『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』21
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気づけば雪は止んでいたが、今度は霧が僕たちの姿を隠すように漂い始めた。舟は霧の中を静かに進み、やがてそっと動きを止めた。着きました、と夢泉丸が僕の背後で言った。
夜平に礼を言って別れると、夢泉丸と僕は霧が漂う山道を歩き、坂を下っていった。夢泉丸は僕の手をもう握っていない。ただし、フードはまだ取って良いとも言わないので、僕はすっぽりと頭を覆ったままだった。
霧が晴れると、僕は見知った繁華街の路地に立っていた。早朝のようでほとんどの店のシャッターは降りており、記憶の中の賑わいはない。僕たちは人のいない閑散としたメイン通りに出ると、映画館に向かった。
自然と足が速まるが、夢泉丸は走るなとは言わない。そうか、ここは「僕の世界」だから走っても大丈夫なのだな、と僕は理解した。僕はフードがずれないように押さえながら、映画館へと走り出した。夢泉丸は走るというよりも滑るように移動して、ぴったりと僕の横についている。
途中、大学生くらいの数人の男女がシャッターの前でたむろしていたが、僕たちのことは見えていないのかちらりともこちらに視線を投げることはなかった。
目的の映画館に到着したが、まだ正面の扉は開いていなかった。夢泉丸のほうを見たが、彼は特になにかワザを使う訳でもなく、いかにも困ったなあというようにあごに手を当てていた。あちらの世界とは物理的なルールが違うのかもしれない。
「裏に回ってみよう」と僕は提案し、二人でその小さな映画館の裏側に向かった。
裏側には狭い物置のようなスペースがあり、サビた自転車やゴミ箱や脚立などが無造作に置かれていた。そして汚れたオフホワイトのボコボコした壁面には、そこだけ最近塗り替えられたかのように鮮やかな赤い鉄の扉があった。僕は周りに誰もいないのを確認してから、その扉の取っ手を掴んで押してみた。
あっけないほど簡単に扉は開き、その時になって僕は扉の内側に誰もいなくて良かったと心底思った。
扉の中は倉庫のようで、複数の棚の上には大小のなにかの機材や引き出し、段ボールなどが並んでいた。幸いにも天窓から降り注ぐ朝の光がぼんやりと周囲を照らしているので、電気をつける必要もない。僕と夢泉丸は棚や床に置かれた大きな荷物たちのあいだを静かに抜けると、開いた戸口から奥へと進んでいき、書類の置かれた机のある事務所っぽい部屋を抜けて廊下を出て、ついに例の劇場の入り口を見つけた。その劇場の扉にも鍵はかかっていない。
意外とすんなり入れたことに、僕は拍子抜けした。
僕は記憶を探り、夢の中でお父さんが座っていたと思しき座席にまで行った。そしてかがみこむと、座席の下を覗き込んだ。劇場内は非常口と通路に沿って点々と並ぶ灯りしかついていないため、暗くてよく見えない。手を伸ばして、座席の下側周辺をごそごそと探ったが、特になにもないようだ。
「もう一つ下の列かな」
僕は腰をかがめたままで、もうひとつ下の列の座席にまで移動し、同じように座席下に手を伸ばして周辺を探ってみる。と、背もたれ部分と座る部分の境目になにか硬い物が指先に触れた。
僕はさらに身をかがめてその硬いなにかを指先で掴むと、ぐっと力を入れて座席の下に引っ張り出した。その時、かぶったままだったパーカーのフードが頭から外れた。
が僕はかまわず、引っ張り出したその硬いなにかを掴んで立ち上がった。それは黒い筒のようなものだった。「ねえ、これなんだろう」と僕は通路に立つ夢泉丸に声をかけた――はずだったが、夢泉丸はいなかった。
「みいつけた」
代わりに、知らない声が劇場内に鳴り響いた。
暗闇の中、驚いて辺りを見まわすと、スクリーンの方向からゆっくりとなにかがこちらに向かって右手の通路を歩いてくるのを身体全体で感じた。僕はそれが何であろうと捕まる訳には行かないと思い、慌てて左手の通路に出ようとした。その時、なにかが僕の右肩を背後からぐっとつかんだ。
「もう隠れないでね」と、その背後のなにかが耳元でささやいた。
そのささやきが耳から身体に侵入すると全身に悪寒が走り、僕はこれまでに感じたことのない圧倒的な恐怖で硬直し息苦しくなった。自分の一部ではなくなったような僕の右手から、なにかがするりと筒を取る。恐怖で思考が停止した僕は身動きひとつできず、すんなりとそれを渡してしまった。
カンッという金属を叩いたような高い音の記憶を最後に、僕は意識を失った。




