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「私」の性別は男です。

 Ⅰ


 午前十二時半過ぎのことだった。私はその日の仕事を終え、新宿の街を駅に向かって歩いていた。頭の中では終電時刻に追われ、やむ無く残してきた仕事のことを考えていた。終電間際の帰り道に人は少ない。歌舞伎町の方面に行けば、平日の深夜でもある程度の賑わいはあるだろうが、私の職場は西口のオフィス街の方にあった。闇にどっぷり沈み込んでしまうというほどではないが、人の気配は全く感じられなかった。並び立つビルからまばらに明かりが漏れ、ほかはモノクロの景色だった。私の歩調に合わせて靴の踵が小さく鳴り、その音が余計に静けさを強調していた。そんな中、私の思索はそれなりに捗った。

 ……男の叫び声が聞こえた。

 新宿ではよくあることだ、例えそれが真夜中で、オフィスビルの只中のことであったとしても。私はそう考え、気にも留めずに明日の仕事のことをまた考え始めた。

 …もう一度、男の声がした。

 悲痛な叫びにも聞こえた。私は足を止め、辺りを見回した。靴の音が止み、辺りから音が消えた。

 ……再度、男の声がした。

 助けてくれ、とその声は言っているようだった。はっきりとではないが、私にはそう聞こえた。私は構わず、駅に向かって歩き出した。その声の主を探そうとはしなかった。それが人道的に堕落だということは分かってはいたが、この時、それは余り問題とはならなかった。

 疲れていたからだった。この三ヶ月というもの、朝の九時から、深夜午前十二時過ぎまで仕事をし、家に帰れば急いで酒を飲み、後は眠るだけの生活が続いていた。休日も土曜か日曜のどちらかは仕事で、ろくに休めたものではなかった。疲労は極限に達していた。そんな状況に陥れば、多少の差こそあれ、どんな人間でも面倒事を避けて通るようになる。私の場合、それが全ての事柄に対して働いていただけだ。私はそこまで人類愛に熱くない。

 その間にも、二度三度と男の叫び声が聞こえてきたが、私はそれを無視し続けた。どうやら老人の声に聞こえる。そしてその声は意に反し、前進するに連れ大きくなっていった。どうやら駅に向かう道の途中に、声の主はいるらしかった。そのまま歩いていると、押し殺したような、複数の若い男の声も聞こえてきた。二、三十メートルくらい先からだろうか。それ程遠くないと思った。私は声のする方に目を向けた。

 消灯の済んだビルの下、人の形を縁取った黒い影が二つ三つ、薄闇の中で動くのが確かに見えた。影は何か地面に転がっている黒い塊を蹴ったり、踏みつけたりしているようだった。そして、その動きに合わせて若い男達の荒れた声が伝わってきた。私は親父狩りだと、すぐに思い至った。一瞬躊躇した。が、小さく溜息をつき、直ぐに自分の行動を選択した。

「おまわりさん! こっち、こっちです! 早く!」

 私は彼らから死角になる方向、つまり、自分が今歩いて来た方向に向かって叫んだ。また、彼らが興奮に囚われていたとしても、十分に聞こえるように声を張り上げた。巨大な闇の中に私の声が木霊した。

「やべえ、見つかった」

「逃げるぞ」

 三つの影がその場から遠ざかっていった。思惑は成功した。ただ、万一私の言葉が嘘であることが彼らにばれた場合、彼らはまた戻ってくるかもしれない。私はその場合を考慮し、一応警察に電話しておいた。新宿警察が直ぐにこちらに来てくれるとのことだった。

 私は電話を切り、彼らがいた場所に目を向けた。相変わらず黒い塊は地面に転がっている。微かな呻き声が、息遣いとなってこちらに伝わってくる。私はその影の方に歩いていった。

「大丈夫ですか?」

 私は声を掛けた。

 初老の男性が左肘を抑え、丸まるような姿勢で横向きに寝転がっていた。その身なりから、よく見なくてもホームレスだと分かった。男はきつく目を閉じ、低く呻くばかりで、私の質問には答えなかった。私は痛みで男に答える余裕がないのだと判断した。

「警察を呼びました。もう直ぐ来ると思います」

 そう言った後、私は男が落ち着くのをしばらく待ってみた。だが、男はそれでも喉から呻き声を漏らすばかりで、私の言葉に何の反応も示さなかった。私は聞こえないように小さく溜息をついた。

「……本当に、大丈夫ですか? 頭打ったりしてませんか? 目眩や、吐き気はありませんか?」

 男は苦しそうな表情のまま片目を開け、一瞬私を見たが、また直ぐに目を閉じてしまった。そして、やはり何も言わなかった。私は諦めた。終電の時間が迫っていたこともある。だが何より自分自身の疲労が辛く、人の心配をしてやる余裕など無かった。私は肩をすくめた。自分はもう十分に役に立ったはずだ。後は好きにしてくれと思っていた。

「……ちょっと、待ちなさい、お兄さん」

 黙って立ち去ろうと身を翻しかけた私を、老人は呼び止めた。絞り出すような声だった。彼はううっ、と苦しそうに声を漏らしながらゆっくりとその場に立ち上がった。直立するのは辛いらしく、左肘を押さえたままの前傾姿勢でかろうじて立っているという有様だ。真っ黒いぶかぶかの上着が腕や裾から垂れている。薄闇の中でも、それが清潔でないことは見て取れた。

「命拾いしたよ。ありがとう」

 男が言った。痛みのせいか、言葉の内容とは逆に、彼の口調は固かった。

「いいんですよ、別に。……それと、警察を呼びました。もうすぐ来ると思います。頭を打ってませんか? 目眩や吐き気は?」

 私は早口に言った。

「……いや、大丈夫だ」

「そうですか。体の方は余りにも痛みが激しい場合、骨折とかもありうるんで、その場合は救急車を呼んでください。警察に相談すればいいと思います。じゃ、僕はこれで」

 私は踵を返した。なるべく早くその場を立ち去りたいと思っていた。警察が来れば必ず面倒な問答が発生することは目に見えていたし、加えて終電がそろそろ本格的に危なくなっていた。私は医者ではない。人命に関わることだけ確認できれば満足で、人の健康などに一々構ってはいられなかった。一人で立てるのだから、深刻なダメージには至っていないはずだ。あとは警察に任せておけばいい。そう思った。

「ちょっと待ちなさい」

 私はその声に多少苛々しながら振り返った。老人は視線を落とし、じっと私の足元の辺りを見ていた。それから顔を上げて言った。

「礼がしたいから、近いうちに東口の新宿通りに来なさい。三越の前辺りにいるから」

どうでもいいと思いながらも、私は「分かりました」と答えた。そして「電車の時間がありますんで、これで」と言い、早々にその場を立ち去った。


 私が彼の元を訪れたのは、その一週間後のことだった。

 彼は私に礼がしたいと言っていたが、私はそんなもの欲しくは無かった。どうせ大した物ではないだろうと予想していたこともあるが、それ以上に、彼が指定した場所に赴くこと自体が、私には億劫に思えてならなかったからだ。私は唯々休息が欲しかった。コーヒー一杯飲むだけの時間でいいから、心身を休めるための時間が、私は欲しかった。それ以外のもの、例えばお礼の品や、感謝の言葉などは無価値に等しく思えた。

 だから私と彼が再会した事も意図したわけではなく、単なる偶然に過ぎなかった。何より彼の言っていた場所など、私はろくに聞いてさえいなかった。彼を助けたことすら、その次の朝には綺麗さっぱり忘れていて、起きた瞬間から疲労ばかりが私の気分を支配していた。前夜に残してきた仕事も気がかりだった。そんな調子で、彼を訪ねようと思えるはずも無かった。

 それでも私は彼と再び会うことになった。

 昼休みのことだ。私は一人で外出し、新宿の街を散歩していた。職場の人達は弁当を持参してくる人を除き、皆で一緒にランチに出かけたりするみたいだったが、私は彼らと行動を共にしなかった。というのも、そもそも私が昼食を摂らない人間だったからだ。昼に食事をすると、必ず午後の最初の二、三時間は睡魔との苦闘を強いられる羽目になる。私はそれを嫌った。結果として私の昼の過ごし方は、昼食を摂らず、一人でオフィスを抜け出しコーヒーショップで文庫本を読むか、新宿の街を散歩するか、最悪オフィスで仕事をし続けるかのいずれかになっていた。

 そしてその日は散歩をしていた。少し暑いくらいの日差しの降り注ぐ春の日だった。長引く冬がようやく終わり、新宿の街には眠りからの目覚めを思わせる様な活気が漂っていた。上着を羽織らず、既にワイシャツだけの男性(彼らの白いシャツは、光を反射して非常に眩しかった)や、日傘を差して歩く女性が目に付いた。日傘がない女の人は財布をおでこにかざして日光を防いでいた。私はそうした人達とすれ違い、追い越し、追い越されながらも、気分を害することもなく、また高揚を覚えることもなく、淡々と歩き続けた。

 十五分程歩き、いつの間にか、三越の前辺りまで来ていた。丁度ランチタイムでもあるため、その辺りの道は特に混雑していた。そうした雑踏の中に、立ち止まっている白人の男がいた。私はその時道路の反対側にいたのだが、男は極めて背が高く、雑踏の中でも一際目立っていて、側を通り過ぎる人々の頭から彼の肩が生えているのが私から見えた。見た限り、彼はそのクリーム色した頭を、ずっと下方に向けている。その視線の先に何があるのか、私には分からない。私は不思議に思った。道路を渡り、彼の側まで近づいていってみれば、何のことはない、彼は靴を磨いてもらっていただけだった。

 がっかりする反面、新鮮にも思えた。私はそれまで、靴磨きをしている場面を見たことが無かった。殊に、それが外人を客にしているのは、私の目に、一種珍妙な組み合わせに映った。私は道の端に逸れ、携帯を操作する振りをして、その光景を少しの間観察していた。

 その内、私は外人ではなく、この靴を磨いている男の方を、より多く見つめることになった。私の中に、何か薄い既視感があった。あの強張った髭や、だらんと伸びた黒い裾、日に焼けた肌、初老という老齢。いつか、私が親父狩りから助けた、あの老人だと直ぐに思い至った。礼の事はともかく、声くらいは掛けていこうと思ったが、老人の仕事を邪魔しては悪いと思い、仕事の完了まで少し離れた所で待った。

 靴磨きが完了したらしく、外人はOh, good! Good match.に続けて、アリガト、ゴザイマスと言い、五百円を払って帰って行った。客が去り、商売道具を整理している老人に、私は話し掛けた。

「お元気ですか? 体の調子はどうですか?」

 彼は手を止め、私を訝しそうに見た。

「……どちらさんだったかね?」

「先日、その……、西口の方で、あなたが若者に襲われている所に、出会わせた者です」

老人は私のことを思い出しているのか、しばらく真顔で私を見つめていた。それから何も言わずに足元の缶やらスプレーやらを、再びかたずけ始めた。

 作業を続けながら、ぼそぼそと老人は言った。

「……ここにな、足を乗せなさい」

「え?」

「ここに足を乗せるんだ」

「あ、はぁ」

 老人は顎をしゃくりながらそう言った。私は彼の言うがままに、彼の目の前に置かれている足代の上に右足を置いた。

「お兄さん。ちょっとズボンの裾をな、持ち上げててくれ」

「え? あ、はあ」

 私は腿の辺りの布を掴みズボンを引き上げ、足首から五センチ程上までを露出させた。彼は汚れたタオルを手に取り、撫でるように私の靴を拭き始めた。

「あの……」

「そのまま少し待っていなさい」

 彼は顔も上げず、そう言った。有無を言わさぬような口調だった。だが昼休みの終わりまでまだまだ時間はあると考え、私は大人しくその言葉に従った。その間も、彼はブラシで靴を手早く払い、ソールと革の継ぎ目に溜まった埃を落としていった。

「お兄さん。このスーツを着るとき、いつもこの靴を履くか?」

 老人はやはり下を向き手を動かしたまま、ぼそぼそと呟くように聞く。

「え? ええ、そうですね。ペアですね」

「奥さんは?」

「え?」

「奥さんはいないのか?」

「……いえ、いないです」

「そうか。……会社では営業部か?」

「いえ、違います。IT系なので、システム部ってやつです」

「……職場に派手な格好の人はいるか?」

「いえ、いませんね。みんな地味です」

「仕事は忙しいか?」

「ええ、まぁ。それなりに」

「そうか」

 私は何故そんなことを聞くのだろうと思いながらも、とりあえず素直に答えた。その間も老人は手に布を巻きつけ、スプレーを使ったり、靴墨を塗ったりしていた。だが会話はそれで全部らしかった。それきり老人は黙ってしまい、私は彼の後頭部越しに、淡々とした彼の手さばきを眺めた。

 踵の方まで手を伸ばし片足を磨き終えると、彼は体を右に倒し、靴の腹を点検するように眺めた。同じようにして靴の反対の腹も確認した。

「反対」

「え?」

「反対の足だ」

 私はああと呟き、右足を台から下ろし、左足を台に乗せた。老人は先ほどと同様の作業を、同様の手順、同様の手さばきでこなしていった。熟練を感じさせる動きだった。

 磨き終わったらしく、先と同様に左右から眺めた後、老人は私を見上げて言った。

「靴はな、人が生活する中で、最も汚れやすい物の一つだ。だからこそ常に綺麗に磨いておくことに意味がある。……息も吐けない程仕事が忙しいのだろうがな、気をつけなさい」

 老人はニコリとも笑わなかった。私は「はぁ、すみません」と言った。だが内心では何言ってやがると思っていた。

「……これからもな、靴が汚れたら俺のところに来なさい。お金は要らないから。大体この通りか、もしくはこの通りから一本逸れた通りでな、商いをしている」

 それからほんの少しだけ、彼は顔をほころばせながら言った。

「この前は助かったよ。ありがとう。君のおかげだ」

老人の浅黒い頬骨の皮に、浅く皺が畳まれるのが見えた。この人も笑うのかと思った。

 機会があればまた立ち寄りますと言った後、私はその場を立ち去った。少し歩き、赤信号で立ち止まった時に、磨いてもらったばかりの靴が目に入った。確かに綺麗になっていた。日陰の中でもそれははっきり分かるほどだった。だが、ハッと目を見張る程には輝いていない。ピカピカというには程遠く、どこかしらくすんだ印象を受けた。もしかしたら余り腕の良い人ではないのかもしれないと、私は推測した。路上に住まう者なのだから、それでも仕方がない。まぁ、このくらいで丁度いいと、そう思えた。

 一方で、あの老人の言うことには一理あると思っていた。確かにここのところ、仕事が忙しすぎて靴磨きなどろくにしていなかった。気に掛けてさえいなかった。

 汚れやすいものだからこそ常に綺麗にしておく必要がある、か。

 なるほど、確かにそうかもしれないと、私は思った。

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