『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』5
目が覚めると、僕はまた、例のツタ柄のふかふか布団に包まれてベッドに横たわっていた。いつの間に寝てしまったんだろうか。寝汗までかいて、ぐっすり眠った感じがする。
僕は慌ててベッドから出ると、自分がまたもや白い上下のパジャマ服を着せられていることに気づいた。書き物机のほうを見ると、僕のトレーナーとデニムパンツがきちんと畳まれた状態で置かれている。これぞデジャヴュというのか。
とりあえず寝汗をうっすらとかいていることもあり、誰も来ないうちにと急いで自分の服に着替え、ベッド脇にあった自分の靴を履くと、僕は部屋を観察した。
淡い緑色の壁紙には、一面に蓮の花を図案化した文様が配され、触ると少しポコポコと立体感があった。部屋の中には、僕が寝ていた巨大な天蓋付きベッド、書き物机のほか、対面に置かれた重厚感のあるアンティーク調のダークブラウンの鋲付きソファとその間に置かれた大理石のテーブル、僕の背よりも少し低い猫脚チェスト、木々に囲まれた静かな湖の情景を描いた絵があった。窓はない。時計も鏡もない。水の入ったガラスコップとスープ皿は回収されたようだ。
さっきは開いていた部屋の扉は、今は閉まっている。両開きの古い木材でできた扉には凝った装飾はないものの、無言で僕になにか大切なことを訴えているようだった。僕は真鍮でできた横長のドアノブをつかみ、下に押し引いた。予想に反して扉は音もなく軽々すんなりと開き、なぜか開かないと思い込んでいた僕は思わず「おおう」と声を漏らした。
目の前の三メートルほど離れたところに、左右に伸びた長い廊下のベージュ色の壁があった。息をひそめて耳を澄ます。静かだ。僕は思い切って扉から足を一歩踏み出し、廊下を左右、数回確認した。誰もいない。点々と灯りの灯った廊下が伸びているだけだ。
僕はなんとなくだが、左側に進むことにした。特に意味はない。ただ、どうすればよいのか教えてくれる誰かに会いたい気持ちがあった。
しばらく廊下を進んだが、他の部屋の扉も窓もひとつもないまま、T字の曲がり角に行きついた。しょうがない、左に曲がろう。
左側に曲がって同じような廊下を進んでいると、突然数十メートル先に淡いクリーム色のこんもりした物体がどこからともなく現れた。ドキッとして立ち止まる。よく見ると、それは少しずつこちらに近づいてくる。立ち止まったまま目を凝らしていると――犬だ。それは、小型から中型くらいの大きさの、白よりもわずかに黄色が混ざったクリーム色の、モコモコした綿菓子みたいな犬だった。
その犬が僕から数メートル離れた場所で歩みを止めると、僕たちは数秒見つめ合った。子犬ではないが、老犬でもない。全身からハツラツとしたエネルギーが満ちている。特に敵意はないようだ。どうしよう、撫でてもいいかな。そう思った時、
「こんにちは」幼い子どものような可愛らしい声で、愛想よく犬が挨拶した。
「……こんにちは」僕も返した。そうか、これは正確には、僕の脳に直接、電磁波のような見えない怪しいものが送られて、それが僕の脳のウェルニッケ中枢に働いて、僕が理解できる言葉として変換されて――ということはどうでも良い――僕とこの犬はコミュニケーションをとることができるのだ。多分。
「そうです、私は怪しい犬ではありません。我々はスムーズにコミュニケーションをとることができますので、ご安心ください」犬が少し舌足らずな口調で、知らない大人におびえる子どもをなだめるように話しながら、少しずつちょこちょこと近づいてきた。
「え、あ、あの、どうして分かったの、僕の考えたこと。まさか……」
犬は一瞬きょとんとしたが、すぐに口角を上げて笑いながら「いやまさか、私に幻聴伝導の能力なんてないですよ。そんな、ファンタジーじゃあるまいし」と言って、ピンクの舌をべろべろ出した。「初めてお会いする人間の方には、最初に一応お伝えしているんです。急に知らない犬になれなれしく話しかけられたら、そりゃ驚きますものねえ。天一さんも地球の犬と話したことはないでしょうし」
僕のすぐ目の前でクスクスと笑い声をあげ、犬が僕の顔を見上げた。「申し遅れました。私、『北の色白』と申します。キタ、と呼んでもらえれば結構です。ちなみにミナミもおります。よろしくです、天一さん」
つられて僕も「よろしく」と答えたが、なんだかまだ頭がぼうっとしていて現実感がなく、小犬のペースにグングンと乗せられている自分を、どこかで見ている僕がいるみたいな……、ダメだ、頭がうまく働いていない。げんちょうでんどう? にんげんのかた? ちきゅうのいぬ?
「私はこのお屋敷『七星剣』のみなさまのお世話全般をその時々で色々とうけおっている、いわゆる何でも屋みたいなものです。ちなみに七星の方々は『七剣星』と呼ばれることがありますので、お屋敷の名前『七星剣』と間違わないようにです」
キタは自分が言ったことがおかしかったのか、クスクスっと笑った。それから何事もなかったかのように自分がやってきた方向、つまり僕の進行方向に向かって数歩歩き、僕がついてきているか確認するように振り返った。コロンとしたふわふわのしっぽがプイプイと左右に揺れていた。
僕とキタは横並びになって廊下を進んだ。廊下には落ち着いた色調の赤い敷物が敷かれているが、これは犬の肉球にも優しいのかもしれない――というようなことを考えていると、キタが「ところで、天一さんはどこに行きたいのですか」と訊ねた。
「え、どこって……」不意を突かれて僕は動揺した。「キ、キタが連れていってくれるんじゃないの」
僕たちは歩みを止めずに一本道の廊下を進んでいた。廊下の左右には、先ほどと何ひとつ変わらず、扉も窓もひとつもない。ただただ灯りのついた赤い廊下が前後にずっと伸びているだけだった。これではどれだけ進んだのかさえ分からない。
「天一さん。申し訳ございませんが、我々は少しもどこにも進んでいませよ」つぶらな瞳で僕を見上げながら、キタが当たり前のように言った。ワレワレワスコシモドコニモススンデイマセンヨ。
「少しも進んでいない?」僕は思わず立ち止まった。キタも合わせて立ち止まった。
「はい、我々は出会った場所から前進も後退もしていません」キタが続けた。「天一さんはどこに行きたいのですか」
キタは僕の答えを気長に待つ、とでも言うように前足を伸ばして伸びをすると、頭をぶんぶん振り回した。垂れ下がったペラペラの両耳がパタパタと小さく音を立てる。僕たちは長く伸びた廊下に二人きりだった。歩いても歩いてもどこにも行けない一本道で、今、僕は小さな犬に試されている。
どれくらいの時間だったのか分からないが(数秒かもしれないし、数分かもしれない)、その場に漂っていた沈黙を破ったのは僕だった。
「キタ、僕はなぜこの屋敷に連れてこられたのかが知りたい。今朝、烏……友達がやられたり、急にこんな知らない場所に知らない人たちに連れて来られたり、一体何が起きているのか全然状況が分からない。だから僕に、きちんと説明してくれる人に今すぐ会いたい。もちろん、キタが事情を知っているのなら、僕に知っていることを全て教えてほしい。そうすれば、次に僕がどうすべきでどこに行けばよいのか、とにかく考えなくちゃいけないことを考えられるから」
キタは小首をかしげながら僕の言葉を聞き終わると、「なるほど、承知しました。では先に進みましょう」と、しごくまじめな表情で答えた。僕のつたない答えは、なんとか合格だったようだ。
僕たちは、再び横並びになって歩き出した。さっきと同じようにただ歩き、全く同じ廊下を進んでいるはずなのに、なぜだか足の踏み出しが軽やかだ。見える景色は変哲もないただの壁と赤い廊下だけだが、さっきよりも「歩いている」という感覚自体が足の裏からふくらはぎ、太もも、胸から頭にかけて一本の槍が全身を貫くようにたしかに感じられた。
そうしておそらく三十秒ほど歩くと、僕たちの左手に白い木製のやや古びた扉が現れた。全面に大振りの花の装飾が彫られており、優しいやわらかな雰囲気が漂っている。
キタはその扉の前で立ち止まると、僕を見上げて「こちらの部屋にお入りください」と言った。僕は丸くてピカピカした金色の取っ手を握って回した。