『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』23
23
このうす暗い牢屋のような部屋に放り出されてから、どれくらいの時間が経ったのだろう。片側の壁にはめ込まれたガラスの向こうには、誰かが見ているのだろうか。お父さんはまだあいつらに見つかっていないだろうか。あの筒を取り戻すにはどうすればよいのだろう。みんな、きっと僕のことを探しているだろうな。烏やキタなら、こういう時どうするだろう。彼らとどうにかして連絡を取れないだろうか。僕がここでできる事ってなんだろう……。
僕は同じことをぐるぐると何周も何周も考えていた。すでに何もないこの部屋の壁の隅々まで点検し、秘密の窓や扉、いや、ちょっとしたすきまやひび割れさえもないことは確認済みで、テレビや映画でよく見る取調室のような不自然な片面の鏡をたたいて、向こう側にいるかどうか分からないヤツにできるだけ抵抗の意思を見せたものの、何ひとつ状況は変わらなかった。僕はただのとらわれの身だ。
お腹はまったく空いていない。眠気もない。
僕は部屋の片隅に身を寄せると、壁の角に頭をもたせて宙を見上げた。
あの筒の使い方が分からない、とヒトトセは言っていた。とうことは、あれはあれだけでは完全体みたいなものではないのかもしれない。お父さんがわざわざ僕に託したということは、僕が持っている何かと一緒に使う……とか?
他にお父さんからもらった特別なものってなんだろう。毎年誕生日には、それなりに僕が欲しいものを買ってくれていたけれど、それは僕がリクエストしたものだから関係ないか……。
烏からはなにか受け取ってないだろうか。いや、烏からもらったものはない。烏からもらったものは物質ではないのだから。烏はきっと僕のためにあいつらにやられた……、あいつらに……。
なぜだか分からないが、鼻の奥がツーンとして、急に両目にじんわりと涙がにじみ出てきた。
そう言えば烏が死んで器が解終師たちに連れていかれた時もその後も、少しも涙は出なかった。だってあれから色々と訳の分からないことが連続して起こったのだから、悲しいという感情の実感がなく、泣く余裕もなかった。多分最後に泣いたのは、おばあちゃんまで逝ってしまった時かもしれない。
そうか、あれ以来の身近な死――烏は本当に僕の目の前で死んでしまったんだ。命の限りある生き物のように、僕が生きる世の法則に則って。
まさか、烏まで僕より先に世界からいなくなるとは思っていなかった。烏だけは違うと、そう勝手に思い込んでいたから、だからまだ本当に烏ともう会えないなんて到底信じられない……。
なんだよ、心が追いつかないよ、烏のバカやろう。
僕の右目から急激に涙があふれ、慌ててうつむくと涙のしずくがポロリと床に落ちた。涙が塊になってこぼれ落ちるなんて嘘っぽいな、となんだか他人事みたいに感じられる。
左目からもじんわり涙が浮いて視界がモヤモヤしていたので、僕は手の甲でゴシゴシと拭った。深呼吸してゆっくり一から十まで数えると、もう涙は出なくなった。泣いている場合じゃないぞ天一、考えろ考えろ考えろ。
僕はこのまま動かずにいるとさらなる感傷に浸りそうだったので、薄暗さに慣れた目でもう一度部屋の中を点検することにした。立ち上がり、存在自体が怪しい壁の鏡面をぺたぺたと触っていると、カサリと後ろで何かの気配がした。
「テンイチ!」
僕が驚いて振り向くと、小さな塊が僕の腕のなかへと飛び込んできた。
「マ、マイニー!?」
小虎三兄妹のなかでも一番のチビのマイニーが、薄暗がりでも分かるほどの満面の笑みで僕の腕のなかで見上げている。
「テンイチ、元気そう」
「え、そうかな。ってマイニー、どっからきたの?」
「えっとね、床の水のシミからです」
マイニーは、さっきまで僕が座っていた部屋の角のほうを見ながら言った。床に水ってあったっけ、と考えた僕は、それがさっきの涙のしずくの跡だと気づいて驚いた。あれは偶然なのだろうか、それとも……。
「あんなにちょびっとの水を通ってきたのかい? すごいねマイニー」
マイニーは得意げな顔をしてから、「テンイチ、ここから出よう」と言った。
「そうだね、だけどどうやって出よう。この鏡の向こうには誰かいるかもしれないしさ……」
それならすでにマイニーのことも見られたかもしれないと、鏡面に背を向けつつも僕は思った。
「大丈夫、向こう側にはイーニーとキタがいる」
マイニーがそう言うと、僕が立っているすぐそばの鏡の一部分が光を発し、なにかに共鳴する水面のように小刻みに震え、見る見る光のしぶきを上げだした。
それはまるで、見えない釣り人が水面下の魚を釣り上げようと格闘しているような、生き物が持つ生命と生命のぶつかり合いのような激しい動きを見せている。
僕はマイニーを胸に抱えたまま後ずさりし、その格闘のさまを眺めていた。すると、その鏡の水面の中央に渦が巻き始め、低い地鳴りと共にその渦が先端から向こう側へと一気に吸い込まれていき、後には大きな穴を残していった。
そして――穴の中から、こちら側をこっそり伺うような表情のキタが顔を出した。
「キタ!」
僕は嬉しくて叫んでしまった。
「天一さん。遅くなって申し訳ありません。この場所はなかなか分かりづらいところにあったものですから。ご無事でなによりです」とキタも嬉しそうな声で答え、「穴を通ってこちら側へどうぞ」と言った。
空いた穴を通って隣の部屋に移ると、そこは虹のように様々な色の光が交差する、天井の高い巨大なサーカスのテントのなかのようだった。天井からは不思議な星のシャンデリアがいくつもぶら下がり、柱には細かな光の粒がびっしりと張り付いて、リズミカルに点滅している。そしていつの時代のものなのかはよく分からないが、古ぼけた昔のおもちゃのような台やマシーン、奇妙な顔をした動物の彫像などが置かれていた。
「キタ、イーニー、マイニー、ここまでどうやってきたの?」
暗闇に慣れていた目に光のパレードが流れ込み、僕は少しクラクラしていた。
「はい、簡単に言いますと、夢泉丸さんのおかげです」とキタがてきぱきと説明しだした。
「夢泉丸さんが天一さんと引き離された時、ギリギリのところでアイツらの一人の気の一部を切り取ったのです。それを我々のところまで届けてくれたので、それを手掛かりにこの隠れ家を何とか見つけて、小虎たちと力を合わせて中にまで侵入できたという訳です」
「じゃあ夢泉丸は無事なんだね」
「はい、まあ冥界の使者が生者の世界で攻撃されたので勝手が違っていたこともあり、無傷とは言いませんが大丈夫です。なあに、死にはしません」とキタはなんともないように言った。
「……分かった。じゃあ次はどうする? 僕はこれからお父さんが隠していた筒をあいつらから取り戻さないといけないんだ。君たちも手伝ってくれる?」
「それならミーニーと禄存様がすでに探してます」と、イーニーが答えた。
「ろくぞん? それは……」と僕はキタのほうを向いて訊いた。
「はい、『七星剣』の主のひとりです」とキタが答える。そうだろうね、と僕は独り言ちた。
「じゃあ僕たちはこれからどうすれば?」
「筒のことはあの方たちに任せて、私たちはここから脱出します」とキタが言った。
「それなら君たちが通ってきた道を元にたどるのかい?」
「いえ、それはもう無理です」イーニーが残念そうに言った。
「往路しか作れなかったので、もう来た道は閉じているでしょう。ここの結界はなかなか強いのです。警戒心の塊なのです。ですが、中に入ったとたんにゆるゆるではあるんですけどね」
確かに見張りらしき者はひとりもいないようで、誰の声もこちらに来る足音もなく、わなが仕掛けられているような気配もない。
よほど誰も外部から侵入できない、というかそもそも人間の子どもが自力で脱出なんてできるはずがないと高を括っているのか。
「それじゃあ、どうする? 別の道を早く探さないと、さすがにそろそろアイツらの誰かが来るかもしれないよ」
僕は光に慣れてきた目で周辺を見回し、出口らしきものを探した。ヒトトセもだが、ミマスのニヤニヤ顔は二度と見たくない。
「はい、帰り道の目星はついていますので、ついてきてください」とキタが言い、「それから、天一さんは服についている帽子をしっかり被ってください。念のために」と続けた。
キタの言葉を聞いて、あらためて自分の服装をチェックした。スニーカーを含めて服一式、ここに連れてこられる以前のままで、スミヤマ君がくれたパーカーを取られなくて良かったとほっとしながら僕はフードを被った。
そして胸の前に抱えたままだったミーニーをフードのなかに入れると、マイニーはくるんと僕の首元にまきついて具合よく納まった。
僕たちはカラフルな光のなかを、音をできるだけ立てないようにしながら早足で通り過ぎ、ようやくテントの出口らしき部分――カーテンのような布のひだひだの切れ目――を見つけた。が、すぐ外でなにやらぼそぼそと話し声が聞こえる。
僕たちは急いでそばにあった大きなメリーゴーラウンドの後ろに隠れた。息を殺して様子を伺っていると、そのひだひだの切れ目から二人、なにやら話しながらテントに入ってきた。彼らがそのまま向こうに歩いて行くかと思い、僕たちは木造の馬のお尻の間からチラチラと眺めていた。
が、なんと彼らは立ち止まり、細い棒状のもの(僕の世界でいう電子タバコみたいなものだろうか)を口に加えてスパスパと吸い出したので、僕とキタとイーニーは思わず顔を見合わせた。
この時僕は、人生ってそんなに都合よくは進まないという日常の真理を思い出していた。




