『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』2
マンション前の道路まで出ると、十才くらいの男の子がひとり、なにをするともなく立っていて、通路から出てきた僕の顔をじっと見てきた。さっきお父さんらしき大人といた子だった。
「おはようございます」と、その子が確実に僕に向かって言った。近所の子どもと話したことはないのでドキッとしたが、「……おはようございます」と、僕もきちんと返した。
「カラス?」とその子が会話を続けてきた。「カラスかなあ、さっきの声」
僕はまだ頭の調子が万全ではなかったので、どう答えれば良いのか迷ってしまった。そこで、「うん、そだねえ」などと適当な相槌を打ってみた。多分、そうみたいだね。
その子は僕の目から視線を外さずに一瞬考えると、「さっき倒れてたね」と言った。こいつ、踏み込んできたな、と僕は思った。
「倒れてた? ああ、えっと、そうかな」
「あの先で倒れてたよ、横向きに」通路の闇の奥を指さしながら、その子が言った。
「……そうかもしれないけど、もう大丈夫です」
この子には、烏の言葉は聞こえないし解終師の姿も見えていないはずだ。そう、この世界のルールでは動物は人間語を話さないし、この世あらざるものも存在しない――ことになっている。僕だって本来ルールは守る人間なんだ、本来は。
僕は行き場のない感情を抱えて早く家に戻りたかったので、そこで会話を切り上げてマンションの入り口に向かった。とにかく頭を整理したかった。だが、その子の会話はまだ続いていた。「連れていかれたんだね」
僕は振り返り、少年を見つめた。大きなどんぐり眼が僕の目を射抜いた。「オレ、見ていたんだ、ここから」
僕は何も答えず、絶対に振り向かないことに決めてマンションの入り口に向かって歩き、正面ドアを開けて入っていった。少年の視線を背中で感じていたが、絶対に振り向いてはいけないと頭のなかで反芻しながら。これ以上の面倒は別の日にしてほしかった。
自分の家に戻ると、とりあえず冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、コップに注いで一気飲みした。それからソファに倒れ込んで、さっきまでの出来事を思い返した。烏がやられて、僕はこれから追われる。ただし属星が守ってくれる、らしい。それから……。
「のんきなものですね」クスクス笑いを含んだ、子どもの声がした。飛び起きると、目の前にさっきの少年がいた。
「なんで、いるの」僕は間の抜けた声で間の抜けた質問をした。
少年は聞こえなかったかのように室内をウロウロしだした。カーテンを開けて外を伺い、また閉めた。クンクンと二回鼻を鳴らして室内のニオイを確認し、台所に行って冷蔵庫を開けてあまり入っていない在庫をチェックした。そして中段奥にあったコーヒーゼリーを取り出し、躊躇なく蓋を取るとゴミ箱に入れた。洗った食器を置くトレイに立てられたスプーンをもう一度軽く洗ってから、ダイニングテーブルのイスに座って、こちらを見た。僕はソファから立ち上がっていた。
「いただきますね」少年が言った。「賞味期限、今日までなので」
少年は、クリームのかかったコーヒーゼリーをスプーンですくって食べだした。特に美味しいとも何とも言わず、どちらかといえば、性質の異なる液体を混ぜたビーカー内の変化を確認する、生真面目な研究者のような表情だった。
「あのさ、えっと、どうして君が僕の家にいるのかな」僕は年上らしく、冷静沈着なふりをしながら、低いトーンで話しかけた。まだ頭が正常じゃないのだろうか、と、少し自分自身を信じ切れていなかったが、それでは話が進まないと判断したのだ。「ここは僕の家で、君とは一緒に帰ってきてないよね」
少年はコーヒーゼリーの最後のかけらを口に運ぶと、スプーンを空いた器に入れてテーブルの上に置いた。カタンという小さな、でも部屋中に良く響く音をたててスプーンが器ともども倒れた。数秒間見つめ合った後、少年が口を開いた。「――烏のこと、残念です」
その顔には、何の感情も浮かんでいなかった。光の加減で、群青っぽい黒い瞳の奥が怪しげに揺れていた。
僕はソファの脇に突っ立ったまま、烏の言葉を思い出していた。「君、子どもじゃないね」
「あなたはまだ、子どもですか。十七歳でしたっけ。こちらでいう『高校生』に分類されるんですよね」少年が、あなたのことは分かってますよ、という顔で言う。
「君は、さっきの子どもじゃないよね。さっき外で僕と話した男の子のことだよ」
「ああ、そういうことですか」少年は少し驚いたようだった。そっちの意味ね、という感じに。「あなたにとって一番新しい記憶の人間になってみました。小回りも利きますしね」わざとらしく肩をすくめて、少年は無邪気そうに微笑んだ。こういう顔もできますよ、と見せてくれている訳だ。
「君は、誰」僕は少年から目を離さないようにしながら、ゆっくりと後ずさりした。後方の部屋を通って玄関に続く廊下に抜けることができるからだ。なんにせよ、不用意にこいつに近づくべきでないことだけは感じていた。
少年は立ち上がると、テーブル越しに僕の全身を眺めた。内臓の位置まで確認されているようで、胃がムズムズした。
「天一さん……あ、天一さんってお呼びしますね」少年はテーブル越しのまま、話し出した。「天一さんは属星をご存じですか。烏が教えているかとは思いますが」
この場合、知っていると言ったほうが良いのか、知らないと答えたほうが良いのか、全く判断ができなかった。烏、厄介なことになってきたぞ――とぼやきたくなったが、烏のせいでないことはいくらなんでも分かっていた。
「ゾクショウ……、北斗七星の七つの星が、生まれ年それぞれの守護星になっている、とかなんとか。えっと、子年が貪狼星で、丑と亥年が巨門星で、寅と戌年が禄存星で……」
「まあ、正解です。おおまかですがご存じでよかった。近頃の人間は知らないのが当たり前ですからね、話が早い」少年は続けた。「では、あなたの属星はなんでしょうか」
「それは……」
その時、窓ガラスを突き破って侵入した硬質の黒い物体が、僕と少年の間に転がったのが視界に入った。とその瞬間、おそらくテーブルを乗り越えてきた少年は、僕の腕を取って、無言で廊下へと引っ張った。子どもの力ではなかった。状況は全く呑み込めていなかったが、勢いに押されて僕は無意識に少年に続いていた。僕たちが玄関ドアから外へ出る時、後ろを振り返ると、僕たちがいたリビングには白い煙がもうもうと立ち込めていて、廊下まで迫ってきているのが見えた。
少年がチッと舌打ちするのが聞こえて、僕の意識は真っ白な光の中で途絶えた。