第26話 名乗った者
谷の朝は、冷えていた。
焚き火の火力が弱く、
皆、無言で手をかざしている。
食料は、足りない。
薬も、ない。
それでも――
誰も、昨日の決断を口にしなかった。
***
「……俺が、行こう」
沈黙を破ったのは、
あの若い男だった。
これまで、
狩りにも、作業にも、
あまり顔を出さなかった男。
アルトが顔を上げる。
「どこへ?」
「薬草を取りに」
ざわめき。
「この谷の外れ、
崖の向こうに、
昔使ってた採取場がある」
知っている者は、少ない。
「危険だぞ」
誰かが言う。
「分かってる」
男は、即答した。
「……でも、
昨日、子どもが熱出してただろ」
それだけの理由だった。
***
アルトは、何も言わなかった。
止めもしない。
頼みもしない。
それが、この場のルールだ。
男は、荷をまとめ、
一人で谷を出ていった。
***
昼。
時間が、ゆっくり過ぎる。
誰も、作業を強制しない。
だが。
薪を集める者が、増えた。
火を見張る者が、自然と残った。
「誰かがやるだろう」という空気が、
少しだけ薄れる。
***
夕方。
アルトは、谷の入口を見つめていた。
胸の奥に、
嫌な予感がある。
――帰ってこないかもしれない。
それでも。
呼び戻す理由は、ない。
***
日が沈みかけた頃。
「……戻った!」
声が上がる。
男は、足を引きずりながら戻ってきた。
腕に、擦り傷。
服は、破れている。
だが。
袋の中には、
乾燥させれば使える薬草が詰まっていた。
***
「……ありがとう」
誰かが、言った。
それは、昨日よりも、
はっきりした声だった。
男は、照れたように肩をすくめる。
「別に……
役に立ちたかったわけじゃない」
少し間を置いて、続ける。
「ここにいるって、
決めたからだ」
その言葉が、
谷に静かに落ちる。
***
アルトは、男の前に立った。
「……名前を、聞いてもいいですか」
「ラグ」
短く答える。
「ラグ」
アルトは、繰り返した。
「ありがとう」
評価ではない。
称号でもない。
ただの、感謝だ。
***
その夜。
焚き火の周りに、
いつもより多くの人が集まっていた。
薬草を乾かす準備をする者。
湯を沸かす者。
誰も、命令していない。
だが。
ラグの行動が、
選択肢を示した。
***
ドレイクが、ぽつりと言う。
「役割は、
与えるものじゃないな」
「……はい」
アルトは、頷いた。
「名乗るものです」
評価されない。
命令されない。
それでも、人は動く。
それは、
制度より、ずっと不安定で、
ずっと強い。
***
焚き火が、少しだけ強く燃えていた。
火は、まだ小さい。
だが。
誰かが、薪を足している。
アルトは、その光景を見つめた。
――これが、受け皿の形。
完成形ではない。
理想でもない。
ただ。
人が、自分で役割を選んだ場所。
それが、今、確かにここにあった。
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