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『誓約のそら―烏の飛翔編 第ニ部―』2-13

13


 霊廟を後にしたヒトトセは、その近くにある澄んだ泉のふもとに来ていた。

 こんな小さな辺境の星にこんな美しい水が湧き出るなんて、少し前までは何も知らなかったとヒトトセは思いながら、泉の水をひとすくいして口元に運ぶ。このまま同志たちと穏やかに暮らせれば、という欲求がほんの少し頭をもたげたが、今のヒトトセをとどまらせるには及ばない。

 動き出したものは止められない。無秩序は正されなくてはならない。事なかれ主義者もどっちつかずの日和見主義者も思い知らなくてはいけない――宇宙の均衡は新たなフェーズに移るべきなのだ。


「同志ヒトトセ、同志ミマスが廟堂にお戻りになられるようにと言われています」

 ヒトトセよりもずっと大きな体躯の同志が、身をかがめてヒトトセに伝えた。ヒトトセはありがとう同志グースと礼を言い、襟元をただすと霊廟に向かった。


「同志ヒトトセ、どこまで行っておられたのです」

 迎えるミマスの言葉にヒトトセは「ちょっとそこまで」とだけ返答した。「弐夜になにか動きがあったのですか?」

「それが……ご覧になってもらえますか」

 珍しくミマスが言葉を言いよどむ。ヒトトセは胸騒ぎがしたが、とにかく弐夜を残していった廟堂に入ると、彼がいるはずの台座に向かった。だが、弐夜の姿はない。


「こちらです、同志ヒトトセ」

 同志ミマスの誘導で、同じ部屋の隅――カーテンで仕切られた一画に入ると、クッションが敷き詰められた上に弐夜が、まるでカラスの死骸のように硬直したまま仰向けに寝かされていた。顔の部分はマントのフードで隠されているが、明らかに意識はなさそうだ。ヒトトセは側によると、横に立つミマスに顔を向けた。


「ずっとこのままなのです。最初は立ったままで止まっていたのですが、なんというか、途中で何かがこの者の中から抜けていったような感覚がありまして、それで他の同志にも手伝ってもらって、ここに寝かせたのです」

 ヒトトセはミマスの話を聞きながら、弐夜の空中に差し出された両手を眺めた。だらりと皮膚の下がったほとんど骨だけが残った物体。ヒトトセはその手を自身の両手でそっと挟むと、弐夜、弐夜、とその名を呼んだ。

 これがこの者の本当の名前なのか、そもそも本当の名前などないのか、そんなことはどうでも良かった。名前を呼んであげたくなったのだ。

 弐夜、弐夜……、何度もヒトトセは名前を呼んだ。ミマスは一歩下がったところでその様子を見守っていた。


 どれくらい時が経ったのだろうか、ヒトトセが何十回目かの名前を呼んだ瞬間、握っていた手の内に動きを感じて、ヒトトセは小さくあっと声を上げた。恐る恐る弐夜の顔を覆うマントを取る。両目は真っ赤な白目だけが皮膚のすきまからのぞいていた。

 ヒトトセはもう一度名前を呼んだ――弐夜、弐夜。

 すると、その両目のうち、赤ん坊の瞳を持つほうに黒目がぎょろりと現れた。それからもう片方の老人の瞳のほうにも――こちらは垂れた皮膚でほぼ埋まっていたが――くすんだ黒目がじんわりと現れた。ヒトトセは顔をのぞきこんで名前を呼び続けた。

 うう、うううう……。ヒトトセの声に答えようとしているのか、弐夜が低いうめき声を上げる。そして確かに、ヒトトセに両目の視線を合わせる。


「弐夜、大丈夫か、聞こえていますか」ヒトトセが言う。

「……あとひとつ、あとひとつ……」

 弐夜が絞り出すように答える。

「え、なんですって?」とミマスが横から訊く。

「……あとひとつは生きている」弐夜が苦し気に息を吐き出しながら言う。「ふたつは消えた。残りはひとつ……」

「まだ仕掛けはひとつ、残っているということですね」

 ヒトトセが励ますように言葉を繋ぐ。弐夜はわずかにうなずくと、「このまま寝かせておいてくれ……このまましばらく……」と言ってまた白目をむいた状態で動きを止めた。


 ヒトトセがミマスのほうを見ると、ミマスもまた、腕を組みながらヒトトセのほうを見ていた。

「とにかく、言われた通りこのままで様子を見たほうがよいでしょうな。我々には解終師の考えていることは分からない」

 ミマスが何か言わなくてはいけないという感じで言った。

「そうですね、『もうひとつ』というモノがどの程度の力を持って、何をしてくれるのかは未知数ですから、そっちのことは弐夜に任せましょう」

 ヒトトセは弐夜の手を再びぐっと握ると、目の部分にマントのフードをかぶせ直し、カーテンの仕切りから外に出た。

「ここには信頼できる同志を数人呼んでおきます。なにか動きがあればすぐに同志ヒトトセをお呼びできるように」

「ありがとう、同志ミマス。ところで――」ヒトトセは台座のところにまで行くと、空になったままの水盤の底に手を触れた。

「訓練は順調に進んでいますか。能力のある者たちにはその才能を活かした活躍の場を用意しなくてはいけません。それが私たちの総意です」

「ええ、もちろんです。同志たちは順調に組織立った動きができるようになっています。各々の能力はさらに伸び、視野が広がって、共通の目的達成のために何をすべきか優先事項を考えて行動できるようになっています」

「それは素晴らしい。決戦はまもなくですから、このまま続けましょう」


 そういうと、ヒトトセは水盤の底に片方の手の平を広げてかざした。こぽこぽこぽ……という小さな音とともに、水盤の底から水滴がひとつふたつと湧き出て、見る間に水盤の底には澄んだ水が張っていた。

「泉にいらっしゃったんですな」ミマスが言った。

 ヒトトセはミマスの問いかけには答えず、「では私たちは次に進みましょう」と言い、ミマスを連れて霊廟を出た。彼らと入れ違いに、覆面の同志と紫の髪の同志が、ヒトトセとミマスに一礼をして霊廟に入っていく。

「弐夜の護衛の一部です。あれらは例の少年を何も知らずに取り逃がした者たちですが、なに、能力自体には問題ありませんのでご安心を。挽回させる機会を与えたいのです」


 ミマスの言葉に、ヒトトセは「優しいことを言うもんだ、同志ミマスは」と答えた。

 皮肉なのか率直な意見なのか判断ができず、ミマスは沈黙を守った。二人はしばらく黙って歩いた。

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