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『誓約のそら―烏の飛翔編 第ニ部―』2-5

5


 例の少年と事なかれ主義者の使者たちを取り逃し、筒も無くなったとの報告をミマスから受けた時、ヒトトセはひとりで阿僧祇殿にいた。


 この地を創造の柱団の活動拠点にしようと決めたのは、この、後に「阿僧祇殿」とヒトトセ自らが名付けた重力の創造物の美しさに引き寄せられたことが大きい。

 どこまでも蒼くどこまでも静寂でどこまでも時が続く、だが同時に硬く閉じられ限られた、複数の渦巻状の模様がゆっくりと形を変え続ける世界には、選ばれた者だけが享受できる存在の価値そのものが表されている――少なくともヒトトセにはそう信じられた。


「予想よりも早い救出劇でしたね。彼とはもう少し話をしたかったのですが……。とはいえ、もちろん単に逃がしてあげた、だけではないですよね?」


 報告を受けたヒトトセの返答に、ミマスが答える。

「はい、もちろんでございます。弐夜フタヤがちょっとした仕掛けを忍ばせました。いつでも発動できるとのことです」

「ならば、よき時に始めてくれるように伝えておくれ。それこそが私たちの総意なのだから。私も追ってそちらに行きます」


 ミマスが大仰にお辞儀をし、去っていくのを眺めながら、ヒトトセはこれからしばらくはこの場に戻ってこられないだろうとぼんやり考えた。

 弐夜――あの元解終師を拾ったところからヒトトセの計画が具体的に動きだしたことは誰にも否めない。そう、自分とあの者が出会ったのは全宇宙の意思の導きによるものなのだと、ヒトトセは内なる己にまたもや言い聞かせていた。

 私にはなすべきことがある。なぜ私たちがあのみじめで欺瞞に満ちた愚かな地球の者たちを何度も何度も何度も繰り返し自分たちを犠牲にしてまでも助け続けなくてはいけないのか、長年の疑問を解き明かし、もはや形骸化した宇宙のバランスを崩すことこそが全宇宙の隠された真の望みであることを行動で示さなくてはいけない。そうだ、それが私たちの総意なのだから――ヒトトセは両手の拳をぐっと握りしめた。


 ヒトトセは阿僧祇殿を後にすると、暗く狭い入り組んだ通路を通り抜けて広場へと出た。

 ヒトトセがかつて多くの同志たちの前で演説をした広場には、今は数人の同志たちが大きな荷物を運んだり、または特に急いでいる様子もなく歩いていたりしていた。ヒトトセの姿に気づいた者は会釈をしていく。ヒトトセも口角を上げて会釈をする。

 ヒトトセは広場の中央を通って大階段にまで来ると、階段の下に広がる町の様子を眺め、三つの衛星の影がうっすらと映ったどこまでも広がる青い空に目を細めた。


「ヒトトセ様」小刻みに震える老女の声がした。「失礼ながら、握手をしていただいてもよろしいでしょうか」


 ヒトトセが声のする後ろを振り返ると、ヒトトセの半分ほどの身長の腰の曲がった女が顔を伏せるようにしてもじもじと立っていた。

 ヒトトセは優しく微笑むと、少しかがみこんだ姿勢でその老女のしなびた手を両手でそっと包み込んだ。そしてそのままの姿勢で、同志クリサリスよ、と話しかけた。


「私のことは、ヒトトセとだけ呼んでください。敬称はつけなくてよいのです。私たちはみな対等なのですから」


 老女は慌てたようにああ、とか、ええ、とか相槌を打つと、思い切ったように伏せていた顔を上げた。その顔にはところどころ細かなへこみがあり、それらのへこみとまぎれそうな小さく空ろな黒い目が五つ、ヒトトセの顔を間近でとらえようとしていた。

 ヒトトセはそれらの目を順に見つめながら、もう一度口角を上げて微笑むと、「これからもあなたの力が必要です、同志クリサリス」とささやいた。

 クリサリスは感動したように大きくうなずき返した。硬く収縮したような老女の顔に光が戻ったようだった。ヒトトセは彼女の手を(まるで突然離すと、老女の手だけが破裂してしまうかのように)そっと放すと、もう話は終わったという合図に別れの会釈をした。


 だが、同志クリサリスは、まだなにか話があるようにもじもじとした。それからどもった口調で、その腕の石は価値のあるものなのでしょうね、と言った。

 その質問に反応し、ヒトトセはローブの袖口から覗く石のついたブレスレットに目をやった。ヒトトセには見慣れた、深く澄んだ紫色の結晶体――ヒトトセはあえて袖をさらに上げて、老女にその石が良く見えるようにした。

「はい、とても価値のあるものです。私にとっては、という意味においてですが」

 老女は自分には理解できると伝えるように何度もうなずくと、それでは失礼いたしますと言って広場の横手にあるホールに向かって去っていった。


 ヒトトセは自身の腕にある石をじっと眺めた。あの日ヒトトセもまた、今は別の銀河の一部となった者たちと同じく無に帰するはずだった。直接的ではないにしろ、あの地球の軌道を保ち存続させるために。

 だがヒトトセは消滅を免れて、ありがたくも長の庇護の元で、元の記憶を保ったままの「ヒトトセ」として存在し続けることを許された――一体いつまで? もしまた「宇宙の均衡」とやらを守る必要が出てくれば、あいつらは迷わず地球以外の全てを犠牲にすることをいとわないだろう。たとえそれが自分自身であっても……。

 こんな不条理を永遠に続けるのは合理的ではない。道理に合わない。そう、道理に合わないのだ。おかしいと思うなら、声を上げ、声が届かないのなら分からせるように行動するしかない。そう、誰かがそれを先導しなくてはいけないのだ。それが私たちの総意なのだと、たとえこの身は宇宙の塵となり、全てを忘れ、また誰からも忘れられてしまっても、あいつらに分からせなくてはいけないのだ。


 気がつくと空には先ほどよりも濃く暗い青紫色に誰かが衝動的に切れ込みを入れたような光の矢が数本射しこんでおり、ひんやりとした風の触手が荒っぽくヒトトセの頬を撫で髪を乱していく。

 ヒトトセははっとして肩を震わせると、大切な約束を思い出したかのように足早に、老女が去ったのとは反対方向にある巨大な建造物へと向かっていった。

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