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『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』17

17


 スニーカーを脱ぐこと自体すこし躊躇したが、結局脱いで家にあがると、僕はそれほど長くない廊下を進んだ。誰に指示されたのでもないが、廊下の奥の「みんなの部屋」に向かっていた。廊下を一歩一歩ゆっくりと歩きながら、記憶のなかの家と全く変わらないことに驚き、それからこれは僕の記憶の中の家なのだと気づいた。だから僕の身長があれから随分伸びたにもかかわらず、見える景色は同じ……、いや違う。


 僕は立ち止まり、自分の両手両足や胴体を見て、両手で自分の顔を触り、それから肩に掛けているリュックの大きさがさっきよりも少し大きく感じることに気づいた。身体が縮んでいるのだ――おそらくこの家で最後に過ごした十一、二歳の頃の身体になっている。着ている服は身体に合わせて小さくなったようで、なかなか都合よくできているようだ、この世界のルールは。


 僕は心の中で「良しっ」と気合を入れてから、「みんなの部屋」に向かった。見慣れたクリーム色の壁、濃い茶色の板張りの廊下――懐かしいがどこかなにかが違うような気もする。どこが違うのだろう。空気の色だろうか?


 廊下から「みんなの部屋」に続く引き戸は開かれていた。僕は廊下と部屋の境界でしばし立ち止まってから、当たり前のように右足を前に出して部屋へと入っていく。この部屋で色々なことがあったが、今は僕だけ。僕だけが生きていて、現実にはこの部屋そのものが存在しなくなっているというのに……。


「お先にいただいているよ。ひと仕事終えたばかりでね」


 食卓の正面に、少年が座っていた。彼の前には僕の家のお客様用のティーカップとティーポット、そしてクッキーが並べられた大皿が置かれている。僕はその少年を見て、全身の毛が逆立つような、全身の皮膚がしびれるような、奇妙な防衛本能のようなものを身体に感じた。


「ひどいなテンイチ、私のことを忘れたのかい」

 僕の沈黙に対して、少年が天使の笑顔で言った。


「――スミヤマ君」

 僕はその名前を絞り出すようにして声に出した。


 目の前で優雅にティーカップを口もとに運ぶ少年は、たしかにあの小学生のスミヤマ君の姿かたちだった。しかし、当然だがここは僕の現実の世界ではないし、この家ももちろん現実のものではない。僕の姿も子どもの頃に戻っている。ということは、この目の前のスミヤマ君も、スミヤマ君の姿をしているだけであって、あのスミヤマ君本人であるとは限らない。いや、本人でない確率のほうが高くて、これは僕の記憶のなかの人物の姿を投影した……


「君、相変わらずめんどくさい人だね。とりあえず座ったらどうだい、自分の家だと思ってくつろいで」

 スミヤマ君もどきの少年が言った。皮肉の混じった口調だが、あのスミヤマ君のように有無を言わせない力があった。僕は彼の前にあるイスに座った。


「また会えたね、テンイチ」スミヤマ君はあの頃と変わらない、上の者が下の者に優しく親しみを込めてなだめるように言った。「ここまで無事に来られて良かった。忙しいとは思ったんだが、この辺で一度、君と話がしたくなったものだからね。テンイチにもお茶を」


 最後の言葉とともに、僕の目の前にティーカップとティーポットが現れた。ティーカップにはすでに紅茶が注がれており、温かみのある香りが僕を落ち着かせようとおだやかに僕の鼻こうに侵入する。僕はスミヤマ君に言葉を続けるように、彼の目をじっと見つめた。彼も僕の目をじっと見つめてから、ふふっと鼻で笑った。


「これまでの君に起こったことは、知っている。君のお父さんについても、もちろん以前から知っている。君に会うずっとずっと前からね。異法者の内部のゴタゴタも把握してはいたが、少し甘く見過ぎていたのは認めよう。まさか烏からとはね」


 烏の名前を出して、こちらの動揺を誘っているのだろうか。僕は腹に力を込めて、スミヤマ君に向き直った。「ということは、スミ……あなたは異法者側ではないってこと?」


「もちろん。私は誰の側でもない。まあ、あえて言うなら、宇宙の均衡について私も長い間気を配ってはいるから、そういう意味では君の属星やそのお仲間たちの側、とでも考えてくれていい。双子の坊やたちやスパイクのことも良く知っている。安心したまえ、彼らはみんな元気にしているよ、今のところはね」


 スミヤマ君も僕も見た目は小学生のままだったが、スミヤマ君の話し方はずっと老成した者のそれだった。


「テンイチ、ここがどういう世界か、察しの良い君ならもう分かっているだろう。おそらく川を渡った時点で気づいていたようだがね」

「……あなたは、ここの王様?」


「王様、か」

 スミヤマ君はふっと本物の子どものような顔で笑った。

「そうだな、王様だ。私は冥界の王、冥王と呼ばれている。だが『スミヤマ君』と呼んでくれても構わない。そのように名乗ったのは私だからね。それからテンイチ、ここの食べ物を食べても君はスパイクの元に帰れる。だから安心して食べなさい。まったく、スパイクも私を全く信用していないようだ。ほら、君に印をつけているだろ」


 スミヤマ君はそう言うと、自分の右手をあげて小指を突き出し、外側の側面を僕に見せた。僕は怪訝に思いながら、同じように自分の右手の小指の側面を見た。最初は何も見えなかったが、じっと目を凝らしていると、細かなキラキラとした星の輝きが肌の内側から浮き上がって見えるようになった。


「それはスパイクが君に付けた印だ。君が元いた場所、彼女のいる場所に戻れるように。それにしても、君は随分あのスパイクに気に入られたみたいだね」


 あの時だ。スパイクの小指と僕の小指が触れたような気がした、あの時に付けたのだ。僕は、微妙な光の加減で浮き上がっては消える光の渦に視線を落としたまま、「どうして分かったんだろう」とつぶやいた。


「君がここに連れてこられると? 私がテンイチと話したがると先読みしたかったんだろう。まあそんなことは大したことではない。それよりも、私は君に会わせたいものがいたんだ」

「会わせたいもの? それは……」

「君はそれを期待していただろ、この冥界に足を踏み入れた時点で。とはいえ、君が会いたいもの全員を呼ぶ訳にもいかない。それは君の問題だからね」


 そう言うとスミヤマ君はイスから立ち上がった。「歩きながら話そう、テンイチ」


 一瞬にして「みんなの部屋」にあった懐かしいものたちは消えてしまい、僕は細かな砂以外になにもない、星々と月の輝く砂漠の夜空の下にいた――さっきまではダイニングテーブルのセットだったイスに座ったままで。


「靴は履いたほうが良い。それから、そこに入っている服も着たまえ」と、スミヤマ君が言った。

 服? 服って……。戸惑いつつも、僕はイスの背に掛けていたリュックを手に取った。夢泉丸の助言どおり、たしかに玄関から再び戻れるかどうかは分からないと思って、リュックにスニーカーを放り込んで持ち歩くことにしたのだ。スニーカーを取り出そうとリュックに手を突っ込むと、覚えのない服が入っている。

 引っ張り出すと、それは何の変哲もない無地の黒いパーカーだった。


 パーカーを羽織りスニーカーを両足に履いて立ち上がると、僕が座っていたイスは元々砂でできていたようにハラハラと崩れ落ち、地面の砂の一部になって消えてしまった。

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