『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』26
26
柔らかく湿った何かが僕の頬をぺろぺろと舐めている感触を感じて、僕は目を覚ました。目の前には見慣れた小さな生き物――イーニーの鼻ずらがあった。
「みんなー、テンイチさんが起きました」
僕と目が合うと、うれしそうにイーニーが天に向かって叫んだ。
僕は上半身を起こして周りを見回した。僕が横たわっていたのは短くて柔らかい草の生えた地面で、少し離れたところには、夕暮れの日の光を映し出して黄金と青に染まる穏やかな水面が見えた。
「湖……」
「そうです、湖のほとりです。どこか痛みますか。ヒザはどうですか?」
キタがててててっと軽い足取りでやってきて、僕が起きているのを確認に来た。
「いや、大丈夫。どこもケガはしていないみたい。それよりもイーニーは大丈夫?」
「僕は大丈夫、まだ少しだけ背中が痛みますが大したことはないです」とイーニーが答えた。
僕はイーニーの頭を軽く撫でて、マイニーは? と訊いた。立ち上がり、マイニーを探したが姿がない。
「マイニーはまだ目覚めません。おそらく深い眠りに無理やり落とされているのです。あいつの力で」とキタが答える。
「深い眠り……。僕があいつに捕まった時も、たぶん強制的に眠らされたんだ。でも僕の場合は変な部屋の床に寝転がされていたところを自然に目覚めた」
「それはいつ目覚めても良いように、効力があらかじめ調整されていたのかもしれません。それとも効力には終わりがあるのか――そのあたりのことは残念ながら私には分からないのです。今はとりあえず、マイニーはあの草むらに寝かしています」
僕はキタが目線で示した、草がこんもりと生え茂っている場所に向かった。草をかき分けると、マイニーの黄色い毛が見え、そっと撫でると温かな体温が感じられた。
大丈夫、生きている。
「テンイチさん、我々は人間に対して使うような意味での『死』はありません。だからその点は心配無用です」とキタが僕を慰めるように言った。
「テンイチさんがまた捕まらなくて良かったのです」
「そうです、マイニーは必ず起きます。それにキタさんはお尻を射抜かれましたが、取ってしまえばこの通りピンピンしています」
「イーニー、それは言わない約束だったのに……」キタがイーニーに言い返す。
イーニーもキタもいつもと変わらない元気な口調で話していたが、(特にイーニーは)本当はマイニーのことで不安いっぱいなのが伝わってくる。
「ここは、僕の知っているところにそっくりだ」
僕はぐにゃりとしたマイニーの身体を注意深く腕に抱いて、何度も周囲を見回した。日はまだ沈んでおらず、雲の合間から柔らかな黄金色の輝きで僕たちを包み込んでいる。
「はい、ここは天一さんの記憶から再現した場所だから、ご存じなのは当然です。天一さんが『七星剣』で見た夢から抽出した、とも言い換えられますね」
「僕の夢の抽出?」キタの答えに戸惑いながら、僕は言葉を続けた。「どうしてあの塀と僕の夢や記憶が繋がっているの?」
「それはここが、天一さんと天一さんが許可する我々だけが入れるように巨門様が作られた『スパティウム』で、そういう強い結界を持つスパティウムを作るには、オーナーの記憶や夢の残骸から作るのが鉄則だからです」
キタが何を言っているのかチンプンカンプンだった。
僕は頭を整理しようとたどたどしく話した。「えっと、つまりこの空間――」
「スパティウム」イーニーが僕を助ける。
「――『スパティウム』は僕の記憶から作ったから、僕や僕の仲間というか友達しか入れないようになっている、ってことだよね」
「そうです、『友達』しか入れない、です」キタが同意する。
「それで、なんで巨門さんはあんな塀に、わざわざそんな出口というか入り口というか、ここへの逃げ道を仕込んだの?」
「あれは、あの世界で直接まやかしにとらわれた私たちにだけ見える、行き止まりの塀です。つまり、本当はあれは塀ではなくて、道を左右どちらかに進むように誘導するために見せられていた偽物なのです。出口自体は、少なくとも私には分かりやすい目星がついていたのだと思います。それを私が最初気づかずに壁を曲がって通過してしまって……」
またもやキタが、面目ない、という顔をしながら語り続けた。
「我々は天一さんを救出するために、我々が侵入すると同時に、あいつらに見つからないように、ちょっと遠回りだけど確実に脱出できる仕掛けをするように事前に計画しました。正攻法であいつらの結界を破って脱出するのはすごく厄介だと判断しましたので。それで、巨門様がスパティウムの入口を作るのに最適な箇所を探って、急いで作られたのです。私には分かるニオイをつけてくださったので、それを頼りにここまでたどり着いた訳です。もちろん、私があんな風に簡単に騙されるとは思っていなかったものですから……。それから、イーニーがミーニーの動きを感じるところによると、まもなく禄存様とミーニーもここに来るはずだそうです」
イーニーがその通りです、と言った。
キタの説明で少なくともここには敵が侵入できないという事だけは理解できたので、僕は地面に腰を下ろした。
イーニーは、ちょっと様子を見てきますと言って、跳ねるようにして湖のほうに行った。眠るマイニーを除いて、キタと僕は二人になった。
「キタ、僕はまだ色々聞きたいことがあるんだ。あのキタから出てきた青い光が『ミナミ』なの? 僕にはあの光の中に犬のような形が見えたんだけど」
「はい、あれがミナミです。『南の色白』です。ミナミは主に私がピンチの時に現れる『友達』です」
キタは「友達」という言葉を気に入ったようで、その部分を強調するようにはっきりと発音した。
「なるほど……。じゃあさ、キタは僕の頭のなかに、たぶん他の人には聞こえない声でメッセージを送ってきたけど、あんなことできるなんて教えてくれてたっけ」
「あれは、いざという時にだけ使う特技みたいなものです。いつもは必要がないのでやりません」
「どうして? あれ、便利じゃない? それともすごくがんばらないとできないようなことなの?」
「天一さん」
キタが無知な子どもをたしなめるように言った。
「日常はファンタジーじゃないんですから」
僕はキタの顔をじっと見たが、キタは少しも笑っていなかった。
「そんなことより天一さん、私はこれから大切なことを言います」
キタが口調を少し強めて、真剣な顔で僕の顔を正面から見つめた。
「今後一切、決して私や我々『仲間』や『友達』を守るために自分の身を危険にさらさないでください」
「それは――」
「マイニーはあなたを守りました。それはマイニーの役目だからです。そして我々もみんなその役目があります。ですから、反対のことをあなたにされて、結果的にあなたとあなたのお父様が危うくなったら、全ては『水の泡』になってしまうのです。それは非常に困ります。あなたには、自分も友達もすべてをうけおって守る力はまだありません。自分の力を過信しないでください」
キタの最後の言葉に、僕の胸はまるで尖った氷の柱が通過したように痛くひやりとした。
「……ごめんなさい」
「でも、ありがとうございました。おかげでミナミも久しぶりに本気出してました」
キタはそう言うと、そろそろ禄存様とミーニーが通ってきそうですね、とつぶやきながら、イーニーがいる湖のほうに歩いていった。
僕はキタの言葉とともに、スミヤマ君の、何かを守るためにはその価値に見合った力が必要だという言葉を思い出していた。僕は自分のふがいなさを思ってため息をついた。
立ち上がり湖に向かって歩いていると、いつの間にか湖面に人の姿が現れた。おそらくあれが禄存だと思い、僕は小走りで近づいていった。
湖面に立つ人物は、最初は逆光で真っ黒なシルエットしか認められなかった。が、近づくにつれて、青いジャンプスーツを着た女性だと分かった。肩あたりで切り揃えられたブロンドの髪が時おり風に揺れている。頭の上にはミーニーが乗っていた。
あれが禄存様です、とキタが僕に伝えた。
よく見ると、禄存は湖の水面上を歩いているようだった。ジャンプスーツと同じ青色のブーツで軽やかに水面を蹴りながらこちらの陸地へと進むと、そのままサクサクと砂地を歩き、僕の前まで来てにっこりとほほ笑んだ。完璧な角度で見える白い歯が、完璧なタイミングで光る。魅力的という形容がぴったりの人だと僕は思った。
「初めまして、天一君。無事に会えてよかった」
それから禄存は、キタとイーニーに向かって「ありがとう」と言い、僕の腕のなかのマイニーの頭を優しく撫でた。これまでの経緯やマイニーが眠っている事情は分かっているようだった。
「禄存様、例の筒はどうでしたか?」
キタが僕の心を読んだように訊いた。
禄存は光がこぼれるような微笑みをたたえながら、左手の人差し指にはめた大きな青く澄んだ石のついた指輪を軽くポンポンと叩いた。すると指輪の上部――おそらくその石の内部からむくむくと灰色の泡があふれ出し、見る間に例の黒い筒の形になって禄存の手に握られていた。
「ほらここに。ミーニーががんばってくれたおかげ」
禄存に褒められてミーニーがうれしそうな顔をした。「天一君」
禄存は、今度は僕の顔に視線を移して言った。
「早速だけど、君は次に、スパイクからあるものを受け取りにいかないといけないの。それがないとこれは本来の力を発揮できないから」
「それって、前にスパイクが直接僕に渡さないといけない、って言ってた物……。でも彼女は、まだ僕には渡せないって……」
「前は前、今はもう違うってこと。スパイクが今の天一君になら渡しても良いと判断したなら、それはそういうことなの」
僕は何か言おうとしたが言うべき言葉が見つからず、禄存はそんな間抜けな僕の顔を優しく微笑みながら眺めていた。それからまた話を続けた。
「私たちは先に七星剣の館に戻るから、天一君は後から来なさい。マイニーのことも館に戻ってからどうにかするから心配しないで。これは君だけの問題じゃないし、君がずっとマイニーに張りついていてもどうにもならないでしょ」
禄存の言うことはごもっともだった。さあ、スパイクさんのところへ行ってくださいと、キタが言った。
僕の手の小指の側面が、キラキラと細かな粒子の光を発し始める。時が来たのだ。
「このまま湖に入っていって、水面が太ももの高さになったら背中から水面に落ちなさい。そうすれば後はスパイクが導いてくれる」
僕は禄存にうなずくと、キタとイーニーとミーニーの顔を見て、それからマイニーを禄存に渡した。マイニーのわずかな重みと温もりが僕の身体から失われた。
次に進むしかないのだと僕は悟った。
次は館で会いましょう、と禄存が僕を促す。
僕は言われた通り、湖の中に入っていった。水は冷たかったが、ひどく冷えるほどでもなかった。僕は振り返ることなく、日の光に向かって水面が太ももの高さになるまで進んだ。
その時、キタの声が頭のなかで響いた。
――夢泉丸からの伝言です。『足りないものは音をたてるが、満ち足りたものは静か』だと……。
僕は振り返ることなく岸辺にいるであろうみんなに片手を上げてから、その手を下げ、背中から水面へと落ちていく。
最後に見えた空はいつか見た夕暮れと同じく、温かくて優しくて寂しい色をしていた。




