言ってくれないからな、そこは雰囲気で察するしかない。寝息が聞こえてくれば、その人はその日はナシでな、じっとしてはいても息を殺しているように静かにしているだけなら、その人はアリだからな。その場合は待つしかない。先輩は六人いるからな、六人の寝息を聞き分けなけりゃいかん。大変だったな、ありゃあ。……でな、もし間違って先輩達をすっ飛ばしてしまったらな、次の日の朝、仕事に行く前に一発殴られる。『おい』って呼び止められて、後は何も言われず、握りこぶしでガツンとやられる。イテェぞぉ、ありゃあ。……でもまぁ、それで、ああ、昨日はしくじったんだなと気付くわけだな」
私は笑った。そう言って話す三井さんは楽しそうだった。楽しそうな三井さんを、私はこの時始めて見たと思った。
それでも三井さんがそこで仕事を続けたのかといえば、そんなことはなかった。三井さんは四ヶ月目の給料を貰った次の日に、その工場を逃げ出した。空腹が耐え難かったのだという。夜が明ける前の早朝、三井さんは纏めた荷物を持って、寝静まった部屋をこっそりと抜け出した。短い付き合いだったとはいえ、お世話になった工場長と兄工員達には多少なりとも義理を感じていた部分もあり、さすがに黙って出て行くのは忍びなく思われた。それで自分が寝ていた場所には「やめます」という一言と、感謝の言葉を書き残したメモ用紙を残して出たのだそうだ。




