『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』4
「大丈夫、あなたは生きてますよ」性別も年齢も定かではない、初めて聞く声が耳元でささやいた。僕は生きている――生きている?
「おはようございます。天一さん」目を開けると、すぐ目の前に僕より少し年上らしい、二十代半ばくらいの知らない顔があった。「なにか飲みますか」
その人物は、僕が声を出さないのは喉が渇いているからとでも思ったのだろうか。サラサラと、森を思わせる深い緑色をした着物の裾と長い黒髪を揺らしながら、飲み物を取りに違う部屋へと消えていった。
僕は混乱した頭とぼやけた両目をクリアにするため、目をぱちぱちさせてから周りをぐるっと見回した。そこは僕の部屋の百倍くらいは広い、壁一面淡いエメラルドグリーン色の清潔な雰囲気の部屋だった。僕は天蓋付きの巨大なベッドに寝かされており、ツタの絵が全面にあしらわれたふかふかな寝具に包まれて、まるで植物の形をした謎の生命体にとらわれた哀れなヒト型ロボットのような気分になった。
僕がベッドから抜け出そうとしていると、先ほどの人物がお盆にグラスと深めの皿を乗せて戻ってきた。まだ寝ていても良いですよ、とお盆をベッド脇にあるサイドテーブルに置き、その人物が言った。
「ここは、どこですか」僕はその人物がいる方角とは反対側に移動し、ゆっくりとベッドから足を下ろした。下ろす時に毛足のながい絨毯が無防備な素足の足裏を撫でる。その確かな感触が、これは現実だと教えているようだった。
その時にようやく、自分が見慣れないシンプルな白い上下の衣服を着ていることに気づいた。なんだか地面がふわふわ揺れているような妙な浮遊した感覚が取れず、ベッドに手をついてバランスをとるのに精一杯で、それ以上のことを冷静に考えられない――そんな自分をもう一人の自分があざ笑っているようにも思える。あまり気持ちの良い状態ではないので、思わず顔をしかめると、
「そんなに怖い顔で警戒しなくても大丈夫ですよ。ここまでは奴らも追ってこられません。さあ、まずはお水でも飲んで。それから温かいスープもありますよ」と謎の人物がクスリと笑った。
「……あなた、誰。ここはどこ」僕は思わず、今どき誰も書かないような陳腐なセリフを吐いた。
「ここは私の、というか私たちの家、みたいなものです」その人物は、潤みのある黒目がちな瞳で僕の目をじっと見つめながら言葉を続けた。「私はあなたを、あなたの居場所からここに連れてきたんですよ。天一さん」
その言葉で、僕の記憶は奇妙な少年とリビングの白い煙の一連の出来事にまで一気に飛んだ。と同時に、僕を見つめるこの人物の瞳の奥の蒼さにも記憶の電気が走った。
「あんた、あの子ども……」
その時、開けっ放しの出入口から、長身で体格の良い、ひげ顔の男性が入ってきた。深紅地に黒い縁取りと金色のボタンが目立つ、まるで前世紀の軍服のような硬派ながらクラシックな上品さも漂う服装だった。年は僕の父親に近い五十歳前後くらいか。左頬には、縦に長く切り傷のような跡があった。
「文曲、あまりもったいぶるのはやめたほうが良い。芝居がかるのは悪いクセだよ」その男性が低く、だかよく響く声で言った。
「あ、破軍、やっと来た」文曲と呼ばれた着物の人物は、振り返りもせずにそう答えた。「君が説明してくれたほうが、話が早いかもしれないね」
破軍と僕の目が合った。「とりあえず着替えてもらったらどうだろう。そのほうが天一さんも落ち着くだろう」
「ですね。天一さんの服はそこにありますから、着替えてくださいね」文曲が指さす方向には見るからに年代物のどっしりとした書き物机があり、その上には場違いにカジュアルで見慣れた僕の服が畳まれた状態で置かれていた。確かに、下着のようなパジャマのような妙な服装のままで人前(特に知らない人達の前)にいるのは少し居心地が悪く、自分が自分ではないようで落ち着かない理由のひとつでもあった。
僕が自分の服――前よりもキレイになっている薄手の水色のトレーナーとデニムパンツ――に着替えると、破軍と僕は向かい合ってソファに座った。文曲は破軍の横に少し離れて座り、僕を斜め向かいからじっと眺めていた。
「あの、僕はどれくらい眠っていたんですか」着替えている間にざっと辺りを見回し、僕はこの部屋に時計がひとつもないことを確認していた。
「それほど時間は経っていない。君が家から離れたのは、まだ君の世界の今朝の出来事だから」破軍はゆったりとしているが、強く響く声で答えた。「君を連れ出したのは、この文曲だよ。どうも姿は子どもに変えていたみたいだけどね」
「記憶の中の子どものほうが驚かないかと思ったんだよ。でもちょっと油断しちゃったかな」文曲はそう言うと、口を片側にゆがめてニヤリとした。こういう表情もできますよ、の顔。僕のコーヒーゼリーを我が物顔で食べていたあの顔だった。「いや、だって、あいつらがあんなに早く来るとは思ってなかったからね」文曲は破軍のほうを向いて続けた。「でもちゃんと巨門が待っていてくれてたから、なんてことはなかったよ」
「あの、ところで、僕はそもそもなぜここにいて、ていうかあの僕んちで起きた煙事件は何で、あなたたちは一体何者で……」僕はさっき文曲が置いてくれた水を一口飲んだ。変なものが入っていたとしても、もうどうにでもなれな気分だった。
「うん、確かに分からないことだらけで戸惑っているね。でもね天一さん、君は少なくとも我々がどういう者なのか、予想がついているのではないかな」破軍が腕を組みながら静かに言う。「烏は、最期になんと言った?」
「烏」という言葉の響きに僕の心臓が跳ねた。
――お前はこれから追われることになる……大丈夫、属星が守ってくれる……。
「僕はこれから追われることになる。でも属星が守ってくれる……。あなたたちが、僕を守る属星の……」僕の声はたどたどしく、不正解を恐れる子どものようだった。
だが破軍はそんなことは気にしていないようで、僕の答えに微かにうなずいた――そうか、烏はすべてを知っていたんだな。そして僕の烏はもういない。
「とりあえず――」破軍と文曲を交互に見ながら、僕ははやる気持ちをできるだけ抑えて冷静に見えるようにゆっくりと言った。「僕は誰からどうして追われているのか、そしてあなた方と僕、烏との関係をきちんと教えてください」
「そうですね、その前に」文曲が、たわいもない雑談を楽しむように軽い調子で口を挟んだ。「スープが冷めないうちに召し上がってくださいね。そうそう。落ち着きますから。それから天一さん、あなたの住む地球では、地球時間の三日後に皆既月食が起こるってご存じですか?」
文曲のツルンとした卵のような顔を眺めながら、僕はとっちらかった頭の中を急いで整理した――今朝、烏が死んだ。僕は烏の最期の言葉を聞き、知らない家に知らない間に寝かされて、スープを飲みながら三日後に皆既月食が起きると、家から僕を連れ出した変なやつに教えられた――それが、何も分からずただ状況に飲まれてうろたえているだけの今のちっぽけな僕だった。