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殺戮の魔女は食堂のおっちゃんに恋をする

作者: モーヒアス
掲載日:2026/07/02

 人間界と魔界、その境目。

 どちらの領土にも属さないこの街では、一つだけ暗黙の了解がある。


 ――腹を満たす間だけは、誰も過去を裁かない。


 人間も魔族も、商人も冒険者も、この街では互いに干渉しない。

 それでも腹は減る。

 だから今日も、一軒の小さな食堂には客が集まっていた。


「おっちゃん、この日替わり二つ!」


「はいよ」


 鍋の蓋を開ける。

 ふわり、と湯気が立つ。

 昆布と鰹から取った出汁に自家製味噌を溶かし、刻んだネギを散らす。

 大鍋で炊いた白米。

 焼きたての魚。

 煮物。

 決して豪華ではない。

 それでも、この店は繁盛していた。


「相変わらず、この味噌汁は反則だな」


「飯は毎日食うもんだからな。毎日食える味じゃないと飽きる」


 店主の名はケンジ。

 日本からこの世界へ流れ着いて二十年。

 剣も魔法もからきしだが、料理だけで食ってきた男だった。


「おっちゃん、魚の焼き加減が神だわ」


「褒めても漬物しか増えないぞ」


「じゃあ漬物で!」


「ハッハッハ!」


 店内に笑いが起こる。

 そんな穏やかな昼時だった。


 ――カラン。


 扉の鈴が鳴る。

 一人の女が入ってきた。

 黒いローブ。

 腰まで届く銀色の髪。

 透き通るような白い肌。

 息を呑むほど美しい。

 だが。

 その姿を見た瞬間、店内の空気が凍りついた。


「…………」


 誰も喋らない。

 箸を持つ手が止まる。

 皿を運んでいた店員のエルフの少女、リーファも固まった。

 客の一人が、小さく呟く。


「……さ、殺戮の魔女」


 その一言だけで十分だった。

 椅子が引かれる音。

 まともに会計も済ませず立ち上がる客。


「わ、悪い!急用思い出した!」


「俺もだ!釣りはいらねぇ、ここ置いとくぜ!」


 あっという間に店内が空いていく。

 逃げるように。

 視線を合わせないように。

 誰も彼女の近くを通ろうとしない。

 魔女は慣れた様子だった。

 何も言わない。

 ただ、静かに立っている。

 その横顔には諦めしか浮かんでいなかった。

 リーファが、小声で言う。


「ケンジさん……」


「ん?」

 

「きょ、今日は閉店にしましょう?」


「なんでだ?」


「なんでって……!」


 リーファは焦って声を潜めた。


「あの人ですよ!?あの殺戮の魔女!」


「そうらしいな」


「そうらしいな、じゃありません!」


 ケンジは布巾で手を拭くと、何事もなかったようにカウンターから出てきた。

 そして魔女の前で足を止める。


「一人か?」


 魔女は少しだけ目を見開いた。


「……え?」


「何人で来たんだ?」


「……一人、です」


「なら四人席じゃもったいないな。カウンターでいいか?」


「…………」


 返事がない。

 ケンジは首を傾げる。


「座らないのか?」


「……私を、知っているんですか」


「さっきみんなが言ってたな」


「なら、どうして」


「腹減って来たんだろ?」


「……」


「うちは飯屋だ。腹減った客は客。素性なんて二の次だ」


 魔女は言葉を失ったまま立ち尽くす。

 そんな彼女に、ケンジは笑って言った。


「さっさと座れ。飯は温かいうちが一番うまい」


 魔女はゆっくりとカウンター席へ腰を下ろした。

 ぎし、と椅子が鳴る。

 それだけで、まだ店に残っていた数人の客がびくりと肩を震わせる。

 誰も目を合わせようとしない。

 店内には重苦しい沈黙だけが流れていた。


「さて」


 ケンジは湯呑みにお茶を注ぎ、魔女の前へ置く。


「注文決まったか?」


「……」


「初めてなら日替わりが無難だぞ」


「…………おすすめを」


「日替わり一つ」


 それだけ言うと、ケンジは厨房へ戻った。

 魔女は思わず周囲を見回す。


(……本当に、それだけ?)


 名前も聞かれない。

 過去も聞かれない。

 『殺戮の魔女』とも呼ばれない。

 まるで、本当に一人の客として扱われている。

 そんなことは、生まれて初めてだった。

 ほどなくして、小さな盆が運ばれてくる。


「ほら」


 白い湯気が立ちのぼる茶碗。

 焼き魚。

 小鉢。

 漬物。

 そして、木椀に入った汁物。


「……これは?」


「味噌汁だ」


「みそ……しる?」


「豆を発酵させた調味料で作る汁だ。うめぇぞ?」


 魔女は聞いたこともない料理だった。


「熱いから気ぃ付けろ」


 木椀を両手で持つ。

 掌に伝わる温もり。


(……あたたかい)


 それだけで胸が少し苦しくなる。

 恐る恐る口をつけた。


「……っ」


 優しい香りが鼻を抜ける。

 柔らかな塩味。

 深い旨味。

 身体の芯へ染み込むような温かさ。

 気付けば、もう一口飲んでいた。


(なに……これ)


 美味しい。

 派手ではない。

 強烈でもない。

 けれど、一口飲むたびに肩の力が抜けていく。

 まるで長い間張り詰めていた糸が、少しずつほどけていくようだった。


「口に合ったか?」


 声を掛けられ、魔女は小さく頷く。


「……はい」


「そりゃよかった」


 それだけ。

 自慢もしない。

 得意げにもならない。

 当たり前のように笑って、また厨房へ戻っていく。


(変な人……)


 焼き魚へ箸を伸ばす。

 皮は香ばしく、中はふっくらと柔らかい。

 米を一口。

 味噌汁を一口。

 自然と箸が止まらなくなる。

 食べることに夢中になったのは、いつ以来だろう。

 昔は違った。

 まだ『殺戮の魔女』などと呼ばれる前。

 師匠と二人、小さな家で食卓を囲んでいた。

 温かなスープを飲みながら笑っていた日々が、確かにあった。

 けれど師匠が亡くなってからは、一人。

 領主に狙われ、拒めば軍勢を差し向けられた。

 何度も警告した。

 それでも剣を向けられたから、生き残るために魔法を使った。

 結果、兵士たちは死んだ。

 それ以来、人々は彼女を『殺戮の魔女』と呼んだ。

 誰も話しかけない。

 宿には泊まれない。

 市場へ行けば店を閉められる。

 金を払おうとしても商品を投げ渡される。

 誰も近付かない。

 誰も笑わない。

 だから。


「ごちそうさまでした」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも少し驚いた。

 自然に出てきたのだ。

 ケンジは皿を受け取りながら笑う。


「ありがとよ。また来な」


 その笑顔には、恐れも警戒もなかった。

 魔女は胸の奥が少しだけ熱くなるのを感じていた。




 翌日。

 昼の営業が始まって間もない頃だった。

 カラン。

 扉が開く。

 店内にいた客が、一斉に入口を見る。


「……!」


 昨日と同じ黒いローブ。

 銀色の長い髪。

 殺戮の魔女だった。

 空気が一瞬で張り詰める。


「今日は帰るか……」


「俺も……」


 昨日の出来事を知っている客も多い。

 だが昨日ほど慌てる者はいなかった。

 ちらちらと魔女とケンジを見比べている。


「よぉ、いらっしゃい」


 ケンジは包丁を置き、いつもの調子で手を挙げた。


「昨日と同じ席でいいか?」


「……はい」


 魔女は小さく頷く。

 その様子を見ていた常連の老人が目を丸くした。


(返事をした……)


 昨日までは、誰かに話しかけられても無言だった魔女が、自分から返事をしている。


「今日は肉じゃががうまくできたぞ」


「……にく、じゃが?」


「ハハハ、知らねーよな。食ってみりゃ分かる」


 まるで旧知の客に話しかけるような口調だった。

 魔女は少しだけ口元を緩める。


「……はい」


 その変化を見逃さなかったリーファは厨房で呆然としていた。


「ケンジさん……」


「なんだ?」


「あの人……笑いましたよ?」


「そうか?」


「そうか、じゃありません!」


 小声で叫ぶ。


「相手は殺戮の魔女ですよ!?昨日まで誰とも話さなかった人が!」


「そりゃうまい飯が食えるってなれば、機嫌も良くなるだろ」


「そんな単純な話ですか!?」


「腹減ってる時は誰だって余裕ないもんだ」


 ケンジはそう言って鍋をかき混ぜる。

 リーファは頭を抱えた。


(この人、本当に何も考えてない……)


 やがて料理が並ぶ。


「ほら、熱いうちに」


「ありがとうございます」


 昨日より自然に言葉が出る。

 肉じゃがを口に運ぶ。

 ほろり、と肉が崩れ玉ねぎが溶ける。

 甘辛い煮汁がじゃがいもに染み込み、噛むたびに優しい甘みが広がった。


「……おいしい」


「だろ?」


「はい」


 気付けば会話が続いていた。

 たったそれだけのことが、魔女には信じられなかった。

 誰かと食事をしながら話す。

 そんな当たり前の時間を、何年も忘れていた。


「そういや名前聞いてなかったな」


 不意にケンジが言う。

 魔女の身体が強張る。

 名前を名乗れば、すぐに思い出す。

 ああ、あの殺戮の魔女か、と。

 そうなれば終わりだ。


「セレ……やっぱり、いいです」


「なんで?」


「聞かない方が……」


「いや、会計の帳面に書くだけなんだけど」


「……え?」


「常連になった時、名前分かった方が呼びやすいだろ」


 あまりにもあっさりした理由だった。

 魔女はしばらく黙り込む。

 やがて、小さな声で言った。


「……セレナ」


「セレナか」


 ケンジは帳面に書き込み、笑う。


「よろしくな、セレナ」


 その名前を。

 蔑みでも恐怖でもなく。

 優しく呼んでくれた人は、何年ぶりだっただろう。

 胸の奥が熱くなり、視界が歪んだことがバレないように顔を伏せて無言で肉じゃがを食べる。

 食事を終え、代金を支払って店を出ようとした時だった。


「セレナ」


 呼び止められ、振り返る。


「明日は魚がいいの入る予定なんだ」


「……はい」


「暇なら食いに来い」


 そして、いつもの調子で笑う。


「またいつでも来な。歓迎するぜ」


 その一言が。

 何百人に向けられた罵声よりも。

 何千人に恐れられた視線よりも。

 セレナの心を、大きく揺らした。

 店を出て、人通りの少ない路地まで歩く。

 そこでようやく立ち止まり、胸に手を当てた。


「……また、来てもいいんだ」


 ぽつりと漏れたその声は、小さく震えていた。




 店を出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。

 空は茜色に染まり、人間界と魔界を隔てる山並みの向こうへ、ゆっくりと陽が沈んでいく。

 セレナは胸の前で小さく手を組んだ。


(……今日も、美味しかった。)


 口の中にはまだ、肉じゃがの優しい出汁の余韻が残っている。

 歯応えの良い漬物。

 炊きたての白いご飯。

 そして。


『またいつでも来な』


 その言葉が何度も頭の中で繰り返される。

 自然と頬が緩んだ。


 ――ガチャン。


 どこかで扉が閉まる音がした。

 振り返る。

 通りの向こうにいた母親が、小さな子どもの手を引いて家の中へ入っていく。


「お母さん?」


「見ちゃだめ。早く家に入りな!」


 小さな声だった。

 けれど、セレナの耳にははっきり届いた。

 窓のカーテンが閉まる。

 商店の主人が店じまいを始める。

 すれ違う人々は視線を逸らし、足早に通り過ぎていく。


 いつものことだった。

 食堂を一歩出れば、自分はまた『殺戮の魔女』へ戻る。

 それでも今日は、不思議と胸は痛まなかった。

 あの店だけは違ったから。

 あの暖簾をくぐっている間だけは、自分はセレナだった。




 宿屋へ着く。

 扉を開けると、女将が一瞬だけ顔を強張らせた。


「あ……。」


「一泊、お願いできますか」


 女将は帳簿を開くふりをして、すぐに首を振る。


「悪いね。満室だよ。他行きな」


「……そうですか」


 静かに頭を下げる。

 店を出た。

 だが、二階の窓を見ると、部屋には灯りが一つも点いていない。

 洗濯物も干されていない。

 静まり返った宿。

 空室なのは分かっていた。

 それでも怒る気にはなれない。

 何度も繰り返してきたことだから。


(仕方ない)


 そう自分へ言い聞かせる。

 今日だけではない。

 昨日も。

 一昨日も。

 どこの町へ行っても同じだった。


 『満室です』

 『今日はもう閉店だから』

 『帰ってください』


 言葉は違っても、意味は同じ。


 ――わたしの居場所はどこ?

 

 市場へ向かう。

 今日の夕食と明日の朝食くらいは買っておこうと思った。

 果物屋の前で立ち止まる。


「このリンゴを……」


 店主は返事をしない。

 目も合わせない。

 代わりにリンゴを小さな木箱へ放り込み、少し離れた場所へ置いた。


「……銀貨三枚」


 せいぜい銀貨一枚が良いところだがセレナは静かに金を置く。

 店主は銀貨だけを素早く回収した。

 目は最後まで合わなかった。

 肉屋でも。

 パン屋でも。

 みんな同じ。

 誰も近寄らない。

 誰も話しかけない。

 それが当たり前になって久しい。


「今夜も野宿ね……」


 両手に紙袋を抱え、小さな橋まで歩く。

 橋の下には細い川が流れていた。

 人目が少ない場所。

 最近はここで食事をすることが多かった。

 石へ腰を下ろし、買ったばかりの黒パンを取り出す。

 硬い。

 冷たい。

 一口かじる。

 ぱさぱさとした生地が口の中の水分を奪っていく。

 自然と、あの食堂で食べた味噌汁を思い出した。

 湯気。

 出汁の香り。

 木椀を持った時の温もり。

 そして。


「熱いから気ぃ付けろ」


 ぶっきらぼうな声。

 優しいわけではない。

 甘やかすわけでもない。

 それなのに、あの一言には温もりがあった。

 黒パンを見つめる。

 食べる気になれない。

 昼間、あれほど美味しく食べられたのが嘘のようだった。


「……また行きたい」


 ぽつりと声が漏れる。

 帰る場所などない。

 故郷は、とっくの昔に焼かれた。

 師匠ももういない。

 自分を待っている人など、世界のどこにもいない。

 なのに。

 頭へ浮かぶのは、小さな食堂だった。

 木の暖簾。

 味噌汁の香り。

 鍋をかき混ぜる音。

 ぶっきらぼうな中年料理人。

 そして。


『またいつでも来な』


 その一言だけで。

 たった一言だけで。

 自分には帰りたいと思える場所ができてしまった。

 気付けば、目尻が熱くなっていた。


「……おかしい」


 くすり、と笑う。

 世界中から恐れられる『殺戮の魔女』が。

 たった一杯の味噌汁で泣きそうになっている。

 誰が信じるだろう。

 けれど、その涙は悲しいからではなかった。


 嬉しかったのだ。


 自分の名前を呼んでもらえたこと。

 普通のお客様として迎えてもらえたこと。

 「また来い」と言ってもらえたこと。

 その全部が、何年も凍っていた心を少しずつ溶かしていた。

 セレナはゆっくりと立ち上がる。

 沈みゆく夕日を見つめ、小さく微笑んだ。


「……明日も行こう」




 それから数日。

 セレナは毎日、昼になると食堂へ姿を見せるようになった。


「いらっしゃい」


「……こんにちは」


「今日は唐揚げだ」


「から……あげ?」


「うまいぞ」


 ケンジは下味をつけておいた鶏肉を大きな鉢から取り出した。

 醤油に生姜、すりおろしたにんにく。

 ほんの少しだけ酒を加え、一晩じっくり寝かせた肉は、照りを帯びて艶やかに光っている。


「こいつを油で揚げるんだ」


 そう言うと、肉へ片栗粉をまとわせる。

 一つひとつを丁寧に転がし、余分な粉を軽く落とす。

 その加減が絶妙だった。

 粉が少なすぎれば食感は弱くなる。

 多すぎれば衣ばかり主張してしまう。

 鶏肉を知り尽くした料理人だけができる、迷いのない手つきだった。

 鍋の油へ、そっと沈める。


 ――ジュワァァァァッ。


 店中へ心地よい音が響く。

 細かな泡が勢いよく立ち上り、黄金色の油の中で唐揚げが踊る。

 香ばしい醤油の香り。

 生姜の爽やかな香り。

 食欲を刺激する揚げ油の香り。

 それらが混ざり合い、店中を包み込んだ。


「……いい匂い」


 思わずセレナが呟く。

 ケンジは油の音へ耳を傾けながら笑う。


「もう少しだ」


 菜箸で一つ持ち上げる。

 まだ早い。

 再び油へ戻す。


「音が変わるんだよ」


「……音?」


「肉の水分が抜けてくると、泡が細かくなる」


 セレナには違いが分からない。

 けれどケンジは、鍋を見なくても分かるようだった。


「ほらな?」


 網へ引き上げる。

 衣は美しい黄金色。

 表面には細かな凹凸ができ、光を受けてきらりと輝く。

 そのまま少し休ませる。


「すぐ食べないんですか?」


「一回休ませる。それで中まで火が入る。そしたらもう一度……」


 再び油へ。

 ジュワッという音は先ほどより軽く、短い。

 二度揚げ。

 そのひと手間だけで、衣はさらに軽く、香ばしく仕上がる。

 皿へ盛り付ける頃には、店中が香りで満たされていた。


 千切りにしたキャベツ。

 くし切りのレモン。

 艶やかな唐揚げが五つ。

 最後に熱々のご飯と、湯気の立つ味噌汁を添える。


「ほら、お待ち」


 セレナは恐る恐る一つ摘まんだ。

 箸で持ち上げただけで、衣がさくりと音を立てる。


「熱いぞ」


 ふう、ふう、と息を吹きかけ、小さくかじる。


 ――サクッ。


 心地よい音が耳に響いた。

 次の瞬間、閉じ込められていた肉汁がじゅわっと口いっぱいに広がる。

 醤油の香ばしさ。

 生姜の風味。

 噛むたびにあふれる鶏の旨味。

 衣は軽く、中の肉は驚くほど柔らかい。

 熱い。

 それなのに箸が止まらない。


 一口。

 また一口。

 気付けば、ご飯を口へ運んでいた。

 真っ白な米が、濃い味付けの唐揚げを優しく受け止める。

 そのあと味噌汁を一口飲むと、口いっぱいに広がっていた油の旨味がすっとほどけ、出汁の香りが身体の奥まで染み渡っていく。

 思わず吐息が漏れた。


「……幸せ」


 その一言に、ケンジは満足そうに笑う。


「唐揚げはな」


 鍋を洗いながら、ぽつりと言う。


「腹が減ってる時に一番うまい料理なんだ」


 セレナは静かに頷いた。

 その日食べた唐揚げの味は、何年経っても忘れることはないだろう。

 セレナにとってはここでの食事が何より幸せな時間だった。


 最近では店の常連たちも、少しずつ慣れ始めていた。


「……案外、普通なんだな」


「まぁ飯食ってるだけだしな」


「笑うんだな、あの人」


 もちろん、まだ距離はある。

 だが、誰も逃げ出すことはなくなった。

 それだけでも大きな変化だった。




 ある日の昼過ぎ。

 カラン、と扉が開く。

 入ってきたのは三人組の男だった。

 鎧こそ着ていないが、腰には剣。

 身なりも良く、この辺りの荒くれ者とは違う。


「空いてるか?」


「お好きな席どうぞ」


 ケンジは鍋を混ぜながら答える。

 三人は店内を見回し、カウンターに座るセレナを見つけた。

 一人が顔をしかめる。


「おい……」


「まさか」


「殺戮の魔女じゃねぇか」


 店内の空気が再び張り詰める。

 常連たちが息を呑んだ。

 三人は立ち上がる。


「なんでこんなのが普通に飯食ってやがる」


「店主!」


 一番年上らしい男が声を荒らげた。


「こいつを追い出せ!」


 ケンジは焼き魚をひっくり返しながら答える。


「なんで?」


「なんで、じゃない!」


「あいつは何百人も殺した魔女だぞ!」


「俺は見てないな」


「噂くらい知ってるだろ!」


「噂だけでは決められない」


 男は言葉に詰まる。

 ケンジは火加減を調整しながら続けた。


「少なくとも、この店じゃ迷惑かけられたことは一回もねぇな」


「しかし!」


「飯食いに来た客を追い返す理由にはならんよ」


 その一言に、店内が静まり返る。

 セレナは目を伏せたままだった。

 きっと、また始まる。

 罵倒。

 石。

 剣。

 今まで何度も経験してきた。

 だから立ち上がろうとする。


「……私、帰ります」


「なんで?」


 ケンジが不思議そうに聞く。


「迷惑を……」


「誰が?」


「……私が」


「誰に?」


「…………」


「少なくとも俺は迷惑だと思ってない」


 あっさりと言われた。

 あまりにも自然に。


「ほら、飯が冷めるから座ってろ」


「……でも」


「腹減ってるんだろ?」


 その時だった。


「ふざけるな!」


 一人の男が剣を抜いた。


「そんな化け物をかばう気か!」


 ガシャン!

 店内に緊張が走る。

 セレナの瞳が赤く染まった。

 魔力が溢れ出す。

 空気が震える。

 椅子が軋み、窓ガラスがビリビリと鳴った。


(やめて)


 心のどこかで思う。


(もう、この店だけは壊したくない)


 それでも身体は反応してしまう。

 剣を向けられれば、防衛本能が魔法を発動させる。


 ――その瞬間。


「おい」


 低い声が響いた。

 ケンジだった。

 いつの間にか男とセレナの間へ立っている。


「うちの店で刃物を振り回すな」


 菜箸を持ったまま、困ったようにため息をつく。


「飯がまずくなる」


 あまりにも場違いな一言に、全員が固まった。


「喧嘩なら外でやれ。ここは飯を食う場所だ」


 その声は大きくない。

 怒鳴ってもいない。

 けれど、不思議と店中に響いた。

 セレナは呆然とケンジの背中を見つめる。


(この人は……)


(本当に、私が怖くないの……?)


 店内は静まり返っていた。

 剣を抜いた男も、魔力を放つセレナも、その場で動きを止めている。

 そんな空気など気にも留めず、厨房に戻ったケンジは魚を皿へ盛り付けた。


「ほら、焼けたぞ」


 ジュウ、と脂が音を立てる。

 香ばしい匂いが店内へ広がった。


「……聞いているのか!」


 剣を持った男が怒鳴る。


「聞いてるよ」


 ケンジは振り返ることなく答えた。


「なら、その女を追い出せ!」


「断る」


「なっ……!」


「もう一度言うがうちの店は飯を食う場所だ」


 皿をカウンターへ置き、ようやく男を見る。


「飯食いに来た客は客。それだけだ」


「相手は殺戮の魔女なんだぞ!」


「そうなんだろうな」


「だったら!」


「じゃあ今日、この店で誰か殺したか?」


 男は言葉に詰まる。


「物を壊したか?」


「……」


「客に手を出したか?」


「…………」


「だったら今、この店で問題起こしてるのは、剣抜いてるお前さんだろ」


 その一言が、店内に重く落ちた。

 常連の老人がぽつりと呟く。


「……確かに」


「飯食ってるだけだしな」


「迷惑かけてるのはそっちだ」


 一人が口を開くと、空気が変わる。

 男たちは周囲を見回した。

 誰も味方をしない。

 やがて舌打ちを一つすると、剣を鞘へ戻した。


「……覚えてろ」


「代金」


「……は?何も食ってねぇだろ」


「いや、水飲んだだろ?うちの水は無料じゃない」


 男たちは顔を真っ赤にしながら銅貨を置き、足早に店を出ていった。

 扉が閉まる。

 張り詰めていた空気が、一気にほどけた。


「店長!」


 リーファが駆け寄る。


「大丈夫ですか!?」


「何が?」


「何がって……!」


「店も壊れてないし、客も怪我してない」


 ケンジは肩をすくめる。


「結果オーライだ」


 そう言って、セレナの前に皿を置く。


「これはサービスだ」


 唐揚げだった。


「冷める前にさっさと食え」


 セレナは皿を見つめる。

 さっきまで魔力が暴れそうだった胸の奥が、不思議なほど静かになっていた。


「……ありがとうございます」


「ん」


 唐揚げを一つ口へ運ぶ。

 衣は軽く、中は驚くほど柔らかい。

 噛むたびに肉汁が広がる。

 思わず笑みがこぼれた。


「うまいだろ?」


「……はい」


 その笑顔を見て、ケンジも満足そうに頷いた。


「ならよかった」


 それだけ。

 特別な言葉はない。

 慰めもない。

 同情もない。

 ただ、美味しい料理を出して。

 普通に笑って。

 普通に話しかけてくれる。

 それだけなのに。


(どうして……)


 胸が苦しい。

 殺戮の魔女と呼ばれる前、今まで何人もの男から求婚された。

 そのほとんどは力が欲しかっただけ。

 恐怖から媚びる者もいた。

 利用しようと近づく者もいた。

 けれど、この人だけは違う。

 自分が『殺戮の魔女』だから近づくのでもない。

 『殺戮の魔女』なのに遠ざけるのでもない。

 一人の客として。

 ただ、セレナとして接してくれる。


(……ああ)


 その瞬間、自分の気持ちを理解してしまった。

 頬が熱い。

 心臓がうるさい。

 視線を向けるだけで落ち着かない。

 恋など、もう二度とすることはないと思っていた。

 そんな自分が、たった数日の食堂通いで恋をしてしまった。



 翌日。

 ケンジはそんなことなど知る由もなく、厨房で鍋をかき混ぜている。


「明日は煮込みだな」


「また夜には仕込みしねぇと」


 鼻歌まで歌い始めた。


(……この人)


 セレナは小さく笑う。

 そして心の中で、静かに決めた。


(この場所を、失いたくない)


(この人のそばに、いたい)


 その願いは、翌朝には行動へと変わることになる。

 翌朝。

 まだ朝日が昇ったばかり。

 ケンジが店の鍵を開けようとすると、入口の前に誰かが立っていた。


「……うん?」


 見覚えのある黒いローブ。

 銀色の髪。

 そして、その足元には旅行鞄が一つ。


「旅にでも出るのか?」


 セレナは深く頭を下げた。


「お願いします」


「ん?」


「ここで働かせてください」


 朝一番に飛び出した言葉が、それだった。

 ケンジは何度か瞬きを繰り返す。


「……なんで?」


「ご迷惑でしょうか」


「いや、そうじゃなくて」


 本気で理由が分からない。


「俺、人手募集なんか出してないぞ」


「知っています」


「給料も高くないぞ」


「いりません」


「住む場所も――あ、二階に空き部屋あるな」


「店の隅で十分です」


「いやいや」


 さすがのケンジも苦笑する。


「まぁ一旦落ち着け」


 そこへリーファも出勤してきた。

「おはようござ――」


 言葉が止まる。


「……え?」


 荷物。


 セレナ。


 荷物。


 セレナ。


「えええぇぇぇぇっ!?」


 辺境中へ響くほどの悲鳴だった。


「せ、セレナさん!?」


「おはようございます」


「お、おはようございますじゃありませんよ!」


 リーファはケンジへ駆け寄る。


「ケンジさん!何ですかこれ!」


「俺も今聞いてる。とりあえずここで働きたいそうだ」


「そうだ、じゃありません!」


 セレナは真っ直ぐ二人を見る。


「掃除もします」

「接客も覚えます」

「皿洗いもします」

「何でもします」


 少しだけ視線を伏せ、小さく続けた。


「……ここに、いたいんです」


 その声には、魔女としての威厳も、最強の魔法使いとしての迫力もなかった。

 一人の女性の、本音だけがあった。

 ケンジは頭をかいた。


「まあ……」


 少し考え込む。


「働きたいなら断る理由もないか」


「ケンジさん!?」


「人手はあるに越したことないしな」


 あまりにも軽い返事だった。

 セレナは信じられないものを見るように目を見開く。


「……そんなことしたらライバルが増えて……」


「ん?なんか言ったか?」


「い、いえいえ!一人言なのでお気になさらず!」


「そうか」


 セレナに向き直り


「ただし」


 ケンジは人差し指を立てた。


「うちは飯屋だ

 喧嘩は禁止

 客を脅かすのも禁止

 魔法ぶっ放すのも禁止

 できるか?」


 セレナは何度も何度も頷いた。


「できます。絶対に」


「そうか。なら今日からよろしくな!」


 そう言って、ケンジは店の暖簾を掛ける。


「ほら、開店準備するぞ!」


「はい!」


 その返事は、これまでで一番明るかった。


 

 店の暖簾が風に揺れる。

 人間界と魔界の境目にある、小さな食堂。

 今日もまた、一人のお客様を迎えるために。

 そして、一人の"押しかけ店員"の新しい毎日が、静かに始まった。


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