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1-1と同様、形式のみ修正
私はそれからも何度か彼の元を通った。
仕事は依然として忙しいままで、ワイシャツやスーツに気を配るだけでも困難なことだった。靴のことまでは、どうしても手が回らない。靴の掃除など、十分程度で済んでしまうのだから、週末の休日に手早くやってしまえばいいとは思うものの、週に一度きりの休日なのだ。例え十分であっても、時間を割きたくない。ついつい来週こそ、来週こそと、先送りしてしまう。その間にも、靴の光沢は消え、埃がうっすらと被り、くたびれた印象は日に日に強くなっていく。せっかく彼から貰った教訓も、生かせず仕舞いだった。
そんなだから、靴の掃除については自然と彼の方に意識が向いてしまう。それに、私は不思議と、あの老人のことが嫌いではなかった。
確かに、彼は口数少なく、笑わず、身なりも真っ当とは言えない。そのぶっきら棒な物の言い方にも、度々まごつかされたものだ。それでも彼との会話は、私にどことなく懐かしさを感じさせた。十年ほど前に他界した、私の祖父に似ているのだと思う。祖父は生前、大工だった。職人気質の強い人で、よく真顔でぶっきら棒に私に話しかけてきたものだ。人の話を聞いてないようで、聞いている。何か言うべきことがあれば言うが、なければ黙ったままだ。話に脈略がなく、表情の変化に乏しい。そして頭が、恐ろしく固い。口調が強い。そういった所は、彼とよく似ていると思えた。
私は大体月に一度彼の所に靴を磨きに行ったが、そうした懐かしさも手伝い、彼を訪れる回数が増えるに従って、私も段々と彼に慣れ親しんでいった。私からの一方的な話の方が多かったが、会話と言えるやり取りも、次第に次第に増えていった。
私が彼と話すことで知ったのは大体次のようなことだ。
彼の名は三井といった。新宿中央公園で寝泊りしているのだという。少し前までは上野を根城にし靴を磨いていたのだが、最近になって、新宿で商売をするようになったということだ。昔は路上で靴磨きをする人間もそれなりにいて、お互いの縄張り意識が強く、商いを行う場所の変更など不可能だったのだが、最近ではこの手の商売人もほとんど絶滅しかかっていて、以前は無理だったことも近頃は平気でできるようになったそうだ。三井さんには住居もない。街から街に流れることは簡単だと言っていた。客は上野では年配のサラリーマンが多いが、新宿では外国人が多いという。新宿は若い人が多い(若いといっても彼から見てだから、三十代、四十代を指している)から、自分のような路上で靴を磨く人間に見向きもしないのは分かるが、外人ばかりが自分の所に来るのは何故なのか。三井さん自身にも見当が付かず、少し困惑していると言っていた。また彼らの靴は日本人の靴よりも大振りで、客として相手をするのは骨が折れるとも、言葉が通じないことも時にあるから不安だとも言っていた。仕事は平日の日中、ほぼ毎日出るらしい。真冬で凍えるような寒い日には商売をしないこともあるが、夏のうだる様な暑さの中でくらいなら、我慢して路上に出ると言っていた。炊き出しに頼れば食事には困らないと、三井さんは前に言っていたことがある。私はその事を思い出し、どうしてそうまでして働くのかと彼に聞いた。三井さんはこう答えた。
「やっぱり、旨いもんが食いたいからな」
「……ですよねぇ」
私は彼の言葉に、笑って同意した。
そうしてほぼ一年が過ぎ、また春がやって来た。この間に、私の環境にはある変化が起こっていた。
会社を辞める、ということだった。辞意は冬の間に上司に伝えてあった。退職の理由は簡単だった。私はある劇団の劇団員、それも脚本家として専念しようと考えていた。それが理由だった。
学生時代、私は演劇をしていてそれに夢中だった。演劇が私の生活の全てだったと言ってもいい。だから大学三年の就職活動中にも随分と迷った。貧しくとも演劇の道に進むか、それとも演劇は諦め、サラリーマンとしてある程度保証された安定の中に生きるか。私にとっては究極の選択だった。志望する業界だとか、働きたい企業だとかを考える前に、その二択が最も難問だった。だが結局のところ、私は夢追い人としての将来に恐怖し、その恐怖に屈服した。芸の道が、ただただ恐ろしく思われたのだ。私の向かう先には、貧しさと惨めさだけが待っていて、成功や幸福は一片も残ってないように思えた。現在の自分を起点に、ずっとずっと先の未来、将来の地平線まで延びる道が、真っ黒い光に照らされているように見えた。私はそうした暗闇の世界を進むことを恐れ、思わず立ちすくんだ。何度も自分の願望というものを最初からなぞってみて、それが演劇の世界に通じていることは良く分かっていた。しかしそれでも、どうしても駄目だった。いつも同じ分岐路で立ち止まってしまい、そのから先には一歩たりとも踏み出せなかった。その間にも時間は刻々と進み、進路を決める期限は迫った。私はその分岐路で何か輝かしいものから顔を背け、目を瞑り、次の一歩を踏み出した。そしてその一歩は、演劇とは別の道に踏み出されていた。
私はあるIT系の企業に就職した。前述の通り、仕事は死ぬ程と言っていいくらい忙しかったが、予想に反し、仕事はそれなりに面白く感じられた。疲れ気味ではあったが、心身も健康で、決して多くはないとはいえ、収入も安定していた。職場の人間関係も良好だった。問題は、だから無いはずだった。
だが私は気づいていた。私の生活には決定的に不足しているものがあった。充足という感覚だった。仕事では、確かにどの案件でも、それなりに面白みを感じてはいた。同じチームの人と協力しながら一つのシステムを構築していくのは楽しく、思いがけなくもやりがいといったものまで感じる程だった。しかし結局はただそれだけだった。どれだけ議論を重ね、熟慮を経て、苦労の末にやり遂げても、何の達成感も感じることは無かった。まるで映写機で映し出された他人の人生を、ぼんやりと見送っているような感じだった。常に感情は希薄で、人生の実感に乏しかった。虚しい、というのが、この時最も適した言葉だったろう。
簡単に言えば、私は演劇を諦め切れていなかった。ただ単に考えないようにしていたに過ぎなかった。私は間違った選択をした。諦め切れないことを、諦められると思い込んだ時点で私の選択は誤っていた。事実、私は前に進んではいなかった。何年もの月日を学生時代と変わらない場所で、足踏みしていたに過ぎなかった。
そんな時、大学時代の劇団仲間で、今度新しく劇団を立ち上げるから脚本を務めてくれないかとの話が私のところに来た。私はその勧誘に進んで応じた。自分の中で、何かが目覚めるような、新鮮な感動が広がった。懐かしい感覚が、命の鼓動が、胸の奥に甦えるのを感じた。ああ、そうかと思った。生きるとはこういうことかと、思い出した瞬間だった。それが今年の一月のことだ。
それから直ぐに、私は退職の意思を上司に伝えた。その際、引き止められたり、拒んだりと、まぁ色々紆余曲折あるにはあったが、何とか上司の合意を得ることはできた。後は退職までの日程調整と、業務の引継ぎを行えばいいだけだった。
上司との相談の結果、退職日は四月の月末ということになった。有給消化期間も含めれば、四月は丸々休める。三月の最終週で引継ぎを完了させることを念頭に、私はそれまでと同じように淡々と作業を進めた。挨拶に伺わねばならない人の所にも出向き、退職を報告していった。その中には三井さんも含まれていた。
私は三井さんを訪れた。三井さんにはあるお願いをするつもりだった。三井さん自身の人生の物語を聞かせて欲しいというお願いだった。脚本を書く際に、何かの役に立つかもしれないと考えてのことだった。
三井さんは相変わらずいつもの道で低いパイプ椅子に座り、目の前を人が行き来する様子を眺めながら、客が付くのを待っていた。
「お久しぶりです。三井さん」
「うむ」
「今日も磨いてもらっていいですか?」
私はそう言いながらも、既に小さな台の上に足を置いていた。三井さんは返事をしなかった。これはいつものことだ。そして返事の代わりに、手を動かし始めた。これもまた、いつものことだった。
「今日は一つ、三井さんにご報告があるんです。僕、会社を辞めることにしました。だから、三井さんに靴を磨いてもらうのも、おそらく今日で最後になると思います」
「……辞めるのか? 会社」
「ええ」
「……次は?」
「え?」
「次は、決まってるのか?」
「次? ……仕事のことですか?」
「そうだ」
「いえ、決まってないです。というより、次は定職には就かないと思います。演劇の劇団に入って、脚本を書くんです」
「演劇?」
「ええ。学生の頃からやってましてね、演劇。今度、本腰入れて、やってみることにしたんです」
「仕事はしないのか?」
「しないですね。時間、取られたくないですから。まぁ、生活のためにバイトはするつもりですけど」
「……どうしても、やるのか?」
「演劇ですか?」
「そうだ」
「ええ、そうですね。どうしてもやりたいですね」
「……それは、今やらなければならないのか?」
「ええ、そうですね。今でなければなりませんね。絶対に」
「……そうか」
そう言うと、三井さんは押し黙った。もう聞くことは無く、また話すこともないという彼のサインだった。
「それで、あの、一つお願いがあるんですが」
「反対」
「え? 反対? ……ああ、靴か。すいません。……はい」
私は台に乗せる足を入れ替えた。三井さんが靴を磨き始める。
「それで、お願いなんですが、これから様々な物語の脚本を書くに当たって、参考までに三井さんの話を聞かせて欲しいんです。靴磨きの職人としての話を」
「……話」
「ええ。そうです。演劇の脚本の中には、様々な境遇の人達が登場するじゃないですか。だから、脚本を書く際、何かの参考になるかもしれないので、靴磨きを生業とする三井さんの話を聞かせて欲しいんです。興味があるんですよ、靴磨きをする人って。滅多に見ないから」
「……俺の、話」
「ええ。そうです。三井さんの話です」
三井さんは何も言わなかった。布を巻きつけた三井さんの指が、私の靴の上をただ前後するだけの時間が続いた。
しばらくして彼は言った。
「……分かった。いいだろう」
「ありがとうございます」
私は笑って言った。
その後、私は有給消化期間に入ってから再度訪問することを三井さんに告げた。いつ訪れたら良いかと聞く私に、三井さんは特に予定はなく、いつ訪ねてきても良いと言った。ただできれば仕事を終える夕方がいいのだそうだ。私は一月後くらいの、夕方にお邪魔すると言って、その日は仕事に戻った。
それから一月後、私は約束通り、三井さんを訪ねに行った。夕暮れ時で、太陽は既にビルの陰に隠れ、西の空に広がる雲を橙色に照らしていた。空気はひんやりとしていた。三井さんは私が最初に見た時と同様に、外人を相手に靴を磨いていた。
三井さんが外人の相手を終えるのを見計らって私は声を掛けた。三井さんは私の姿を認めると、商売道具をかたずけ始めた。私は路上では落ち着かないから新宿中央公園で話しませんかと提案した。彼はそれでいいと言った。
私達は途中のコンビニでカップ酒を七つ八つと柿の種を買い、新宿中央公園に向かった。
私が無理を言って話を聞かせてもらうのだからと、酒とつまみの会計は私が持った。目的地に着いて空いているベンチに腰を降ろし、カップ酒を啜りながら私は話を切り出した。
私の質問は決まっていた。それは「靴磨きをする上で最も大事なことは何か」、ということだった。三井さんはその質問に対し、「相手を知ることだ」と言った。何を言っているのか、私には理解できなかった。それでどういうことか説明して欲しいという私に、三井さんは最初こそボツリボツリと答えるだけだったが、その内、別人かと思える程饒舌に話してくれるようになった。酒が回っているらしかった。
三井さんの話は、彼のこれまでの人生と絡めて、大体次のように纏められる。




