『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』8
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誰かが僕の名前を呼ぶ声がしている。片側の頬や手の平、身体の前面に冷たい感触があり、どうやら僕はうつ伏せになっているようだった。うるさい、また誰かが僕を呼んでいる。あれ、ここどこだっけ……。
僕はゆっくりと両目を開けた。毛むくじゃらの動物の足が見える。それが僕の腕をちょんちょんとつついた。「天一さん、大丈夫ですか?」
僕は慌てて身体を起こした。キタが心配そうに僕を見ている。「ごめん、どのくらい寝ていたんだろう」僕は頭のなかの霧を払うように、両目をギュッとつむって一度深呼吸をしてからキタに訊いた。「それほど長くはないですよ。初めてにしては上出来です。なかには丸一日意識が戻らない方もいますので」
僕たちはうす暗い森の小道の真ん中にいた。地面についているほうの身体が冷たかったのは、日が当たっていないひんやりとした硬い土の上だったからだ。僕は立ち上がると頬や服を軽くはたき、最後に手の平をパッパッとこすり合わせた。キタは僕がどこもケガをしていないのを確認してから、道の少し先まで行き、顔を上げて鼻をクンクンした。そして振り返り、先を急ぎましょう、と軽やかに言った。
時折遠くで鳥の声が響く以外は静かで、僕たちの足音だけが妙にその世界で浮いていた。キタは何度か来たことがあるのか、確信があるように一本道を先導し、僕は置いて行かれないように早足にならないといけなかった。
あまりに現実感がなく、自分の身に現在進行形で何が起きているのかまともに考えられない。だが少なくとも、道を挟んでアーチ状に傾ぐ同じような木々が集まる森の中とはいえ、前に進んでいる感覚はあり、僕は内心ほっとするやら、これからどこに連れていかれるのか不安に感じるやら、もやもやした気持ちだけは自覚していた。
「ねえ、キタ」僕はキタのちょこちょこ動くモコモコのお尻に向かって話しかけた。
「僕らは今、どこに向かっているの? 道になってるってことは、人が近くに住んでいるってことだよね」
キタは歩くのを止めずにちらりと振り返った。
「我々はまもなく、双子の金銀兄弟の家に着きます」「金銀兄弟?」
思わず僕は、怪訝な声を出してしまった。金銀兄弟ってなんだ? なんとなく名前のイメージ的に、すごくおじいちゃんな双子なのだろうか。
「はい。金と銀の兄弟。本当は別の名前がそれぞれにあるのですが、見た目から分かりやすく『金』と『銀』と呼ばれているんです。本人たちも気に入ってるみたいで、お互いを大概『金』『銀』とあだ名で呼んでいます。あ、ちなみに金が弟で、銀が兄です。そこは繊細なポイントなので間違えないでくださいね」
キタはクスクスっと笑いを含みながら、最後の言葉を言った。
「えっと、金が弟で銀が兄……なんだかややこしいなあ。で、その人達はどういう人たちなの? その人たちが僕のお父さんについて何か知っているのかな」
貪狼は、僕たちがこれから行く場所が「お父さんとカギを守ることに繋がる」と言っていた。それに、細かい事はキタに聞いて、とも。だが肝心のキタは、「まあ、そうですね。とりあえず彼らに会いましょう。詳しくはそれからで」とだけ伝えると、ハッハッハッとリズミカルに息を吐きながらさらに歩くスピードを上げている。
キタは身体は小さいが、僕なんかより数百倍も意志が強く、燃え上がる白い炎がゆらゆらと頭からしっぽの先まで全身を取り巻いているようにも見える――僕はさっき意識を失っていた時に見た烏の夢を思いだし、そういえばキタは烏にちょっと似ているな、と思った。まるでエネルギーの弾丸だ。僕の周りには、こういう冷静かつ心燃える真面目な動物が集まりやすいのだろうか。
しばらくすると小道の幅が少しずつ広くなり、両脇の木々の葉の間から射す木漏れ日が太陽の存在を気づかせるまでになっていた。見上げると、緑の濃淡のすきまから輝く光が僕の顔を優しく包み込む。それまでの暗くてちょっと怪しげなゴシック風の怪奇な森ではなく、もしもこんな状況でなかったら、「気持ちの良い散歩日和だね、森の香りは心のデトックス効果があるらしいよ」とでも軽く言いたくなりそうな、緑に満ちた癒しのある素敵な散歩道。
「天一さん」突然キタが振り向き、話しかけてきた。「天一さんは動物の記憶力についてどう思われますか?」早足な上にあまりに唐突な話題で、僕は一瞬むせてしまった。
「動物の記憶力? そうだなあ、ゾウとかイルカとかはすごく記憶力が良くって、何十年も仲間の顔とか起こったことを覚えているって聞いたことがあるような……。ああ、サルとかチンパンジーとかゴリラとか猿人類はかなり良いんじゃない? 記憶力と学習能力ってほとんど同じようなものだと思うしさ」僕は静寂の廃墟のなかで夢想する一頭の老ゾウの姿をイメージしながら、自分の持てる「記憶力についての記憶」を引っ張り出してなんとか答える。
キタは、なるほど、とさほど感心していない平板な相槌を打つと、「イカの一種のヨーロッパコウイカは、いつどこでなにを食べたのか、つまり過去の出来事における『エピソード記憶』を長年覚えていて、次のエサを取る時に活かしているらしいですよ。しかもその記憶力は、年を取っても衰えないらしいんです。あ、ちなみに記憶力というのとはちょっと違うかもしれませんが、好物を食べるためなら50から130秒ほど待つことができるんですって。すごいですよね、あんなにフニフニした小さい身体で」
僕はヨーロッパコウイカなんて名前は初めて聞いた。スーパーなんかで売られているイカとはまた違う種類の生き物なのだろうか。それよりも大きいのか小さいのか、姿かたちはイカそのものなのか、まったく想像もできない。
「では天一さんは、犬の記憶力についてどう思われますか?」キタの雑談は容赦ない。
「え、犬の記憶力? うーん、たぶんだけど数年は持つんじゃないかな。だってたとえば、三年くらい何かの事情で遠くにいた飼い主が突然帰ってきたら、嬉しすぎて失神する犬もいるぐらいだしね」僕は最近見た映像を元に、犬の記憶力について小さな犬に答えた。
「なるほど、確かに」キタは言葉を続けた。「聞いたところによると、犬には短期記憶と長期記憶があるらしいです。短期記憶の場合は、30秒から長くて120秒程度、つまり2分ですね。長期記憶になると、数十分から十年以上も記憶に残るとか。だから、子犬の時の記憶も、楽しいとか怖いとか、印象に残りやすい感情やエピソードとセットになっていれば、案外記憶に残っているものなんですって。あの例の『おすわり』『お手』なんかも、繰り返しさせることで短期記憶から長期記憶に落とし込んでいるんです。だから、もしも一度長期記憶として嫌なイメージがついてしまったモノや場所があれば、そのイメージを払拭するためには、良いイメージの記憶の上書きが必要になる訳ですが、それはもう根気よく『大丈夫だよ、楽しいよ、いい事あるよ』と覚えさせないといけないんですよね」
「そうなんだ。じゃあ案外人間と似ているかも。人間だってすぐに忘れてしまうこともあれば、なぜかずっと頭の片隅に残っていて、ある日なにかのきっかけでポンッと記憶の引き出しから出てくること、あるよね。特に嫌な記憶って、急に思い出して夢に出てきたりして、後味悪いって言うか……。そういうのってなかなかいい記憶には変えられないよ」
キタは僕の言葉に、そういうことです、と相槌を打つと、満足そうに短いしっぽを振って歩くスピードを上げた。なにが「そういうこと」なのかよく分からないが、動物の記憶力の話はこれでおしまい、ということなんだろう。キタって相当変わってるワンコだな。いや、ただのワンコでないのは確かだから、キタの記憶力は相当なものじゃないだろうか。
そんなことを考えながらキタに遅れないよう早足で進んでいると、緩やかに右方向にカーブしている小道の前方から、なにか大きな白い塊がこちらに向かってくるのが見えた。なんだろうと思う間もなく、それはどんどんと僕たちのほうに歩を進める。白馬だ。優美ではあるが、よく締まった筋肉が内に秘めた強さを見る者たちに無言で訴えるような存在感。木漏れ日を受けた部分だけではない、身体全体が月明りを内包し発光しているかのような儚い輝き。そしてその輝く立派な筋肉質の白馬の上には、馬に見劣りしない、これまた立派な体格の男の人が乗っている。
彼ら――白馬と騎乗者――は、僕たちの前まで来ると立ち止まった。キタも立ち止まり、当然僕も立ち止まった。最初に口を開いたのは謎の騎乗者だった。
「やあ! やっと来たか、遅いから様子を見に来たんだ、キタ。そして君がテンイチだね」
でかい。声も身体もとにかくでかい。その男性は、風になびいた白髪に近いプラチナブロンドの肩まで伸びた髪を、やはり岩のようにでかく硬そうな片手で無造作にくしゃっとかきあげた。薄茶色の眉毛は大きな筆で引いたように太く、まっすぐに僕を見つめる灰色の瞳は、鷲鼻とあわせてまさに猛禽類のようだ。
彼の顔の濃さやその体躯に圧倒されていた僕は突然名前を呼ばれ、反射的にうなずきながら、まさに虫の羽音程度のか細い声で、はいと返事した。彼に僕の声が届いたかどうか怪しいものだ。だが、彼は「よし、ここまで来たなら後はもう少しだ。では待っているぞ」と一方的に言い放ち、誰の返事も待たずに向きを変えて元来た道を颯爽と戻っていった。
「えっと……乗せてはくれないんだね。いや、別にいいんだけど。一緒に行くのかな、とかさ……」
あっという間にいなくなった彼らの残像を目で追いながら、僕はつぶやいた。
「はい、そういう人なので」キタはどうってことないという風に答えた。「今のが双子の兄のほうの銀さんです。乗馬がお上手で、先ほどの愛馬はケレリスという名です。とても良い子ですが、誇り高いのでそのつもりで接してくださいね」
キタの最後の言葉がどちらについて語っているのかはよく分からなかったが、おそらくどちらに対しても当てはまるのだろうと僕は解釈した。
そうして僕たちは、古い石造りの塀に囲まれたある一軒の家にようやく到着した。
僕たちが来ることが分かっていたからか、サビた鉄の門扉はすでに全開にされていた。キタがそのまますたすたと入っていくので、僕もきょろきょろしながら後に続く。双子の兄弟の姿はない。塀の中も木々や自然の草花がもっさりと生い茂っており、門の外の森が続いているようにも見える。そして目の前には、騎士物語の映画にでも出てくるような、遠い昔の田舎風の朴訥とした家が僕たちを待ち構えていた。塀と同じくらい年代を感じさせる朽ちた表情は、優しく思慮深いおじいさんのようでもあった。
「ああ、やっと着いたか。思っていたより遅かったなあ。待ちくたびれよ」
大きな声とともに、身長が優に二メートル以上あるであろうプラチナブロンドの大男が、家の横手から姿を現した。さっきの森の男――金銀兄弟の兄、銀だ。
銀は左右の手に、身体に見合った巨大な桶をぶら下げながら僕たちの前までのしのしと近づいた。地上に降り立っている姿もまた遠近感がおかしくなるような迫力があり、おそらく僕が生で見た人の中で断トツのドでかさだろう。
銀は「ちょっとケレリスに持っていくから、家の中で適当に休んでいてくれ。台所に食べ物があるから、飲み食いも適当に。金もそのうち帰ってくる」と一気に言うと、のしのしと家の裏手のほうに去っていった。
彼の後ろ姿を見送り、キタと僕は家の中へ入った。古びた外観に反して、家の中は想像していたよりもこぎれいで広い玄関ホールが広がっており、正面には左右に階段が延びていた。正面奥の開かれた扉や、階段を上がったところにある明かり取りの窓から日の光が入っているため、照明がなくても自然なやわらかい明るさが満ちて清潔感がある。そしてさらに意外なことに、左右の階段を挟んだ真正面には小さな木の丸テーブルが置かれ、その上には可憐なピンクと白の花々が白い花瓶に生けられていた。あの筋肉隆々な銀が飾っているのだろうか。その姿を想像するとちょっとほほえましい。
すると、キタが僕を見上げながら訊いた。「天一さん、お腹空いていますか」「お腹空いたというより、喉が渇いたかな」食欲はなかった。
キタは、ではついてきてくださいとだけ言うと、階段を上がらずにそのまま右手の廊下に向かって進んでいった。突き当りの部屋に入ると、そこはどうも台所のようだった。
誰もいない台所には蓋をされた大きな鍋が三つ置かれていた。真ん中のテーブルには、僕が知っているよりもふた回り大きいバケットが、切られる運命を粛々と待つように長いパン切りナイフとともに用意されている。バスケットに山盛りにされたブドウやリンゴ、オレンジその他の果物はどれも新鮮そうだ。そしてこれまた意外というべきか、マットシルバーの巨大な業務用冷蔵庫が牧歌的な台所にそぐわないメカニックな輝きを放ち、僕の姿をぼんやり、そしていびつに見せていた。
「天一さん」キタが冷蔵庫の前に立つ僕に声をかけた。「冷蔵庫のなかに飲み物があると思うので、好きな物をお取りください。おすすめはレモネードです。食べ物もお好きに取って大丈夫です。そういう人たちなので」
歩き疲れていた僕たちは、それぞれに喉を潤しながら足を休めていた。うっすらと白っぽく曇った窓からは日暮れを告げる光が射し、僕はこれから何が始まるのか、不安とともに(正直に言うと)ワクワクする気持ちを抑えきれなかった。いや、もちろんお父さんが今どこでどうなっているのか分からない状況で楽しむのは良くないことだ。烏のこともある(まだ受け止めきれず、意識的にあまり考えないようにしているが)。『考え方の異なる者たち』が次に何を仕掛けてくるのかも分からない。僕自身だって、今まさに危険が迫っているのかもれない。だけど、急展開な世界を目の前にして、ワクワクする気持ちをほんの少し、ほんのひとさじ程度胸の奥に抱いたって、大きな罪ではないだろう。
僕がレモネードを飲み干してコップをテーブルの上に置いたのと同時に、どしどしという重い足音とともに台所の出入口から初対面の大男が姿を現した。少しくせのある髪はオレンジに近いブロンドで、同じくほぼオレンジ色の眉毛は勢いのある直線的な山を描き、深緑色の瞳は生まれつきの挑戦的かつ好奇心旺盛な炎を隠しきれていなかった。
「やあ、無事でなにより。キタ、テンイチ」その男――金が良く響く低音ボイスで吠えた。
双子だからてっきり金も銀もそっくりな見た目なのかと思っていた僕は、そのあまりに異なる容貌に驚いた。が、すぐに彼らは二卵性双生児なのだろうと思い至った。髪や目の色、細かな顔の造作はまったく違うが、アゴが角ばった骨太な顔の形や筋肉質な体格、まとっている空気感は兄弟のそれだ。それに、最初に僕に向けられた金のまなざしには、銀が最初に見せたまなざしに似た、ある種の慈愛の表情が読み取れた。
僕は自分がとても小さな異物のように感じた。まるでお母さんを失くしてすぐのあの頃のように。
「銀はどこに行った? さあさあ、こんな台所にいないで、あっちの部屋でくつろいでくれ。食べ物はすでにある。足りなければ後で足せばいい」
一息に言うと、金は僕たちを動くように急かし、先頭に立って別の部屋へと案内した。元の廊下に戻り、玄関ホールを抜けてそのまま直進し、廊下を抜けて「さあ、こちらの部屋で好きにくつろいで」と金が言った。
古い山小屋のリビングルームのような、天井に大きく太い梁のある、全体的に赤茶色の靄がかった素朴かつおおらかな雰囲気の部屋だった。一見無秩序に配置された大小形の異なるイスたち。それらイスたちのボスのような、ゴツゴツとした木のテーブルには、見た目でだいたいどんな味か想像しやすい肉の塊や野菜を焼いたり煮炊きしたりした豪快な食事が並んでいる。
煤のついた赤レンガで囲われた暖炉には火がついており、そういえば台所で少し肌寒く感じていたことをチラチラと揺らめく炎を見て僕は思い出した。この時期は夕方から急に冷え込むからな、と金が僕の視線を追って言い、キタは暖炉の前に立つと、クンクンとあたりのニオイを嗅いで何かを確認している。
僕は金に勧められるままに黄色いふわふわの毛皮で覆われた大きなイスに座った。身体が沈み込んでイスの中でおぼれそうになっていたが、金もキタも僕のことなんか気にせず部屋の中をゆっくりと歩き回っている。なんとか体勢を整えた僕は、これからどうなるのか早く話を聞きたかったので、思い切って口を開いた。
「あの、金さん……」
その時、大きなくしゃみと共にプラチナブロンドの銀が姿を現した。そして、今夜も冷えそうだな、と誰にともなく大きな声でそういうと、暖炉の前に立って両手の平をかざし、開いたり閉じたりの動作を繰り返した。金が銀の肩を軽くポンッと叩き、二人は同時に僕のほうを見てうなずく。僕とキタ、金銀兄弟勢ぞろいの図だ。
「では話を始めましょう」僕の足元でキタが高らかに宣言した。