『誓約のそら―烏の飛翔編 第ニ部―』2-10
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巨門から受け取った卵を手に持ち、天一はキタと二人で森の中を歩いていた。二人の目的地は決まっている――冥界に通じる川である。
とはいえ、天一にはその川が今度はどこに出現するのは分からない。そのため館から例の「御者も馬もいない馬車」に乗り、ある森に降ろされた彼らは、キタの嗅覚を頼りに川を求めて歩いていたのだった。
「まもなく着きます。川には迎えが来ている手筈になっている……はず」
キタがハアハアとピンクの舌を出しながら言う。はずって、と天一は軽く笑いながら、手の中の卵に目をやった。なんとなく中で何かが動いたような気がしたのだ。しかもこの感覚は、受け取ってから何度も感じていた。これまでのことを考えれば、この卵がただの卵ではないことは当たり前。油断するな。そう天一は、自分自身に言い聞かせた。
「天一さん、川に着きましたよ」キタが喜びと安堵の混じった声で言った。
確かに、小舟同士が少し余裕をもってすれ違えられるくらいの幅の緩やかな流れの川が、二人の前に現れた。
ふんわりと綿菓子のように漂う朝霧が、川面を覆う青青しい緑のグラデーションにさらなる神秘性を足し、別世界の入り口としてふさわしい清閑さを演出している。そして、鏡のように木々の姿を映す水面がゆるやかなカーブを描く少し手前の岸に横づけする格好で、天一にとって見慣れた小舟と腰の曲がった笠姿の船頭のシルエットが、霧の中で亡霊のように浮き立っていた。
とその時、舟の周辺に漂う霧がさっと晴れ、大小の石がゴロゴロ転がる岸辺に立つ小さな子どもの姿が現れた。
「夢泉丸!」
天一の声が聞こえているのかいないのか、夢泉丸は天一とキタがやってくる方向をじっと見たまま動かない。天一は手を振りながらもう一度その名を呼び、キタとともに足早に彼らのいる岸辺に向かった。
「夢泉丸!」
「聞こえています」
夢泉丸に抱きつかんばかりの天一と向かい合いながら、夢泉丸が冷静に言った。「なにをちんたらしていたのですか。私も夜平も待ちくたびれました」
「ああ、ごめん」
天一は夢泉丸に謝ると、続けて「夜平さん、どうもこんにちは。あれ、おはようございます、かな? どうもお待たせしてすみません」と慌てて夜平に頭を下げる。
小舟の上の夜平は、急に天一もしくは生者に長く話しかけられたことに戸惑ったのか、それとも天一という存在に慣れてきたのか、これまでの無反応とは異なり、首を小刻みに振りながら笠の縁に手を当て軽く頭を下げて応えた。
「さあさあ積もる話は後にして、先に進みましょう」
キタがそう言うと夢泉丸は、待っていたのはこちらのほうです、と言わんばかりに黒目がちな両目をカッと開いて鼻を大きく鳴らした。そんな彼らのやりとりを眺めながら天一は、キタとスパイクもこんな感じだったなあとくすっと笑った。
四人を乗せた小舟は、いつもの夜平のギッギッという櫓の音とともに川を進んでいた。一漕ぎごとに川面を漂う霧は一層その濃さを増し、まるで水流に身を任せる木の葉のような小舟の行く手をあやふやにする。
だが、夜平のよどみなく迷いのない動きが、進むべき方向へと四人を確かに運んでおり、天一は霧のすきまから覗くその船頭の曲がった背中を頼もしく感じていた。
「テンイチ様、テンイチ様」
天一の後ろ、舟の後方に座っている夢泉丸が呼びかけた。「私はあなたに謝らなくてはいけません」
「え、なにを? ていうか、もうケガは大丈夫なの?」
天一は振り返ったが、ますます濃くなった霧が、手を伸ばせば届く距離にいるであろう夢泉丸の姿さえも隠している。
「はい、冥界に戻ればすぐに治りました。元々たいしたケガでもありませんでしたし……。私のことよりも、テンイチ様をあの小癪な奴から守れず、申し訳ございませんでした。キタさんをはじめとした皆さんに助け出されてようございました」
老成した話し方に合わない変声期前の子どものような夢泉丸の声が、霧の中で神妙に鳴り響く。謝罪された天一のほうが慌てて、謝らなくてもいいよ、と答えた。
「あの状況じゃあ防ぎようがない。急に攻撃されたんだし、夢泉丸も慣れない場所だったんだから」
「テンイチ様、お言葉ですがそれは違います。急に攻撃されることは予測していなければならないことです。同じ失敗は繰り返してはいけないのです。たとえどんな時や場所であったとしても……」
夢泉丸が少しむきになったような、強い口調で言い返した。
「テンイチ様のその甘さが、いつか守りたい誰かへの刃になるやもしれません」
最後の言葉の後、夢泉丸ははっと我に返ったように一拍の間を置き、それから静かに「申し訳ございません。出しゃばり過ぎました」と言った。
天一は夢泉丸が感情をあらわにした事自体に内心驚き、次に夢泉丸の言葉の意味について考えるためにしばらく黙っていた。夜平の漕ぐギッギッという音だけが、この世とあの世の蝶番を試すように規則正しく霧中に響く。
やがて、天一の横に座っていたキタが、ちょんちょんと毛むくじゃらの足で、卵を抱く天一の腕を叩いた。夢泉丸になにか言ってあげて、という意味だろうと天一は思った。
「そういえば夢泉丸、『足りないものは音をたてるが、満ち足りたものは静か』って言葉、届けてくれてありがとう。とても役に立ったよ」
「いえ、お役に立てて良かったです」
「あれ……、烏も言っていたんだ。すごく昔のことだけどね。烏の知り合いの誰かの言葉だって」
「……そうですか。あれにはもう少し続きがあります――『愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである』。古い友人の言葉だと、私も烏から聞いた覚えがあります」
「……そう、烏から聞いたんだね」天一が言う。
「はい」夢泉丸が簡潔に答える。
舟はよどみなく進んだ。やがて一陣の風が吹いて立ち込めた霧が晴れると、急に空は真っ赤に燃えたような夕暮れ時となり、年季の入った木造の桟橋が舟の少し先に現れた。
桟橋の上に等間隔で並ぶ灯りが、小舟に連れられた彼らを値踏みするかのようににらみつけており、天一は心の中でヨシッと気合を入れたのだった。




