『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』7
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烏と初めて会ったのはいつだったのか、全く思い出せない。物心ついた時には、烏はもう当たり前の存在で、だからおそらく僕が赤ん坊だった時にはすでに烏は会いに来ていたんだと思う。
僕が知っている烏は、すでにあの鳥類のカラスの姿をしていたけど、僕にはあまり関係がなかった。だけど周りの人たちには、烏と話しているところは決して見られないように用心した。なぜなら僕も――他の人たちと同じく――烏以外の動物とは話せないし、僕は普通の世界の一員なのだから、そのルールは守ったほうが「安全」だと本能が教えていたからだ。
烏のほうもそのあたりの僕の世界のルールはわきまえていて、時々、僕がひとりでいるのを見計らって僕の家のベランダに来たり、時には僕の部屋に上がりこんだり、僕が友達と校庭でキックベースをしているのを校舎の上から眺めたり、お母さんやおばあちゃんとの小旅行先や、お母さんとみったんとのお出かけ先にちらっと姿を現したりしていた。僕が中学生になってお父さんと暮らすようになってからも、烏は時々、お父さんがいない時にベランダに来たり、たまには僕の部屋の窓をコツコツ叩いて「早く入れてくれ。誰かが来たらカラス駆除されるだろ」と言ってきたりした。僕の周りで何年たっても何も変わらないのは烏だけだった。
まったく、今から思うと、なかなかの自分アピールのうまいヤツだったな。そして僕もお父さんも、烏との関係をお互い知られないようにしていたなんて、なんだかやっぱりヘンテコな親子だよ――全ては烏の手の平の上じゃないか。
そう言えばこんなことがあった。
お母さんが亡くなった翌々日の夜、僕はベッドで横たわりながら、なかなか寝付けずにいた。これまであまり気にならなかったコツコツという時計の音が、生きている限り誰にでも平等に与えられた時の歩みを僕に知らせる。その音を聞くともなく聞きながら、明日も学校には行かなくていいんだな……、とぼんやり考えていると、僕の部屋の窓を遠慮がちに小突く音がした。ノックノック。僕はベッドから起き上がると、窓辺に行き、カーテンを引いて窓を開けた。
烏は何も言わずに部屋に入り、窓を開けたままでベッドに腰掛けた僕と、窓の外の街灯と月明りが作り出す薄暗がりのなかで向かい合った。僕たちは互いに視線を合わせないようにしていた。時計の音だけが響いていた。
「眠れないのか」烏が訊ねた。
「うん、でも、大丈夫」なにが大丈夫なのか僕自身分からなかったが、口から勝手に飛び出したのが、この言葉だった。知らない大人にも、よく知っている大人にもとりあえず言っていた定型文だからだろうか。ダイジョブ、ダイジョブ、ダイジョブ。
「お母さんのことは、気の毒だった。俺はあの時あの場にはいなかったんだ」烏は少しうつむいて、ポツポツと話した。烏にしては珍しく、どんなトーンで話せばよいのか困っているようだった。
「うん……」僕もどんな顔をすればよいのか分からず、言葉も出なかった。まだ「お母さんのいない子」に慣れていなかったからかもしれない。それに、烏がいたところで何もできなかったはずだ。烏はしょせん、カラスなのだから。
烏は首を前に伸ばし、トントンと軽く跳ねながら僕の足元に近づいてきた。途中、窓から差し込む光が烏の身体に当たり、普段よりも大きく輝いて見えた。車窓についた水滴に街の灯りが反射して虹色の世界を内包するように、烏の羽はひとつひとつが光を湛えていた。烏は僕の足のすぐ横の暗がりで動きを止めると、思い切ったようにくちばしを開いた。「眠れないなら、少し昔話をしよう――ずっとずっと昔、この器になる前、俺には人間のような形の器があった」
初めて聞く話だった。
「その当時、俺には仲の良い人間の女の子がいた。名前はレン。俺はその子を生まれる前から知っていたし、生まれた後も多くの時間を一緒に過ごした。レンは俺にこの世界での名前がないと知ると、新しい名前を授けてくれた。もうその呼び名は忘れてしまったけれど……」
身体に似合わず大きな鐘の音のような烏の声は、光と暗がりの境界によく似合っていて、僕の頭の中には烏の声だけが深く温かく響きわたる。
「レンには、五歳下の弟がいた。その弟は生まれつき心の臓がよわくて、学校にもほとんど行けず、家で静かに過ごすことが多かった。レンは弟のことを可愛がっていたから、一緒に家で本を読んだり、絵を描いたり、弟の好きな歌を歌ったりして、寂しくないように気を配っていた。俺も彼らの両親がいない時には、家に上がって彼らと一緒にいることがあった。ほんのたまに弟の調子が良い時には、河原で三人並んで座って心地よい風に当たったり、心のままに美しく鳴り響く声で歌っているレンの絵を弟が描いたり……。今はもう思い出せないようなたわいもない話しや遊びをして、俺とレンと弟はなんでもない日々を過ごしていた。そんな風にして時が過ぎ、レンの十七回目の誕生日に弟の体調が悪くなった」
烏はここで、深呼吸をするように大きくくちばしを開け、話を続けた。
「レンの家に医者や近所の親戚らが慌ただしく出入りして、どうもこれまでの体調不良とは深刻さが異なる、ということは傍目にも分かった。弟が寝ている一階の部屋を窓から覗くと、レンが目に涙をためて、ぐったりと横たわる弟を見守っている姿が見えた。だが、周りには大人たちがいたから、俺はレンに声をかけずに家の側で様子をうかがっていた。その日の深夜、弟はもはや最後の意志の力のみでこちら側に留まっているだけの状態になった。荒地をさまよう一羽の傷ついた小鳥の様なその身体のなかに、それほど強い生への意志があるとは、俺はそれまでちっとも気づいていなかったことを恥じた」
その時のことを思い出しているのか、烏は遠くを見つめていた。僕は烏が話し出すのを待った。
「当たり前だが、レンはかなり悲しんでいた。横たわる弟の力ない手をさすりながら、何度も何度も弟の名前を呼んでいた。その声は外にいる俺にも十分に聞こえた。俺はその場を離れて、ある場所に向かった。そこは、肉体を持つものの居場所ではない場所――永遠の一瞬の割れ目にある場所だった。俺はその入り口で、人の形をしたかりそめの器から出て、人間の言う魂のような状態になって案内人と共に入っていった。俺が何者なのか、どうしてその場に来たのか、案内人がすべてを知っていることは、霧の道を進む道中、無言の中でも感じ取れた」
烏の声だけが響いていた。
「案内人は、ある小さな水色の花の前まで来るとふっと消えてしまった。俺は霧の中、その小さな花だけを頼りにひとり待っていた。すると、その場所の主の声が聞こえた――『本当にいいのか』と。柔らかく温かく透き通った音楽のような声で、その声を聞いた俺は、自分の主のことを思い出していた。天一、お前の属星のことだ」
烏が僕のほうを向いた。僕は声を出さずにうなずいた。烏は話を続けた。
「その場所に向かった時点で、俺に迷いはなかった。もちろん主のことを全く忘れていた訳じゃない。だが俺自身あらがう事の出来ない己というものが、どんな岩をも打ち砕くように一直線に望みのために突き進む――そんな衝動に侵されることもある」
そういうと、烏はしばらく話すのを止めた。僕はその時の烏の気持ちを想像した。
「俺は――」ここで、烏は一度ため息をついた。「俺は、俺という存在自体をあらゆる時空間から消滅させることを条件に、レンの弟に今世の生をもうしばらく、大人になり年老いて魂の灯火が消えるまで、与えてくれることを願った」
「あらゆる時空間から消滅?」ささやき声で僕は烏に訊いた。
「そう。つまり、俺を表す粒子一粒さえも元々存在していなかったことにする、ということだ。レンや弟の記憶から消えてなくなるということ。これまで俺が会ったことのある生物全ての記憶から、元々なかったことになること。すでに逝ってしまった人との交わりも含めて、なにもかも俺に関することは無になるということ。俺自身、自分というものがあったことを知らずに、いや、知らないという状態すらなく俺に関する一切が消えてしまうということ」
「……なんだか、怖いね」
「怖いさ、でも消えてしまえばその感情さえも消滅してしまう。決めてしまえば簡単とも言える。俺にはそれまで、人間のような『死』という先は待っていなかった。つまり、器の形は変わるとしても、俺自体が消えてなくなる、ということはない前提で存在するものだった。もしかしたら、だからこそ俺は自分の消滅が何に取って代わるのか、知りたくなったのかもしれない……」
外で車の通る音がした。こんな時間でも誰かがどこかに行こうとしている。そのことが妙に頭に残った。
「俺は、自分の中の意識の核のようなものが、薄い無色の膜から引っ張り出される感覚を覚えた。痛みはない。怖いという感情もなかった。ただ、レンたち姉弟と主のことをぼんやりと想った。そして俺は一度消えた」
部屋の中も外も静まり返っていた。僕はできるだけ音を立てないようにゆっくりと息をした。消えた烏の魂がどうしてまた戻ってきたのか、早く先を知りたかった。
「次に目覚めると、俺は主の部屋にいた」烏は話を続けた。「視界ははっきりしていた。そして俺は、今度の器が黒い羽を持つ生き物だと悟った。両目を寄せると目玉の先にある嘴も見えて、なかなか興味深かったな」そういうと、烏は少し懐かしそうに笑った。
「そして俺が目覚めたのを知り、主がやってこられた。主はいつものように穏やかな表情で、カラスの姿になった俺に次のことをお話くださった――これからは名を『烏』として務めを果たすこと。この器はこの世界の肉体のように年を取ることはないが、致命傷を負えば『死』を迎えるということ。ただし、俺というこの世での現象を覚えていてくれる者から俺の記憶はなくならない。完全なる消滅ではなく、ただ死を迎えるだけ、ということ。そしてひとつ、通常の肉体の死と異なる点は、機能しなくなった器は解終師たちに持っていかれるということ――この世界のものではないから中身がなくなれば直ちに処理され空間が均される、という訳だな。こうして俺は主のお慈悲によってこの姿になり、今はテンイチの側にいる」
ここまで言うと、烏は僕がこれまでの話を理解できたかどうか伺うように、僕のほうに顔を向けた。烏のつぶらな瞳がつるりと光ったが、その奥で何を見ているのかは読めなかった。これまで僕が知っていた烏とは違う烏に入れ替わったような、奇妙な感覚が僕を襲った。だがそれは、僕自身の何かが機能し始めた、もしくは機能を止めただけだったのかもしれない。
「それじゃあ、レンさんの弟はどうなったの?」しばらくの沈黙の後、僕は訊いた。烏は、ああ、と急に思い出したような声をあげ、その後のことは知らないが年老いるまで命を全うしただろうと、事もなげに言った。
「知らないって、一度も会いに行ってないってこと? 離れたところからでも、少しも様子を見に行かなかったの?」
「まあ、だいたいそういうことだ。いうなれば、『足りないものは音をたてるが、満ち足りたものは静か』というもんだ」
「なにそれ」
「昔、ある人間が言っていた言葉だ。ふと思い出したから言ってみた」
そう答えると、この話はもうおしまい、という合図のように、烏は両方の羽を少し広げてバサバサっと身体を揺らした。
「ねえ、烏」話が終わったと感じたとたんに急激な眠気に襲われて、僕はベッドに横たわった。烏は軽やかに跳び上がると、足元から僕の顔を覗き込んだ。
「なんだ」
「どうしてその話、今、僕にしたの?」
「特に意味はないさ。ただ急に話したくなっただけだ。まあ強いて言えば、テンイチとレンの弟がなんとなく似ているからかもしれないが……」
「僕とレンさんの弟が? どんな風に?」
「うむ、そうだな。たとえば絵がうまいところが似ている。それに顔かたちというか、たたずまいというか……、さっきも言ったがなんとなく似ているように俺が感じるだけだ。だがそれは俺の主観でしかない」
「そう……、あのさ、僕、この先どんな器に烏が入っていても、絶対に烏のこと分かると思うよ」
僕は本気で心の底からそう言ったが、全く期待していないのか、烏はなにも答えなかった。それから僕たちは、夜が明けるまで一緒に眠った。
朝になり僕が目覚めると烏の姿はなく、閉じた窓のカギは開いていた。新しい世界はまだ僕のために貴重な余地を残していてくれて、僕は自分が「生きている」ことを初めて知ったような気がした。