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第2話 戻した息と、白い灯

少し思うところは有りますが……。

第六刻、運河の霧がまだ橋の下に溜まっている。二十刻しかない一日なのに、朝はいつも長く感じた。

ラエルは橋の端で息を整える。吸って、止めて、吐く。ミアが隣で、小さく指を折って数を取っていた。


「吸って……止めて……吐く。ほら、足」

「……分かってる。でも、上がる」


言った瞬間、自分で情けなくなる。分かっているのに出来ないのが、一番悔しい。

ミアは笑わなかった。代わりに、白い耳をぴんと立てて、真面目な顔をする。


「じゃあ、上がる前に落とす。怖いのが先に来たら、私が合図する」

「……合図?」

「しっぽ。こうやって」


ミアの白いしっぽが、ぴん、と一度だけ跳ねた。合図のつもりらしい。ラエルの視線がそこに吸い寄せられ、慌てて前へ戻す。

ミアが「見てた」と笑った。頬が少しだけ熱くなる。


ハクレイは橋の中ほどに立っていた。声は出さず、ただ顎で示す。ラエルは走り出す。

足が遅い。踏み込みが浅い。息が上がる。

それでも、今日は昨日より一拍だけ踏み込めた気がした。

ミアがラエルの横を走り、呼吸のタイミングを合わせてくるからだ。追い越すでも置いていくでもなく、隣。


最後の折り返しで膝が笑い、ラエルはよろけた。

その瞬間、ミアの手首が伸びて、ラエルの袖を軽く引く。引っ張るのではなく、倒れる方向を変えるだけ。

ラエルは転ばずに済んだ。


「……今の、気?」

思わず漏れる。

ミアは首を振った。

「違う。これはただの癖。気を使ったら、もっと派手に見える」


“派手に見える”という言い方に、昨日の橋下の空気が戻る。見えたら、聞かれたら、狩られる。

ラエルが黙ったのを見て、ミアは声を少し柔らかくした。


「大丈夫。私、出さない練習もするから。だから、ラエルも折れないで」

折れないで。

ハクレイが言った言葉と同じなのに、ミアに言われると、胸の奥が少しだけ軽くなる。

ラエルは頷いて、もう一度息を落とした。


稽古の後は家の手伝いだ。結月は、町の小さな依頼をいくつも抱えている。治療薬の小瓶、傷止めの粉、そして札。

札は“売る”というより“預かる”に近い。戸口に貼る結界、井戸の水を清めるもの、旅立ちの守り。神ではなく大精霊へ繋ぐための形。


「札を折るときは、角を揃えて。歪むと、気配も歪む」

結月は静かな声で言い、指先で一枚を撫でた。朱の線が、朝の光にかすかに艶を帯びる。


運河沿いの道を歩く。トンボリは屋台が増え、匂いが重なる時間だ。

その中を、白い灯がゆっくり近づいてきた。教会の巡回灯。鐘の音が遠くで一度鳴ると、通りの人々の背中が少しだけ固くなる。


「おや、結月殿」

声は優しい。だから余計に怖い。

神官服の男が笑顔で近づき、籠の中の札へ視線を落とした。


「最近、札の依頼が増えているようで。港は物騒ですからな」

「大精霊のご縁が、そういう時季なのです」

結月は笑って返す。言葉は柔らかいのに、目が笑っていない。

「ご主人は、また遠征とか?」

「ええ。ギルドの用事です」

「ほう……暁の羅針盤。頼もしい」

男は“知っている”ことを見せるように頷き、ラエルへ視線を移した。


「坊やは元気かね。稽古をしていると聞いたが」

ラエルの心臓が跳ねる。誰が言った。どこまで見ている。

結月がラエルの肩にそっと手を置いた。


「子どもは子どもらしく、走っております」

「それは結構。……変な遊びは、しないように」

神官は笑ったまま、釘だけ落として去った。


家に戻ると、結月は戸口の札を一枚、貼り替えた。

「金剛、護りを」

短い起動語で、空気が“締まる”。

ラエルは尋ねたいのに、喉が動かない。結月は振り返らずに言った。


「守りは、目に見えないところから崩れるのよ」

その言葉だけで、十分だった。



昼の合間、ミアが「案内する」と言った。

トンボリの路地は、知っているはずなのに知らない匂いがある。運河に沿った木橋、屋台の串焼き、瓦の軒先から下がる提灯。レンガ壁に蔦が絡み、どこか古い外国の町みたいでもある。


「ね、ラエル。こっち」

ミアは迷いなく曲がる。耳が風を切り、しっぽが軽く揺れる。

ラエルはその後ろを歩きながら、見ないふりが出来なかった。

「……獣人って、魔法、本当に使えないの?」

つい聞いてしまう。

ミアは串焼きを頬張り、口を拭ってから肩をすくめた。


「使えないよ。詠唱しても、何も通らない。だから皆が“気”を使う」

軽い言い方なのに、ラエルの胸に引っかかる。

「じゃあ、不便じゃない?」

「不便。だから工夫する。……ほら」

ミアは屋台の奥で荷が崩れかけているのを見つけ、手を伸ばした。

“力任せ”じゃない。体の軸をほんの少しずらし、重さを自分の足元へ落とす。崩れた樽が、ぴたりと止まる。

店主が目を丸くする。


「助かった! ……いや、ありがとう、お嬢ちゃん」

ミアは照れくさそうに笑って、軽く頭を下げた。

「今のも気?」

「違うってば。気を使うときは、もっと“圧”が出る。出たら誰かが騒ぐから」

言いながら、ミアは耳を伏せた。

ラエルは胸の奥がぎゅっとなる。騒がれるのに慣れている笑い方。第1話で見た笑いと同じだ。

「……俺、ああいうの、嫌だ」

言えたのは、それだけだった。

ミアは一瞬だけ驚いた顔をして、それから小さく頷く。

「嫌って言えるの、偉い。……でもね。嫌って言うだけじゃ、止まらないよ」

「分かってる」

「じゃあ、走ろ。強くなるために」

ミアは串をもう一本、半分だけラエルに差し出した。

ラエルが受け取る指が、ミアの指に一瞬触れる。

熱くて、すぐに離れて、なのに触れた感覚だけが残った。

初恋、なんて言葉はまだ知らない。けれどラエルは、その残り香みたいなものを胸の奥にしまった。


市場の端で、また嫌な笑い声が弾けた。

昨日の少年たちとは違う。もう少し年上で、言葉が巧い。巧い分だけ、卑怯だ。

「獣の子は便利だよな。荷も運べるし、夜目も利く。……でも、“どこまで獣か”確かめたくなる」

言いながら、男がミアの耳へ手を伸ばす。

ミアの肩が沈む。息が落ちる。

空気が硬くなる兆し。

ラエルの背筋が冷える。出せば拙い。だが出さなければ——。

「やめろ」

ラエルは前へ出た。声が震えるのを、歯で噛み止める。

男は笑って、手を止めない。

その瞬間、ミアの爪の気配が出た。

白い指先が、ほんの少しだけ鋭く見える。

けれどミアは、そこで止めた。止めたというより——戻した。

ハクレイの声が、昨日より近くで落ちる。

「戻せ」

短い。刃みたいだ。

ミアは唇を噛み、息をもう一段落とした。硬くなりかけた空気が、ほどける。

周囲がざわつく。

誰かが「今の、何だ」と言った。

そして、そのざわつきの向こうに、教会の巡回灯が見えた。白い灯が、こちらへ向きを変える。


ラエルの身体が先に反応してしまう。

——見られる。聞かれる。持っていかれる。

何が、とは分からないのに、怖さだけが正しく生々しい。

ハクレイは男の手首を掴まない。触れもしない。ただ一歩近づき、視線で止めた。

男は舌打ちして引く。

ハクレイはラエルへ目を向ける。

「口を軽くするな」

それだけ。

ラエルは喉が鳴るのを感じながら頷いた。


巡回灯が近づく前に、ハクレイはミアの肩へ札のように手を置いた。

「今日は戻せた。それでいい」

褒め言葉なのに、痛い。

ミアは笑わない。ただ、耳を立てて、まっすぐ前を見た。


ラエルはその横顔を見て、胸の奥で誓いをもう一度結び直した。

守る、というのは倒すことじゃない。

“戻せるようにする”ことも、守りなのだと。



夕暮れの運河は冷える。水面が黒くなり、提灯の灯が伸びる。

橋の欄干に肘をついたミアが、ぽつりと言った。

「……慣れてる、って言うの、楽なんだよ」

声が小さい。耳が伏せている。

「慣れてるって言えば、誰も心配しなくなるから」

ラエルは言葉を探した。

“慣れなくていい”と言いたい。

でもそれは、ミアの生き方を否定するみたいで怖い。

ラエルは代わりに、別の言葉を選んだ。

「明日も走る」

ミアが一瞬だけ目を丸くした。

「……それ、答え?」

「うん。俺、走る。隣で」

不器用な言い方だ。それでもミアのしっぽが小さく揺れた。


「じゃあ、合図、もっと分かりやすくしようかな」

「やめろ。見ちゃうから」

「見ればいいじゃん」

ミアは笑って、すぐに目を逸らした。笑った後の照れが、ラエルの胸を熱くする。


家に戻ると、ヴァルドが装備を点検していた。刀の鞘、革の紐、地図の端。遠征前の匂い。

ラエルは何も言えずに立つ。

結月が湯を注ぎ、札を一枚撫でて整える。

「守るって言ったなら、守りなさい」

結月はラエルの頭を撫でて、それだけ言った。

優しいのに、背中が冷える言葉。守る相手はミアだけじゃない。守る秘密がある。


夜、第十九刻。遠くで鐘が鳴った。

トンボリの短い一日が終わる音だ。

ラエルは布団の中で、ミアのしっぽの合図を思い出す。跳ねた白。触れた指。戻した息。

目を閉じても、胸の奥が落ち着かない。


——一年三百日。

積み重ねれば届く、と信じたい。

けれど父の遠征はそれを待たない。

ラエルは闇の中で拳を握り、声にしない誓いをもう一度だけ結んだ。明日も走る。折れない。口を軽くしない。

そして、守る。

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