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『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』20

20


 壁の向こう側は、雪の降る小さな町だった。誰の姿もなく、閑散とした町の狭い道の両脇には、家なのか店なのか、窓も含めた壁面がすべて木の板で覆われて中は見えなくなっている昔ながらの和風の瓦屋根の家屋が並んでいる。


「ここはどこ?」

 はらはらと舞い落ちる頭上の雪を避けるため、パーカーのフードを空いているほうの手で被りながら、僕は訊いた。


「ここはテンイチ様が渡る川のある場所です。冥界では、通常来る道はあっても戻る道はないのです。ですので、テンイチ様のように特別な事情で来られた生者は、それぞれに与えられた特別な川から戻るしかないのです。そしてテンイチ様に与えられた川が、この先にあります」


 夢泉丸と僕は雪の舞う中、狭い道を横並びで歩いていた。やはり誰一人、なにひとつ動くモノはない。黒いパーカーに落ちる雪の破片たちの一部はしんみりとその姿を透明に変え、一部はギリギリのところで白い姿をとどめる。

 僕たちはしばらくお互いに無言だったが、同じような景色が続くことに不安と少しの飽きを感じた僕が、さっきから感じていた疑問を先に口を開いた。


「あのさ、まさかとは思うけど――後ろを決して振り返ってはいけない、とか言わないよね」

「それはどういう意味でおっしゃっていますか?」夢泉丸が訊き返す。

「いや、だから……よく聞くお話のなかでは、冥界では後ろを振り返るとだいたい良くないことが起こるというか……」

「そうですね。結論を言いますと、決して振り返らないでください。そして、決して走らないでください」

「え、そうなの? やっぱりそうなの?」「はい、そしてもうひとつ――そのフードは私が『取って良い』と言うまで被ったままでいてください。そのほうが厄介ごとが起こりにくいのです」

「そうなんだ」僕がつぶやく。

「はい、そうなのです」夢泉丸が答える。


「じゃあさ、もうひとつ質問なんだけど――」僕は夢泉丸の手を少し強く握った。「もしかして、今、後ろに何か、いる?」


 夢泉丸はどう答えるべきか一瞬考えたようだったが、はっきりとした口調で言った。

「はい、ですので、決して振り返らず、決して走らないでください。走ると彼奴等に追いつかれます。歩いていれば追いつかれずに川まで行けます。川には迎えが来ていますので、その舟に乗れば後はただ静かに座っていてください」

「『彼奴等』ってさ、それって僕らにとって敵みたいなもの、なの? それならスミ……冥王に頼んでなんとかしてもらうとかできないのかな? だってここは彼の国なわけだし」

「テンイチ様」夢泉丸が、手と雪の冷たさに負けないほどの冷たい視線を僕に注ぎながら答えた。

「テンイチ様の世界には、こういう言葉があります――鷲は蝿をつかまえない」


 それだけ言うと、夢泉丸は黙って前を向いた。僕はそんな言葉は聞いたことがなかったが、その意味をしばらく考えた。それから、別のことも考えてみた。


 気持ちだけは焦るが、僕は夢泉丸の言う通り、歩く速度を早めないように敢えて「いちに、いちに」と心の中でリズムを刻んだ。夢泉丸がずっと僕の手を離さないのも、きっと僕の歩く速度が速まらないように用心してのことだろう。走るな、振り返るな、フードを外すな。これが僕に課された冥界三原則だ。


 延々に続きそうだった狭い道にもようやく終わりが訪れ、僕たちの前に雪がうっすら積もった朱色の小さな木造の橋がかかる小さな川が現れた。そして向こう岸の橋のたもとには、覚えのある小さな舟と人影がすでに僕たちが来るのを待ちわびているように佇んでいた。

「橋を渡ってしまえば、もう彼奴等のことは気にしなくても結構です。とはいえ、余計なことはせずに、すぐにあの舟に乗ってください」


 まるで僕が余計なことをしそうとばかりの口調で、夢泉丸が言った。子どもじゃないんだから、と一言言い返したかったが、僕は先刻から続く寒さと背後から感じる重苦しい空気に気持ちが落ち込んできていたこともあり、結局なにも言わずに深く息を吐いた。寒さの割には息は白くならなかった。


 僕たちは手をつないだまま、橋に足を踏み入れようとした。その時、「忘れ物ないね。傘ちゃんと差して。気をつけてね」という女の人の声が背後からかすかに聞こえた。その声が別のことを伝えようとしているように思えて、僕は思わず振り返りそうになった。が、夢泉丸がぎゅっと手を握って僕の名前をこれまでになく優しく呼んだ。テンイチ……。


 その響きの余韻のなかに、雪にあまり似つかわしくない花の香りが微かにした。


 僕は走らず、振り返らずに橋を渡り切った。そして夢泉丸の指示通り、余計なことはせずにおとなしく舟に乗り込むと、頭の傘に雪を飾った船頭――やはり夜平だった――が黙って舟をこぎ出した。


 舟が橋のたもとから離れる際に、僕は橋の向こう側をちらりと見たが、すでに暗闇に包まれて何も判別できず、あの女性の声がどこから生まれてどこに消えていったのか謎のままだった。

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