婚約者が私の悪評を流して捨てようとするから
デリナ侯爵令嬢。
その名前は王都の社交界において、非常に不名誉な形で話題の中心にあった。
「聞きました奥様?あの方は侍女に理不尽な暴力を振るっていらっしゃるそうよ」
「まあ。それだけではなくて、感情の起伏が激しくて、些細なことでヒステリーを起こされるとか」
「とてもではないけれど、あのビクト騎士団長の妻として相応しい品性ではございませんわね」
交わされる噂は日を追うごとに毒を増していく。
清廉潔白で「王国の盾」とまで称えられる騎士団長ビクト。その婚約者であるデリナ。
二人は家柄も釣り合いが取れており、誰もが羨む理想の組み合わせのはずだった。
そのはずだったのだが。
この根も葉もない悪評の発生源が、あろうことか婚約者であるビクト自身であると知ったら、人々はどんな顔をするだろうか。
そして、ビクトがその悪評を盾にデリナとの婚約解消を画策しているなどと知ったら。
普通の令嬢はこのような状況を知れば、絶望に泣き崩れるか、怒りに身を震わせるか、あるいは家の威信をかけて徹底的に抗戦するか。なにしろ、一方的な裏切りであり、家名を傷つける行為なのだ。
だがデリナはそのどれでもなかった。彼女はただ、面白い玩具を見つけた子供のように、きらきらと目を輝かせただけだった。
◇
「デリナ、何の用だ。私は忙しいのだが」
騎士団本部の団長執務室。
山積みの決裁書類を前に、ビクトは苛立ちを隠そうともせず、無断で訪れた婚約者を睨めつけた。その目には婚約者に向ける親愛の色はなく、厄介払いしたいという露骨な拒絶が浮かんでいる。
対するデリナはそんな彼の態度など柳に風と受け流し、飄々とした足取りで室内のソファに腰を下ろした。
「うん、知ってる。忙しいんでしょ?私に関する『悪い噂』を広めるのに」
「なっ……!」
図星を突かれたビクトが息を呑んで固まる。デリナは構わず、まるで今日の天気でも話すかのように無邪気な口調で続けた。
「ねえ、ビクト。あなた、本当は私と婚約したくないんだよね」
「……何を馬鹿なことを言っている。俺たちの婚約は両家が合意の上で」
「そういう建前はいいから」
デリナはぱたぱたと手を振ってビクトの言葉を遮る。その仕草には悲しみも怒りも一片たりとも含まれていない。
ただ純粋な好奇心だけが、彼女の瞳の奥で揺らめいていた。
「ねえ、教えてよ。どうして私と婚約したくないの?」
「だから、そんな事実はないと」
「嘘つかなくていいよ? 見てると分かるよ」
デリナは楽しそうに笑う。その視線はまるで獲物の隠れ家を覗き込むように鋭い。ビクトの心の奥底を正確に射抜いていた。
「本当は……別に好きな人がいるの?」
「……いない」
「ふぅん。じゃあ、私の家柄が邪魔?」
「……は?」
「それとももっと別の、言えないような理由?」
彼女の無邪気な問いかけは、まるで子供が秘密の宝物を探すようだ。だが、問いかけられるビクトにとっては、それは尋問以外の何物でもなかった。彼は自分の本心を、この掴みどころのない婚約者によってじりじりと暴かれている気分だった。
「家柄が邪魔、だと……?」
「だって、うちの家ってけっこう発言力あるでしょ? あなたの家とも釣り合い取れてるし。騎士団長の妻としても申し分ない」
デリナは指を折りながら、自分の「商品価値」を確かめるように言う。
「逆に言えば……簡単には切れない相手だよね」
「それは……」
ビクトが言葉に詰まる。まさにそれこそが、彼が姑息な噂を流すという手段に出た理由だったからだ。
デリナの家はビクトの実家に匹敵する力を持っている。正攻法での婚約解消は、王国内に政治的な亀裂を生みかねない。
デリナはそんな彼の葛藤を見透かしたように、こてんと首を傾げた。
「もしかして、もっと弱い家の子と婚約してたら、もっと楽に破談にできたのにーって思ってる?」
「そのような打算を……!」
「打算じゃないよ。それって『逃げ道が欲しい』ってだけの普通のことだもん」
デリナの口調はどこまでも軽い。
「ねえ、正直に言って。この婚約、重荷でしょ?」
「……婚約とは双方の家の繁栄のためにあるものだ。個人の感情で左右されるべきものでは」
「双方の家、王国の利益、騎士団の威信……あはは、全部『ために』だね」
デリナは堪えきれないというように笑い出した。その笑い声に、ビクトは侮辱されたと感じて眉を吊り上げる。
「で、ビクトは? ビクト自身はどうしたいの?」
「私個人の希望など、騎士団長という立場にある以上……」
「ある、んだよね?」
デリナは笑うのをやめ、じっとビクトの目を見た。その真っ直ぐな視線に射貫かれ、ビクトは思わず言葉を呑み込む。
「言っちゃいなよ。私は怒らないから」
「……」
「ねえ、もしかして」
デリナは何か面白い発見でもしたかのようにぱっと顔を輝かせた。
「誰とも婚約したくなかったんじゃない?」
「……!?」
「家柄とか、政略とか、そういうの全部関係なく。ただ『結婚』っていう枠にはめられるのが嫌だったとか」
「私は騎士団長として、適切な伴侶を得ることは責務だと……」
「『騎士団長として』」
デリナはまたくすくすと笑い出した。
まるで秘密の合言葉を聞いたかのように。
「ねえ、その言葉、何回言った? 今日だけでもう五回くらい言ってるよ。まるで呪文みたい」
「……何が言いたい」
ビクトの声が苛立ちで低くなる。
だが、デリナは全く怯まない。むしろますます楽しそうだ。
「呪文だよ、本当に。『騎士団長として』って言えば自分の本心を押し殺せる魔法の言葉」
彼女はソファから立ち上がり、ゆっくりとビクトの机に近づく。
「でもね、その呪文、もう効いてないんじゃない?」
デリナはビクトの目の前に積み上がった書類の山を、とんと指でつついた。
「だってあなた、すっごく疲れた顔してる」
「私は……!」
ビクトは反射的に反論しようとして言葉を失った。
それは本当にそうかもしれないと思ってしまった。デリナの指摘が彼の心臓を鷲掴みにした。
疲れている。その通りだ。
騎士団長としての責務。貴族嫡男としての立場。そしてこの望まぬ婚約。
全てが鉛のように彼にのしかかっていた。
デリナはそんな彼の動揺を満足そうに見つめ、そして、爆弾を投下した。
「ねえ、ビクト」
その声は悪魔の囁きのように甘い。
「騎士団長、辞めたいんじゃない?」
「――!」
時が、止まった。
ビクトは呼吸をすることさえ忘れていた。
辞めたい。
そんなこと考えたこともなかった。
いや違う。
考えないように必死で蓋をしてきたのだ。
『騎士団長として』『嫡男として』。その二つの呪文でがんじがらめに自分を縛り付けて。
「あ、本当にそうかもね」
ビクトの絶句を肯定と受け取ったのか、デリナは満面の笑みを浮かべた。まるで難解なパズルが解けた時のような、純粋な喜びに満ちた笑顔だ。
「そっか。婚約が嫌なんじゃなくて、騎士団長であることが嫌なんだ。でも騎士団長だから婚約しなきゃいけなくて、婚約したらますます『完璧な騎士団長』を演じなきゃいけなくて……」
デリナはくるりとビクトの机を回り込み、彼の真横に立った。そしてその顔を覗き込む。
その目は先程までの好奇の色とは違い、不思議なほど優しく穏やかだった。
まるで、ずっと重い荷物を背負ってきた子供を、ようやく見つけて労うかのように。
「わかった」
彼女は心の底から納得したように頷いた。
彼自身が今この瞬間まで明確に自覚していなかった欲求。
彼が理性と立場で必死に抑え込んでいた切実な衝動。
それを、デリナは、いとも簡単に見つけ出した。
「あなた、全部から逃げたいんだね」
ビクトは、何も言えなかった。
ただ、デリナの言葉が彼の心の奥底に封じ込めていた「本音」の扉を、鍵も使わずにこじ開けていくのを感じていた。
そうだ。逃げたかった。
騎士団長という重圧から。
貴族の家というしがらみから。
政略結婚という鎖から。
デリナはそんな彼の内面の叫びをすべて聞き届けたように満足そうに微笑んだ。
「じゃあ」
彼女はビクトに向かって、そっと手を差し伸べる。
「一緒に逃げよう」
ビクトは差し伸べられたデリナの白い手を、ただ呆然と見つめていた。
「……何を、言っているんだ、君は」
ようやく絞り出した声は自分でも驚くほどにかすれていた。
一緒に逃げる?
馬鹿な。何を。
彼が望んでいたのは、あくまで「婚約解消」だ。体面を保ち、家の影響を最小限に抑え、この息苦しいだけの関係を清算すること。
それだけだったはずだ。
逃亡などという破滅的な選択肢は、彼の思考の中には欠片も存在しなかった。
だがデリナは、そんなビクトの困惑などまるで意に介さず心底不思議そうに首を傾げた。
「え? だって、それがあなたの望みでしょ?」
「違う! 私が望んでいるのは……!」
「望んでいるのは?」
デリナはビクトの言葉を無邪気に繰り返す。その純粋な瞳が彼に続きを促す。だが、ビクトは言葉に詰まった。
「……婚約の、解消だ」
「ふぅん」
デリナはその答えに全く興味がなさそうに、ふいと顔をそむけた。そして執務室の窓から見える王都の景色を眺めながらぽつりと言う。
「悪評を流して、私を悪者にして、それで婚約解消が成功したとして」
「……」
「それで、何が変わるの?」
その言葉は冷たい刃のようにビクトの胸を刺した。
「あなたはまた次の婚約相手を押し付けられるだけよ。今度はうちの家よりもっと扱いやすい、弱い家の令嬢をね」
「それは……」
「そして、また騎士団長として完璧に振る舞わなきゃいけなくて、跡取りとして立派に家を継がなきゃいけなくて……」
デリナはくるりと振り返る。
その顔には先程までの無邪気さとは違う、全てを見通すような憐れみの色が浮かんでいた。
「それって、あなたが本当に欲しいもの?」
ビクトは何も言い返せなかった。
それこそは彼が必死に目をそらし、考えないように蓋をしてきた、逃れようのない真実かもしれなかった。この婚約から逃れたところで、結局はまた別の鎖に繋がれるだけ。
根本的な解決には、何一つならない。
デリナはそんな彼の沈黙を肯定と受け取った。
彼女はふっと表情を緩め、まるで悪戯を思いついた子供のように楽しそうに笑った。
「私ね、あなたの気持ち、すっごくよくわかるよ」
彼女は再びビクトに歩み寄り、今度は彼の両肩にそっと手を置いた。
驚くほど近い距離に、ビクトが思わず身を固くする。
「だって、息苦しいもんね。全部」
「……っ」
「だから、ちゃんと逃げようよ。中途半端に婚約解消するだけじゃ意味ない。やるなら全部捨てて、本当に自由になろうよ」
その声は、優しく、そして甘く響いた。
ビクトが何か反論の言葉を見つけるより早く、デリナは具体的な「逃亡計画」を語り始めた。その声は弾んでおり、まるで待ち望んだピクニックの計画でも立てているかのようだ。
「まずは南に向かうのがいいと思うの。王都から離れてる上に大きな港町があるから異国への交易船が沢山出てる」
「待てデリナ、何を……」
「身分を偽るための書類は安心して。うちの家の伝手を使えば完璧なものがすぐに手に入るから。密出国なんて簡単よ」
「聞け……!」
「ビクトが騎士団長の職務を放棄したら大騒ぎになる? 大丈夫。そこは『急病による長期療養』ってことにすればいいの。私がうまく王宮のお医者様を丸め込んで『これはもう療養に専念するしかない』って診断書を書かせるから」
「ふざけるな!」
「あ、お金の心配もいらないわ。私の宝石をいくつか処分すれば私とビクトが贅沢しないで暮らす分には十年くらいは余裕で持つもの。その間に二人で新しい仕事でも探せばいいし」
彼女が語る計画はあまりにも具体的で、現実味を帯びていた。そして、その一つ一つが、恐ろしいほどに「実行可能」に思えてしまった。
ビクトはその時、初めて心の底から恐怖した。
この女は、狂っている。
冗談でも、当てこすりでもない。
本気だ。
本気で、自分をこの王都から「逃がそう」としている。
彼が望んでいたのは、あくまで「体面を保ったままの婚約解消」だった。騎士団長としての名誉も、嫡男としての立場も、全てを捨て去るつもりなど毛頭なかったのだ。
だが、デリナは違った。
彼女はビクト自身が心の奥底に封じ込め、自覚することさえ恐れていた「全てから逃げたい」という暗く破壊的な衝動に深く共感し、そして、本気でそれを実現させようとしている。
それはビクトが最も恐れていた「破滅」への道行きそのものだった。
「やめろ……ッ!」
ビクトは、デリナの肩を突き飛ばした。
「ふざけるのも大概にしろ!」
よろめいたデリナは、しかし倒れることなく、きょとんとした顔で彼を見つめている。その無垢な瞳がビクトの恐怖をさらに煽った。
「私は、君と逃亡するつもりなど、断じてない!」
絞り出した拒絶の言葉。
もう後戻りはできない、決定的な拒絶。
デリナは、その激しい言葉を受けて、数秒間、ぱちぱちと瞬きをした。
そして、
「なーんだ」
ふっと息を吐くように笑った。その表情には突き飛ばされたことへの怒りも、拒絶されたことへの悲しみもない。ただ、純粋な、ほんの少しの「残念さ」だけが浮かんでいた。
「やっぱり、あなたも『やりたいけどやれない』人なんだね」
その言葉は、ビクトの自尊心を、ナイフで抉るかのように深く傷つけた。まるで彼の覚悟も、立場も、積み上げてきたもの全てがただの「臆病風」だと嘲笑われたかのように。
「私は……! 私は、騎士団長として……!」
「いいのいいの。無理しなくて」
デリナはもう彼には興味を失ったかのように軽く手を振る。その飄々とした態度がビクトをさらに苛立たせる。
でも、本当はやりたいんでしょ?
デリナは心の中でそっと呟いた。
わかってるよ、ビクト。あなたは今、自分で自分に一生懸命ブレーキをかけてるだけ。
彼女の瞳の奥に再びあの好奇の色が宿る。そしてそれはすぐに、獲物を見つけた獣のような特異な共感の光へと変わった。
だったら私がそのブレーキを壊してあげなきゃ。
ビクトは知らない。
彼が今拒絶したこの女が、彼を「解放」するためなら、どんな手段をも厭わないということを。
大丈夫。ちゃんとやれるように、私が背中を押してあげるからね?
デリナはビクトを破滅から救うどころか、彼が心の底で密かに望んでいた「破滅」そのものへと導くことを、この瞬間、固く決意したのだった。
◇ ◇
ビクトに突き飛ばされ、決定的な拒絶を突きつけられたデリナ。
だが彼女の瞳から、あの好奇の光が消えることはなかった。
「ふぅん。そっか」
彼女はただ残念そうにそう呟くと、何事もなかったかのように身だしなみを整え、あっさりと執務室を後にしてしまった。
嵐が去った執務室でビクトは荒い息を整える。
あの女は狂っている。
そう結論付け、彼は自分が「正しい道」を踏み外さなかったことに安堵した。
婚約解消はあくまで体面を保った形で行わねばならない。そのために流した「悪評」という名の布石。計画は順調に進んでいるはずだった。
だがビクトは知らない。
彼が火をつけたその「悪評」という導火線を、デリナが全く別の、とんでもない爆薬に繋ぎ変えてしまうことを。
その数日後から、王都の社交界の風向きが奇妙な方向へと変わり始めた。
「聞きました?デリナ様、ご自分で侍女を殴ったと認めていらっしゃるそうよ」
「まあ!なんて恐ろしい……」
「いいえ、それが違うのよ。彼女、こう仰ったそうよ。『だって、ビクト様がそうお望みになったんですもの』って」
噂はデリナが流した「悪評」を否定しない、という一点においてビクトの思惑通りだった。
だが、その動機が「ビクトの望み」という、ありえない尾ひれを伴って拡散し始めたのだ。
ビクトがその奇妙な噂を耳にした頃には、デリナの暗躍はすでに最終段階に入っていた。
彼女はまずビクトが買収して噂の発生源とした侍女たちに接触した。
怯える侍女たちに対し、デリナは侯爵令嬢の威圧感など微塵も見せず、まるで共犯者に語りかけるように人懐っこく笑いかけた。
「怖かったでしょう。あの騎士団長様に脅されて、嘘の噂を流させられるなんて」
「え……?」
「大丈夫よ。私もね、ビクト様の望みを叶えて差し上げたいの」
デリナは懐から取り出した宝石の詰まった重い袋を、侍女たちの目の前のテーブルにこともなげに置く。
「だから、本当のことを話して? ビクト様に『デリナの悪評を流せ』って命令されたって。そうすればこれは全部あなたたちのものよ」
それは買収であり、脅迫であり、そして何より、抗いがたい悪魔の誘惑だった。
侍女たちは、自分たちを使い捨ての駒にしたビクトへの恨みと目の前の莫大な富、そして何より、この楽しそうなデリナという令嬢の底知れなさに呑み込まれていった。
同時に、デリナはもう一方の駒も動かしていた。
王宮監査室、そしてビクトの厳格な父親である侯爵閣下。
双方に対し、彼女は涙ながらに訴え出た。
「ビクト様が私を陥れるために卑劣な噂を……。騎士団長という立場を利用して……。どうかお助けください」
清廉潔白を絵に描いたような騎士団長による、婚約者への不審な工作。
監査室が動かないはずがなく、また、家の名誉を何よりも重んじる侯爵が激怒しないはずがなかった。
そして準備が整った日。
デリナはわくわくとした足取りで再び騎士団長執務室の扉を叩いた。
「まだいたのか。私は君と話すことはないと……」
書類の山から顔を上げたビクトは、訪問者がデリナだと分かると、露骨な嫌悪感を浮かべた。
だが、デリナはそんな彼の態度など意にも介さず、にこやかにソファに腰掛ける。
「ねえビクト。この前のお返事だけど」
「何の返事だ。私は君を拒絶したはずだ」
「うん、知ってる。だからね」
デリナは心底楽しそうに、きらきらと目を輝かせた。
「私ね、やっぱりビクトの『逃げたい』って気持ちにすごく共感しちゃった!あなたが私と婚約解消するためにわざわざ私の悪評を流してくれたでしょう?」
「なっ……何を、言って……」
ビクトの顔がこわばる。
なぜそれをこんなにも楽しそうに語るのか。
「だからね、私も協力することにしたの。あなたが流したその『悪評』、全部肯定してあげたわ」
「……は?」
「『ええ、やりましたわ。だってビクト様がそうお望みになったから』って」
デリナが無邪気に笑う。
その言葉の意味をビクトが理解しかけた、その瞬間だった。
ドンッ!
執務室の扉が乱暴に開け放たれ、複数の人影がなだれ込んできた。
「ビクト!これはどういうことだ!」
怒声と共に現れたのはビクトの父親である侯爵その人だった。そしてその後ろには氷のように冷たい表情をした王宮監査官たちが控えている。
「父上!? それに監査官まで……!何の騒ぎです!」
ビクトが狼狽えながら立ち上がる。
侯爵は息子の弁明など聞く耳も持たず、デリナの隣に立つ侍女たちを顎で示した。
「この者たちがすべて証言したぞ!お前がこの私に泥を塗るような真似を!」
「証言……?」
ビクトが侍女たちに視線を送ると、彼女たちはデリナの合図で、まるで申し合わせたかのようにその場に泣き崩れた。
「うっ……ううっ……ビクト様に命令されたんです!」
「デリナ様がヒステリーを起こしたなどと、嘘の噂を流せと……!」
「私たちは騎士団長様の命令に逆らえませんでした……」
侍女たちの悲痛な叫びが執務室に響き渡る。
「なっ……貴様たち何を……!」
ビクトは自分が用意した駒がそっくりそのまま自分に牙を剥いた事実に愕然とする。
監査官の一人が、冷ややかにビクトに告げた。
「ビクト騎士団長。貴殿には騎士団長の立場を悪用し、婚約者であるデリナ侯爵令嬢を組織的に貶めようとした職権濫用の疑いがある」
「違う!こいつらが勝手に!」
「往生際が悪いぞ、ビクト!」
父親の叱責が飛ぶ。
「デリナ嬢がお前を庇って『彼が望んだことだから』と、自ら悪評を受け入れていたことも我々は把握している!お前は己の保身のために、婚約者にまで罪を被せようとしたのか!」
「ちがう、そうじゃない……!」
ビクトの頭は混乱の極みに達していた。
自分が婚約解消のために流した悪評。
デリナがそれを「ビクトの望み」として肯定したこと。
そして、侍女たちの「命令された」という証言。
全てのピースが、ビクトが「デリナを陥れるために、騎士団長の立場を利用して侍女に嘘の証言をさせた」という、動かぬ証拠として完璧に組み上がってしまっていた。
彼が望んだ「悪評による婚約解消」は、彼自身が「悪評の発生源」として弾劾されるという、最悪の形で彼に跳ね返ってきたのだ。
「ビクト騎士団長。いや、ビクト」
監査官がもはや何の感情も込めずに言い渡す。
「これ以上『王国の盾』の名を汚すことは許されない。よって、貴殿を本日付けで騎士団長の任から解く。謹慎の上、追って沙汰を待て」
罷免。
その一言が、ビクトの頭上で雷鳴のように響いた。
◇ ◇ ◇
監査官たちが侍女たちを伴って退室し、激怒した父親も「家の恥だ!」と吐き捨てて去っていった。
がらんとした執務室にビクトはただ呆然と立ち尽くしていた。
立場も、名誉も、積み上げてきたもの全てが、一瞬にして崩れ去った。
自分が蒔いた種で。
いや、あの女が、自分の蒔いた種を、毒の実に育て上げたのだ。
「……なぜだ」
ソファに座ったまま、この惨状を静かに見届けていたデリナに向かって、ビクトは震える声を絞り出した。
「なぜ、こんなことを……した」
デリナはゆっくりと立ち上がり、ビクトの前に歩み寄る。
その顔には、先程までの楽しそうな色はなく、どこか寂しそうな、憐れむような微笑みが浮かんでいた。
「言ったでしょう? あなたの『逃げたい』って気持ちに共感したって」
「……は?」
「本当はね、あなたと一緒に全部捨てて、南の国にでも逃げたかった」
彼女の声は、あの日の悪魔の囁きのように、静かで甘い。
「でも、あなたが拒否したから」
「……」
「あなたが『騎士団長として』なんて呪文を唱えて自分を縛り付けていたから」
デリナはそっとビクトの胸元に手を伸ばす。
騎士団長の証である、今はもう何の意味も持たなくなった徽章に彼女の指が触れた。
「せめて、あなただけでも、自由にしてあげたかったの」
「自由……?」
ビクトは、彼女の言葉が理解できなかった。
自分は全てを失ったのだ。自由などではなく。
「そうよ」
デリナは、まるで彼の心を読んだかのように頷く。
「これで、もう『騎士団長として』なんて呪文を唱えなくて済むでしょう?」
「――!」
ビクトは息を呑んだ。
そうだ。
彼はもう、騎士団長ではない。
『騎士団長として』の責務も、『嫡男として』の期待も、この罷免によって全て地に堕ちた。
彼は、望まぬ形で、自分が心の奥底で恐れ、同時に望んでいたかもしれない「全て」から解放されてしまったのだ。
「もちろん、私との婚約もこれで白紙でしょう。私はそのままでも構わないけれど、あなたのお父様が許さないでしょう」
ビクトが望んでいた「婚約解消」。
ビクトが心の底で望んでいた「解放」。
その二つを、デリナは、ビクト自身を破滅させるという最悪の形で、完璧に叶えてみせたのだった。
「よかったね、ビクト。さようなら」
優しく微笑んで執務室を去っていくデリナの後ろ姿を、ビクトは声を出すこともできず、ただ見送ることしかできなかった。
◇ ◇ ◇ ◇
デリナは執務室を出ると、誰もいない廊下をゆっくりと歩く。
「……あーあ。もっと一緒に遊びたかったな」
本当は、あの手を強引に引いて、二人で南の国まで逃げられたら。
きっと、そっちのほうが、もっとずっと面白かっただろうに。
まるで、面白い玩具が壊れてしまったかのような。
そんな、名前のつけられない感情が、胸の奥でちくりと疼いた。
「……ふふっ」
デリナは小さく笑って、またいつもの飄々とした態度に戻り、窓の外の青空を見上げた。




