『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』6
部屋には大きなアーチ型の窓が四つ並んでおり――うっすらと窓の外から見えるのは、遠くの木々の先端の葉部分のようだ――外からの光がこれでもかとばかりに目いっぱい差し込んでいた。床は、濃淡のある板がイナズマのようなかくかくした模様ではめ込まれている板張りだ。壁は薄い空色に色付けされているが、ところどころ剝げ落ちて白地が見え、味のあるグラデーションを作り出していた。そして僕から見て左斜め前方、右から3つ目の窓の前にあるカウチソファには、大きなバケツ型の白い帽子で顔の上半分以上をすっぽりと覆った、白シャツに白い細身のスーツ姿の人物がしどけなく寝そべっていた。垂れ下がった手には、白い手袋がはめられている。つまり、全身真っ白に包まれている。
僕は扉を閉めると、キタをちらりと見てから、その人物に向かって思い切って「おじゃまします」と声をかけた。が、声が小さすぎたのかまったく反応はない。
隣にいるキタを見ると、キタも僕を潤んだ茶色い瞳で見上げていた。そして僕に向かって、首をくいっと前にやった。もっとあの人に近づけ、ということだな。分かりましたよ。
僕はカウチで微動だにせず眠っている人物のすぐ近くまでいくと、もう一度「あの……おじゃまします」と声をかけた。全然気づいてもらえない。しょうがないので、僕はその人物の肩にそっと手を置き、軽く揺さぶってみた。「お休みのところすみません……僕は天一と言います」
数回揺さぶりと声掛けをセットで繰り返し、これはもうどうしようもないのではないかと思った時、その人物が初めて「ううううう」と声を上げて動き出した。そして帽子に覆われた顔(といっても口元しか見えないが)を僕とキタのほうに向けると、やあ来たね、と、特に驚いた様子もなくかすれた声で言った。声のトーンから推測するに女性のようだが、ささやくようなかすれ声で良く分からない。
「こんにちは。あの、起こしてしまって申し訳ないんですけど……教えてもらいたいんです。僕の今の状況について……」いざこの人物が目覚めると、何と言えばよいのか混乱してしまい、僕はもごもごと言葉を絞り出した。
白スーツの人物は、ゆっくりと大きく伸びをすると、僕に「ちょっと待って」というように指を一本立てて見せ、立ち上がり、少しよろよろしながら部屋の奥のほうにあるダイニングテーブルのほうに行った。テーブルの上には、朱色のベルのような形の大振りの花と、薄紫色の小さな花がたっぷりと詰め込まれた花瓶を中心に、食べ散らかしたなにかしらの料理の残骸やケーキ、崩れた形の(かつては特盛だったはずの)フルーツの山、わずかに底のほうに赤茶色の液体が入ったデカンターが数本、透明の液体が入ったビンなどが散乱していた。優しいが酸味のある花の香りと甘い砂糖の香り、鼻につく渋いアルコールの香りが混ざり合い、混沌とした部屋とその主の雰囲気に妙に合っていた。
白スーツ(とその人物を呼ぶことにする)は、お皿とお皿の間で横倒しになっていたガラスコップを立てると、ビンから透明の液体を注ぎ、それをごくごくと飲み干した。そして、僕のほうを見ると、自分のガラスコップを前に突きだした。おそらく「君もなんか飲む?」という意味だと解釈し、僕は首を横に振った。
白スーツはガラスコップにデカンターから赤茶色の液体を注ぐと、それを片手にさっきよりはしっかりとした足取りでカウチまで戻ってきた。そして、ガラスコップを持っていないほうの手で少し離れた場所にある一人掛けのクリーム色のソファを人差し指で指し、指先をくいくいと動かした。おそらく「そのイスを持ってきて座りなさい」という意味だと解釈し、僕はキタをちらっと見てから指示通りにイスをカウチの前まで移動させた。その間、白スーツはカウチにどかっと座ってガラスコップの液体をチビチビと飲んでいた。
僕が自分の一人掛けソファに座ると、キタが白スーツの足元に行き、前足をカウチに掛けるとそのまま座面に飛びあがった。そして白スーツの耳元(といっても巨大な帽子越しだが)でなにかをささやいているようだった。白スーツは数回うなずいた。
「よくここまで来てくれたね、天一さん」白スーツが僕に向かって話し出した。「私は貪狼。この屋敷の主のひとりだよ。さて、ここに来てから、私とキタの他に誰かと会ったのかな」
貪狼はいわゆるきちんとした大人とは様子が違う。帽子の壁越しで視線さえ交わらない。だが、僕はまるで今後数年の行く末を左右する大切な口頭試験でも受けているような、妙な緊張を感じながら答えた。
「文曲と破軍……さんたちには会いました。そして、文曲が僕をここに連れてきたと聞きました。でもそれ以外、ほとんど話はしていないです。僕が寝てしまったみたいで……」
顔が帽子に覆われて全く表情が見えない人物、しかも初対面の相手に話すのは、初対面の動物と話すのよりも難しいことがよく分かった。相手の顔が見えない電話越しに話すのとも違う、そこにいるのに読めない感覚。壁の向こう側にいけない感覚。なぜか僕は、今朝の烏の顔を思い出していた。
貪狼は僕の言葉が尻つぼみになるのを待っていたように、ガラスコップを口元に掲げながら「君は素直なんだね」と言った。「素直だけど頑な、頑なだけど受動的、受動的だけど……」淡いピンク色の唇の片方の端が、グイッと上に引っ張られた。「ま、今はそんなことよりも、どうしてこういう状況になっているのかが知りたいんだよね」「……そういうことです」「分かった。私が君に説明をする役回りならそうしよう」
なんとなく、僕に言っているというよりも自分自身への独り言のようにつぶやくと、貪狼は足を組み直した。すでにソファから降りていたキタが、僕と貪狼と三人で正三角形を描くように、少し離れた場所にちょこんと座って僕たちを見守っている。
「事の発端は、天一さんのお父上が消えたことから始まる」貪狼の口から思いもかけないワードが飛び出してきて、僕の心臓は急に早鐘を打ちだした。
「……お父上って、お父さん? え、あのお父さん?」
動揺してバカみたいに同じ言葉を繰り返す僕に向かって、貪狼は面倒くさそうに手を振った。黙れ、という意味だろう。僕は口をつぐみ、ゴクンとつばを飲み込んだ。急に水が欲しくなった。
「そう、君のお父上は君たちの時間感覚でいう昨日夕刻から消えた。別の言い方をすると、烏が彼の反応を追えなくなったのが、君たちが暮らす街の昨日の日の入りの刻18時30分」
「18時30分……、お父さんが家を出たのは、たしか昼の一時過ぎ。仕事でフランスのなんとかってとこに行くって空港に」と僕は記憶をたどりながらあることに気づいた。「今、『烏が彼の反応を追えなくなった』とかって言いました?」
「言ったよ」貪狼は当然のように答えた。ここの住民たちは、みんな自分の行動は全て自明の理のように話す。「天一さん、まさか君だけが烏のお友達だと思っていたのかい? 君は自分だけが烏と意思疎通ができる特別な人間だとでも?」
そんなファンタジーじゃあるまいし、という小さな声が聞こえたような気がした。僕はキタのほうをちらりと見たが、キタは口をギュッと結んだ真面目な顔つきで貪狼の顔を伺っていた。
「話を先に進めると」貪狼が続けた。「お父上は『ある箱』を開けるためのカギを管理する役目を長年担っている人なんだ。そのカギの保管場所は、お父上しか知らない。そのカギは非常に重要なもので、代わりとなるスペアはない」
「……スペアはない」
「そう、スペアはない。そしてもうひとつ重要なのが、そのカギを欲しがっている、我々とは考え方が異なる者たちがいることだ」
「考え方が異なる者たち……」
「そう、我々は彼らを『異法者』と呼んでいる。そして我々と異法者は君が想像もできないような長い間、そのカギを巡って面倒な攻防を繰り広げてきた。そして、昨夜、カギの管理者である君のお父上の行方が分からなくなった。彼と烏は会う約束をしていたそうだが、それは叶わなくなった」
「それは、つまり、お父さんはもう……」
貪狼はゆっくりと、長細い足を組みかえた。相変わらず顔は見えないが、僕の表情を観察していることだけは確かだ。
「お父上は異法者にとらわれたのかもしれないし、どこかに身を隠しているのかもしれない。それはまだ分からないんだ。だが、彼らが君までとらえようとしているとだけ烏からの最後のメッセージで分かったから、ひとまずここに連れてきた。巨門に言わせれば、まさに間一髪だったみたいだけどね。まあ、文曲ならすべては理とかなんとかうまい事言うだろうけど」
僕は床を見ながら混乱する頭を抱えた。「……それで、僕はこれからどうすれば良いんですか。父がその、考え方の異なる者たちに捕まっているのなら、早く助けに行かないと。だって、考え方が違うってことは、そのカギのために何をされるのか分からないし……、いや、でもそもそも僕まで狙われているのは、お父さんをおびき出すためのオトリってことかも……いやいや、でも僕だけ隠れているなんて、烏もあんなことになったし……お父さんももう……」
天一さん、落ち着いてください――と、キタの声が聞こえた。キタのほうに目をやると、たれ目がちなキタのつぶらな瞳が、励ますようにキラキラと光って僕を見ている。そうだ、ここは一旦深呼吸をして落ち着こう。身体中を駆け巡る電気信号のようなしびれを鎮めないと。冷静になれ、テンイチ。
「天一さん」目をつぶって呼吸を整えていると、今度は貪狼が僕の名前を呼んだ。「君にはこれからある場所に行ってもらわないといけない。それが君のお父さんとカギを守ることに繋がるんだ」もはや選択の余地はない、という口調だった。すべては理だって言いたいのだろうか。「行く? 行くってどこに? ていうかそのカギはどうしてそんなに重要……」
「キタも君と一緒に行くから、その道中で細かい事は聞いて。キタ、天一さんを頼んだよ」
まだ話の展開についていけていない僕を、キタは光を放った強いまなざしで見つめていた。一体全体なにがどうなっているんだ。あの今朝一番の穏やかな初夏の情景こそ、夢のなかの出来事だったのだろうか。いま目の前の白いバケツのような帽子をかぶった全身真っ白な妙な人物とこの小さな犬こそが、実体を持った僕の現実だなんて――というか、あの普通の、口数少ないけどにこやかで料理好きでたまになにか考え込んでぼーっとしているあの普通の人っぽいお父さんが、どうしてこんな普通じゃない世界の重要人物になっているんだよ……。いやまてよ、そもそもお父さんって「人間」なのだろうか。
僕は、烏にもっと色々と聞いておくべきだったと深く後悔し、頭を抱えた。
貪狼の座るカウチの後ろの大きな窓からは、話の内容とは大きくかけ離れた明るい日差しが差し込んでいた。窓ガラスを通して見える木々の緑の葉は鮮やかに色づき、光と風の祝福を受けてまだまだ天に向かって伸び続けるようだ。
「天一さん、君の素直さは嫌いじゃないけれど、あまり見えるままを信じてしまってはこの先危ない」貪狼は僕の視線を追ったのか、急にそんなことを言いだした。「簡単に見えるものは、誰かが作ったまがい物かもしれないからね」そういうと、貪狼は突然両手をパンっと打ち鳴らした。
すると窓の外が一気に暗くなり、夜の闇に木々たちも光さえもすべてが飲み込まれた――ように見えた。窓からの陽光がなくなり、外と同じく暗闇となった部屋で、貪狼は空間にうっすらと白く浮き出た手袋をはめた両手を、もう一度パンっと打ち鳴らした。と同時に今度は、窓の外は夕日を浴びた一面のラベンダー畑に変わっていた。風が吹いているのか、まるで砂糖菓子のような青みを帯びた紫色の花たちが、一様に同じ方向になびいている。窓は閉まっているので香りはないが、あれが本物でなくて何が本物だというのだろうか。
「今、君は、私が両手を鳴らしたから外の景色が変わったと思っているね」貪狼が訊いた。僕は言葉もなく、窓の外を見ながらただうなずいた。すると、今度は一切の音もなく外の景色が変わり、朝の光を反射させてキラキラと光る、エメラルド色の水面が現れた。
「私が両手を叩く行動やそこから発生する音と、窓の外の景色が変わることにはなんの因果関係もない。景色を変えたのは、私の意志の力だけだよ。なぜならここは私の世界なのだから」
僕のスカスカの脳みそに、言葉の意味が浸み込むのを待つようにじっくりとそう言うと、貪狼はキタに向かってほんのわずかに頭を下げた。帽子が数ミリずり下がる程度に。
キタはしっぽを立てて、すっくと立ち上がった。「天一さん、出発の時間です」
慌てて僕もソファから立ち上がると、座ったままの貪狼が「行ってらっしゃい」と、気だるい感じで片手をひらひらと振った。
「行ってきます」僕の言葉に、貪狼の手がひらひらと応える。僕との時間の共有はもう十分のようだった。
僕は部屋を出ようと、最初に入ってきた扉のところまで行こうとした。だが、キタは反対側の窓側に歩を進め、僕を振り返った。「天一さん、そちらではありませんよ」
キタが向かう方向の壁に扉はなく、強いて言えば出入口は窓しかない。だが、それなら高さが問題だ。「え、じゃあどこから出ていくの」
キタはしっぽをピンっと上げて、どんどんと前に進んだ。窓に向かうのかと思ったがそうではなく、突き当りの壁の前で立ち止まった。「こちらからです」
キタが示す壁は、ただの壁に見える。僕は混乱したまま、キタの近くまで歩を進めた。貪狼のほうを振り返ったが、カウチの背に隠れて投げ出された足しか確認できない。おそらくまた寝てしまったのだろう。「天一さん、こちらを良く見てみてください」キタが僕の注意を促した。「我々はここから行くのです」
戸惑いながら、僕はしゃがみ込んでキタと同じ目線になり、同じ方向を眺めた。床にほぼ接した高さに、縦幅十センチにも満たない小さな扉があった。絵本のなかでネズミの一家が出入りするような、可愛らしい温かみのある素朴な木の扉だ。ファンタジー……、と僕は一瞬思った。
「天一さん、この扉を開けてください」キタが催促する。僕は言われるままに、その小さな扉についた取っ手を親指と人差し指でつまみ、ゆっくりと手前に引いた。中は真っ暗闇でどうなっているのか分からない。
「さあ、行きましょう」またもやキタが催促する。「いや、でも、どうやって入るのさ。僕どころかキタの大きさでも到底入れないよ」僕は戸惑いを隠せなかった。これは夢の続きなのだろうか。
キタはふーっと鼻息をもらし、「どうして入れないと決めつけるのですか。あなたの目はあなたの絶対的な支配者なのですか」と、穏やかだが強い口調で言った。つまんないヤツ、とでも言いたげだ。
僕はキタを見て、それから窓の外に視線を移した。外にはあのエメラルド色の水面が生き生きと輝きながらわずかに揺れており、存在の確かさを無言で物語っているようだった。
そうだ、この世界ではこれまでの僕の世界のルールは通用しない。いや、そもそも僕自身、(あの「烏」とだけだけど)見た目がカラスのヤツと話せるような、周りの他の人とは多分ちょっとだけズレたルールの元で生きてきた人間なんだから、今さら何も驚くこともないし……、などと考えてから、その小さな扉の奥の暗闇に向かって僕は恐る恐る右手を差し入れた。
ものすごい吸引力の掃除機にでも吸われたような勢いで右手が持っていかれる感覚と同時に、僕の全身は宙を舞い、僕は悲鳴すら上げることができずに扉の向こうの真の闇の中に引きずり込まれたのだった。