『誓約のそら―烏の飛翔編 第ニ部―』2-11
11
舟を降りて夜平に別れを告げると、天一とキタは夢泉丸の先導で桟橋の先にある石段を上がり、古めかしい駅舎のような建物に入った。周囲にも中にも誰もいない。
天一は前回冥界を訪れた時のように「みったんらしき女性」が引継ぎに出てくるのかと思ったが、誰も出てくる様子はなく、夢泉丸がそのままどこかに彼らを連れていくようだった。
「ここでお待ちください。まもなく列車がまいります」
夢泉丸がそう言うやいなや、遠くからわずかにゴゴゴゴゴ……という音と振動が天一の立つ床を伝ってきた。音と振動はどんどんと大きく激しくなり、気づけば空の赤さに負けないほど真っ赤な列車が天一たちの前に現れていた。その列車は音と振動の割には三両編成の小ぶりで可愛らしく、天一は内心拍子抜けしたが、いや、油断はできない、と考え直した。
腕のなかの卵がわずかにうごめいたように感じた。
夢泉丸は開いている二両目のドアの前に立つと、こちらにお乗りください、と天一とキタを誘った。
彼らが言われた通りに乗り込むと、すぐにドアが閉まる。天一は車内に足を踏み入れるやいなや、はあっと感嘆の声を漏らした。
車内は列車というよりも縦長の部屋のような作りになっており、木造の細やかな装飾が、壁から天井からすみずみにまで手抜かりなく施されていた。窓であろう箇所には、木彫りの水仙の花模様がはめ込まれた障子が、そしてその下には唐草模様が織り込まれた柔らかなビロード生地のソファ二脚が、向かい合うように置かれていた。
天一とキタが夢泉丸の指さすソファに座ると同時に、列車は動き出した。夢泉丸は、後は到着を待つだけとばかりにもう一方のソファに座ると、動力を失った自動人形のように無表情で真正面を向いたまま、両足を床から浮かせてその動きを止めた。
卵を両手に包むように持ちながら、天一は心地よい座り心地にウトウトしていた。キタも大きくあくびをすると、ソファの上で腹ばいになって眠りそうになっている。
眠っちゃだめだと思いつつ、天一の思考は無の世界に溶けていった。
「お二人共、起きてください。到着しました」夢泉丸の声がした。
まだぼんやりとした頭で、天一は目を開けて自分が眠ってしまっていたことを知った。ひやりとして視線を落とすと、例の卵は両手のなかで静かに鎮座している。
ほっとして天一は立ち上がった。キタも眠っていたようで、少し気まずそうに伸びをしてソファから降りた。
開いたドアから外に出ると、地面にはほんのわずかだが水が溜まっており、目の前は緑や青や黄色の淡い光がグラデーションを描いてうごめく壁だった。その壁は天井に向かって巨大なカーブを描いている。
天一はキタの足が濡れると思ったが、キタは平気だという風にぺちゃぺちゃと歩く。
それにしても、ここが僕たちの終着点?
天一は怪訝に思いながら、キタとともに夢泉丸の後を追って先頭車両のほうへと列車に沿って進んだ。すると、列車の先頭の先に青みのある光の大きな円が見えてきた。だが、強い光にまだ慣れないながら天一が目を凝らしてよく見ると、その円の下半分は実際のものではなく、上半分を占める半円状の光が濡れて鏡のようになっている床面に映っているのだと分かった。
では円の上半分の光とはなにか。それは出口の先に広がる外の世界とつながる光の壁――ここは、トンネルの中だったのだ。
トンネルの出口の手前までくると、夢泉丸は天一とキタのほうを振り返り、ここからは決して振り返らないように、と忠告した。それから、走ってもいけません、と付け加えた。
「フードはまた被ったほうが良いのかな」
天一は前回の冥界からの帰り道のことを思いだし、夢泉丸に訊いた。
「いえ、ここでは姿を消す必要はありません。走らず振り返らずだけで結構です」と夢泉丸は天一に答え、キタに「お願いしますね。これだけは誰であっても守ってもらわないといけません。ここからの決まり事ですので」と念押しした。
三人は並んで一歩を踏み出し、光の壁を抜けてトンネルの出口の一線を越えた。すると、目の前には鮮やかな緑のサッカー場が広がっていた。そしてサッカー場を取り囲むように、白と黄色の水仙の花が見事に咲き乱れていた。
そして驚くべきというべきか、サッカー場ではまさに試合が行われており、幾人かの観客さえも存在していた。
「いいですね、あれら死者の誰とも接触してはいけません。目を合わせてもいけません。無視して静かに無言で歩いて私についてきてください」
夢泉丸の言葉に、天一はただうなずいた。状況があまりに想像を超えていたのだ。どうせなら地獄的な恐ろしい鬼やら亡霊っぽいものが苦しそうにウロウロと荒涼とした岩場や火山のふもとやらにいる情景のほうが、すんなり頭が受け入れられたかもしれない……。サッカー場? しかも普通に生きているように試合しているって……。
そんな天一の戸惑いを感じたのか、不安そうにキタは見上げていたが、「天一さん、夢泉丸についていきましょう」と声をかけた。天一がヨシッと気合を入れ直すと、胸の前に抱える卵がまた震えた気がした。
夢泉丸は、躊躇なく今まさに試合が行われているサッカー場の中を進んでいく。ゴール前にはキーパーが立っており、何事か興奮して叫んでいる。こっちのほうに筋肉隆々な選手たちが、それこそ鬼の形相で走ってくる。だが夢泉丸はお構いなしに彼らのあいだを突き進む。
天一は内心嘘でしょと思いつつも、静かにと言われたため無言で夢泉丸の背中だけを追ってついていく。選手たちが真横でボールを巡ってもめている。危うく審判とぶつかりそうになる。ボールがぎりぎり夢泉丸の前を飛んでいく――夢泉丸はなにがあろうとも立ち止まることなく、フィールドをゆったりと突き進む。
だがしかし、観客も審判も選手たちも誰も彼ら三人という異物について何も言わない。そもそも気づいていない。こちらの世界の夢泉丸がいるからだろうか。いや、そういうことでもないらしい。天一は近くでヒザに手をやり立ち止まっている選手のひとりの顔をちらっと横目で見る。その顔はよくいる生者の顔だ。肌の色が異常に青白い訳でも土色でもない。汗さえもかいている。だが、やはり何かが生者とは違う。何かが欠けている。生者と死者との間にある決定的な違い。それが何なのか、天一には分からない。何が死者に欠けているというのか、何が生者にはあるというのか……。
三人はなんとかフィールドを抜けて、選手に声援を送る観客の横を通り過ぎ、フェンスの空いている箇所からサッカー場の外に出る。サッカー場の外は、似たような家々がお行儀よく並ぶよくある郊外のこぎれいな住宅街になっており、ある家の玄関の前には赤い三輪車が転がっている。この町のシンボルなのだろうか、白と黄色の水仙の花が所々に寄り集まって可憐に楚々として咲いている。
夢泉丸は黙ったままで歩き続け、天一とキタも無言で後に続く。すると、とある家の前庭に夢泉丸がどんどんと入っていき、玄関ポーチに上がり、その家の玄関ドアを躊躇することなくガチャリと開けると、どんどん入っていく。置いていかれる訳にも行かず、天一とキタも入るしかない。彼らが家の中に入ると、夢泉丸は振り返って「ドアを閉めてカギもかけてください。ここからは振り返っても声を出しても大丈夫ですので」と天一に言った。
家の中はうす暗く、濃灰色のごつごつした壁が左右にまっすぐ伸びていた。どう見ても外見ののどかな郊外の家の室内ではなく、怪しい場所に続く怪しい隠し通路といったところか。夢泉丸は天一とキタに問題がないことを確認するように彼らの全身を(体に触れることなく)点検すると、ではこのままあと少し進みます、と言った。
「ていうかさ、サッカー場っていうのはさすがに驚いたっていうか……。だって冥界でサッカーって……」
無言の歩きの緊張が解けた天一が半ば冗談、半ば本気で口にすると、
「『戦場』を通り抜けるという選択肢もあったのですが」と、天一にちらりと冷めた視線を投げて夢泉丸が答えた。
「あまりに生と死の執念が『ガチ』なので、テンイチ様にはまだ通り抜けるのは難しいかと判断しました。そのため回り道になりましたが、危険回避を優先したのです」
なんとなく夢泉丸が不機嫌になったような気がしたが、天一にはその理由が分からなかった。キタのほうを見ると、やれやれというようなあきれた顔で天一を見上げていた。
夢泉丸を先頭に、三人はそのまままっすぐ進んでいった。彼らが足を踏み出すごとに、左右の壁の上方には、通路の少し先までろうそくが灯り、オレンジ色の光と影がゆらゆら揺れて彼らを導く。足元の壁際には、やはり水仙の花がずっと先まで咲いており、甘い中に苦みのある香りが天一のけがれた人間臭を消すかのように通路中を漂っていた。
ここからは無言でなくても良いと言われたものの、夢泉丸の小さな背中を追いながら、天一もキタもひと言も発しなかった。なんとなくだが二人共、自分たち以外の何物かが耳をそばだてているような気がしていたからだ。
天一は手元の卵をしっかりと抱え、なだめるようにその表面をさすりながら歩き続けた。そうしてついに、彼らは行き止まりにまでたどり着いた。そこには、鉄のような硬質な物質でできた、天一の背丈ぎりぎりの高さの扉が待ち構えていた。
「テンイチ様――」扉の前で夢泉丸が呼びかけた。「テンイチ様がお持ちの鍵をお出しください。その鍵でしか、この扉は開きません」
突然「鍵」と言われて、天一は戸惑った。
「鍵? そんなもの知らないよ……」
「いえ、その胸のところにある、それです」
夢泉丸が指さす自分の胸元を慌てて見下ろす。
卵? いや違う。ガラスペンのことだ。
天一がパーカーの胸元からガラスペンを引っ張り出すと、それは青白い光をほのかに発していた。
次に、それをここにと夢泉丸が指さしたのは、扉に立体的に施された、いかにも獰猛そうな牙をむいたトラのような生き物の、口にあたる空洞だった。天一は覚悟を決めて、(武曲が言っていたように、自由自在に伸び縮みする)鎖を首に掛けたままでガラスペンをその口の中にぐっと入れた。そして突き当たったところで、右に回した。
にゃーお
鍵を口に突っ込まれたトラの彫刻が、まるでゼリーでできているようにプルンプルンと揺れたかと思うと、いつのまにか愛らしい猫の姿に変わっていたのだ。そして鍵を口に入れたままで「にゃーお」と鳴くと、天一をつぶらな瞳で見つめながらちょいちょいと手招きをする。
夢泉丸が鍵を抜くように言ったため、天一はそのかわいい猫の口からガラスペンをそっと抜いた。
ガチンという低い音が響き、扉が開いた。扉の向こう側は、雲ひとつない青空の広がる水仙の花畑だった。




