男の友情
殺人的な朝の通勤ラッシュにもまれている間、時折、手鏡を取り出したい衝動にかられる。が、圧死寸前の満員電車の中では、思うように動くことすらままならない。それなのに、他人の鼻息が後頭部にかかったり、つり革につかまっていたはずの誰かの手が、私の頭上に落ちかけたりと、まったく気が抜けない。早く、何事もなく駅に着いてくれ――毎日祈りながらこの電車に乗っている。
なんとか無事に電車を降りると、私はまっすぐ駅の公衆トイレに向かう。用を足すためではない。鏡を見るためだ。女性と違って、人前で手鏡を見るわけにはいかない。それに、小さな手鏡よりは、トイレの大きな鏡の方が髪の毛全体のバランスをチェックすることができる。
若干白髪の混じっている豊かな髪は、名の通った企業の部長という職や、自分の年齢に相応しい。眉間のしわが、苦味走った男の魅力を醸し出し、鋭い眼光と相まって我ながらダンディだ。
世の中には、白髪を年齢不相応に黒く染める奴や、寂しくなった頭頂部を隠すために、横や後ろから毛を持ってくる奴がいるが、そんな涙ぐましい努力は、私に言わせれば愚の骨頂だ。
ラッシュのせいで多少髪が乱れたが、いつものように整えることができた。櫛を胸ポケットにしまい、公衆トイレをあとにする。
いい一日になりそうだ――
「多毛田部長!」
後ろから誰かが私を呼ぶ。振り返ると、すらりと背の高い青年が軽やかに走って来る。今時の男性アイドルをまねたような、長めの髪をなびかせていた。
「君は確か……」
昨年の営業部の忘年会で少し話をした覚えがある。軽くウエーブした長髪と甘いマスクが印象的だった。
「はい、営業二課の勝浦です。おはようございます」
勝浦の笑顔を見たら、女性の顧客などいちころだろう。営業成績がいいのも頷ける話だ。
「おはよう。最近二課の方はどうだね」
「おかげさまで、業績は順調ですよ。それもこれも、多毛田部長あっての営業ですから」
あまり苗字を呼ばないで欲しかった。
駅から会社までの道すがら、とりとめのない会話をしていたが、勝浦が改まって切り出した。
「ところで部長、今晩空いてますか? ちょっと相談したいことがあるんですけど」
今は特に、決算時期でもない。時間をつくるのはたやすいことだった。たまには部下と飲むのもいいだろう。
「かまわんよ」
「よかった。それじゃあ六時でいいですか。ずれたら連絡しますから」
一瞬、私の心臓が飛び跳ねた。
「ずれる……?」
「ええ、そうです。今日は何もないと思いますけど、万が一お得意様先でトラブルでもあったら、時間ずれちゃいますんで」
「あ、ああ。時間ね」
そうだ。時間だ。時間以外に何がずれるというのだ。
私は、朝一番の定型的な書類業務を手早く片付けると、トイレに向かった。
鏡で髪が乱れていないか、チェックしていると、鼻歌を歌いながら勝浦が入ってきた。
「あ、部長! お疲れ様です」
勝浦が笑顔で挨拶をしてくる。いつもにこやかな男だ。営業マンたるもの笑顔が大事だが、この男のように、どうでもいい時まで笑顔でいると、人間性が軽く見える。
勝浦が、私の隣で手を洗いながら話しかけてくる。
「ところで部長、鶴田常務がカツラだって、知ってますか?」
一瞬にして血の気が引いた。いきなり何を言い出すのだ、この男は。手に持っていた櫛が、危うく折れるところだった。
「さあ、な。そんなことはどうでもいいじゃないか」
「いや、だって気になりますよ。どう見ても不自然ですからね。テカテカしてるし、日によって位置が違うし。あれは絶対カツラです。しかも安物ですよ。鶴田常務ならお金あるでしょうから、もうちょっといいカツラを作ればいいのにって、みんな言ってますよ」
私は咳払いをした。
「みんなって、誰が言っているんだ。そんな事実かどうか分からないことを言うものじゃない。そんな噂が常務の耳に入ったら、とんでもないことになるぞ」
脅しではなかった。実際、常務はカツラ愛用者なのだが、本人は周囲にばれていないと思っている。常務本人から聞いたのは、社内では私と専務だけだ。常務の信頼にかけて、この噂は何が何でも打ち消しておかねばならない。
「事実も何も、丸分かりじゃないですか。誰だって見れば分かりますよ。あ、あと、臼井専務もかぶってますよね」
今度は心臓をわしづかみにされたような気がした。専務がカツラだということは、トップシークレットだ。誰にも知られてはならない。
「なっ、何を言い出すんだ、君は!」
「だって、もろばれですよ。こないだの朝礼で、ずれたじゃないですか。あの時、みんな笑いをこらえるのに必死で、エレベーターの中は大爆笑でしたから」
この男は、なぜ私にこんな話をするのだ。まさか、知っているのか? いや、そんなはずはない。私が動揺を悟られまいと、必死で冷静さを装っていると、勝浦は「それじゃ」と言って、軽やかな足取りで立ち去った。
一体何なのだろう。常務と専務の秘密を、他の社員にも知られてやいないかと、そればかりを考えて仕事が手につかなかった。
終業のベルが鳴り、会社を出たところで、勝浦が待っていた。
「部長! それじゃ行きましょう。僕の知ってる店でいいですか?」
特に断る理由がなかったので、勝浦の後を付いていき、裏通りの静かなバーに入った。ホステスなどはいなく、相談事を聞くには打ってつけの店だ。
「で、相談とは何かね」
私は単刀直入に聞いた。勝浦は、にこにこと人懐こい笑顔で、まずは飲みましょうと、グラスを掲げた。
「部長、営業三課の三島係長、カツラなんですよ。もう、バレバレなのに、本人ばれていないつもりだから、もう困るんですよね。笑いをこらえるのに」
私の周りだけ、空気が凍っている。なぜこの男はここまで執拗に、私にこんな話をする?
「私は別に、誰がカツラだとか、そういったことには興味はない。早く相談とやらを聞かせてもらえないか」
「そうそう、そうでした。相談なんですけど、どこから話したらいいか……」
勝浦は、少し神妙な顔つきになって、静かに話し出した。
「実は……、僕、ヅラセンサーがあるんです」
「ヅラ……?」
「はい。どんなに自然ないいカツラでも、一発で分かっちゃうんです。部長、あそこにいる男のお客さん、見えますか?」
勝浦が指す方向を見ると、カウンターで、四十代くらいに見える男性が一人で水割りを飲んでいる。
「あの人もカツラです」
「まさか。そうは思えないが」
「いえ、カツラです。ちょっと待ってて下さい」
勝浦はそう言うと席を立ち、男性のもとへ向かう。そして、何を血迷ったか、男性の頭頂部をむんずとわしづかみにし、上へ引き上げた。すると、毛の固まりが難なく頭から離れて、勝浦の手に握られている。。
周囲から悲鳴があがった。男性の頭から引き剥がされた『それ』は、動物の死骸のようで、なんとも不気味な物体に見えた。勝浦はヒートアップしてきて、まるで剣舞のような身のこなしで、店内を駆け回る。そして、数人の男性客の頭からカツラを次々に剥ぎ取っていく。カツラを取られてしまった男達は、この世の物とは思えない悲鳴をあげながら、床に落ちた財宝を探すように這いつくばって慌てふためく者、無防備になった頭を上着で隠す者、店の外に飛び出して行った者でパニック状態に陥った。店内はさながら、阿鼻叫喚の地獄絵図だ。この狭い店内に、こんなにもカツラ装着者がいたのかと、変な感心をしてしまった。
騒ぎを起こした張本人は、涼しい顔をして戻ってきた。
「ちょっと騒がしくなったんで、店を替えましょう」
一体誰のせいだと、怒鳴りつけたくなった。
店を出たものの、他の店でまたカツラを着けた客を見つけてしまうと面倒なので、近くの公園で話すことにした。
「どこまで話しましたっけ。そうそう、ヅラセンサーですよ」
「もう分かったからいい。お前の眼力は大したものだ」
私は、とんでもないトラブルメーカーと一緒にいる。早く解散して、家に帰りたかった。が、私はどうしても気になっていることがある。恐る恐る、だが、思い切って聞いてみた。
「ヅラセンサー……。どんなカツラでも分かるのか?」
勝浦は、いつになく真剣な表情で、無言のままうなずく。
「じゃあ……、もしかして……」
「ええ、部長のカツラも気づいていました」
あっさりと言われてしまい、私はがっくりと肩を落とした。私が自ら打ち明けた専務と常務以外は、誰も知らないと思っていた。これではいい物笑いの種だ。
「でも、部長のはとてもいい品ですね。人毛を使っているので、人口毛特有のテカリもなく自然です。購入後も、メーカーメンテナンスをしっかりされているので、脱色もないですし。メーカー当ててみましょうか。ズバリ、カツーラ製でしょう」
黙って座ればぴたりと当たる。この男の力は本物だ。
あまりの驚きに、二の句が告げずにいる私をよそに、勝浦は話を続ける。
「実は僕、会社を辞めて、家業を継ぐことにしたんです。実家は、カツラメーカーの株式会社カツーラなんです」
今度こそ本当に驚愕した。というか、妙に納得できた。カツウラ、カツーラか。どうりでカツラに詳しいわけだ。
「部長がカツラだというのは、僕だから分かることですから、安心して下さい。それと……、相談というのは口実で、うちのカツラを使って下さる部長に、会社を辞める前に一言お礼が言いたかったんです」
そうだったのか。今まで無礼にも思えた勝浦の態度が、急にかわいく思えてきて、不意に目頭が熱くなった。
なんとなくこのままお開きになるのも心残りなので、近くのコンビニで酒とつまみを調達し、公園のベンチで缶ビールを酌み交わした。
「確かカツーラは、創業者が若ハゲに悩んでいて、自分でカツラを作り始めたんだったな」
「ええ、そうです。僕の祖父です」
「本当に素晴らしいカツラだよ。私が営業部長にまでなれたのも、このカツラのお陰なんだ。本当に感謝している」
「ありがとうございます」
私がカツラだと知っている人と、気の置けない話をするというのは、こんなにも心がほぐれていくものなのか。カツラ同盟を結んでいる専務や常務と情報交換をするのとは、雲泥の差だ。二人のバレバレなカツラを見ながら、「ナチュラルに決まっています」などとおべっかを使わなければならないのだから。
このまま、いつまでも話をしていたかったが、終電の時刻が近づいてくる。
「それじゃあ、僕はこの辺で失礼します。今日は、本当にありがとうございました」
「ああ、頑張って。臼井専務と鶴田常務にも、ぜひカツーラに行ってみるよう勧めてみるよ」
固い握手を交わし、お互い別方向に歩いていく。
親友が一人増えた。有意義な、いい一日だった。
「多毛田部長!」
呼ばれて、私は振り返った。
そこにいたのは、紛れもなく勝浦のはずだ。だが、どう見ても満月が数メートル先に浮かんでいるようにしか見えなかった。
暗い夜道の真ん中で、街灯の淡い光を浴びながら深々と礼をしていた勝浦が顔をあげ、カツラを握り締めた手をいつまでも振っていた。