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『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』13

13


「……だから、結局のところヒッグス場の海から彼らは自らの意思で自己を解放することができないってこと……」

 ドアのすきまから、初めて聞く少しハスキーな女性の声が漏れ聞こえる。


 僕は横たわっていたベッドから立ち上がると、床に揃えて置かれたスニーカーを無意識に履いてドアを開ける。僕と同じくらいの年齢の、淡い水色の髪をベリーショートにした女性がこちらを向く。右目は濃淡のある紫色、左目は柔らかな黄金色。ふくらはぎまで紐を結んだサンダル姿。彼女の足元には、おなじみの小虎三兄妹が転がっている。キタの姿はない――これが今の僕を取り巻く状況だ。


「おはよう、もう熱は下がったみたいだね」

 その女性が無表情のままで言った。青白い顔色、少し目尻の垂れた異なる色の大きな瞳に細い鼻梁、薄い三日月のような唇。身長は僕よりも少し低いが、膝丈のパンツから伸びる脚を含め全体的に小枝のようにひょろ長く、その背中にはケレリスのような大きな白い翼が折りたたまれていた。


「あの、僕、熱があったんですかね」

 僕は戸惑いながら、一歩部屋に踏み入った。イーニーたちが口々に歓声を挙げながらうれしそうに僕の足元に飛んできて、ぴょんぴょんと跳ねている。

 ピーピー叫ぶマイニーを抱き上げると、僕の肩に乗って頭を僕の頬にすりつけながら、「テンイチさん、熱がすごくあって大変だったんだよ~」とのんきな口調で言った。


「そう、一時的にね」小虎たちの言葉にその女性が答え、続けて「私、スパイク。君のことはテンイチって呼んでいいよね。よろしくテンイチ」と挨拶をしてきた。


 部屋全体の壁は白く、床は落ち着いたグレーの板の間で現代的な印象だった。植物か動物かの模様が編み込まれたラグが敷かれたスペースには小ぶりの長方形のテーブルを挟んで籐のスツールとクッションの置かれた三人掛けのカウチソファ、奥にはシンプルだが機能性が高そうな白いシステムキッチンがある。ガラスの仕切りの向こう側には青い自転車が置かれており、自転車脇の扉を開ければそのまま外に出られるようだ。


「キタなら外の温室にいると思う。ケレリスは一人で休んでいるから邪魔しないほうがいいよ」


 スパイクはやつぎばやに僕の無言の疑問に答えると、コップにキッチンの蛇口から水を注いで僕に手渡した。僕はお礼を言ってその水を飲んだ。冷たくて新鮮な水の甘さが感じられた。


「キタのところに行きたいんだけど、いい……ですか?」

「もちろん。ここから外に出て、まっすぐ歩いていけばガラス張りの温室がある。すぐに分かるから一人でいってごらんなさい」


 スパイクは、一方の壁にはめ込まれた大きなガラスの一部になっているドアを開けた。ガラス戸の向こう側は庭になっており、僕の目が明るさにまだ慣れていないからか、天からの光が植物たちの緑や花々の色を中和して白っぽく見せていた。

 金銀兄弟の森のように植物が自由に生い茂っているというよりは、自然にまかせつつもよく手入れされている印象だ。


 スパイクと小虎三兄妹を残して、僕は一人でふらふらと歩きだした。両足の付け根にうまく力が入らないのでおかしいなあと思ったが、ケレリスから振り落とされないように異様に力を込めていたことを思い出し苦笑した。熱まで出すとは情けない。


 あの後、金銀兄弟はどうなったのだろう。あいつらとひどい戦いをしたのだろうか。まさか金銀のどちらかがやられたなんてことは……、などと不吉な想像をしながら言われた通りまっすぐ歩いていると、目線の少し横手に巨大なガラス張りの建物が現れた。これが例の温室だろう。


 温室に近づいて入り口を探しながら、ガラスに映る自分の姿を見てようやく僕は、自分が見慣れない茶色のチェック柄のパジャマ姿なことに気づいた。なんだか入院中の病人みたいで、パッとしない顔つきだ。

 そういえばこの旅が始まってから、僕は色んな初めての場所で「寝て起きて食べて」を繰り返している――お父さんもちゃんと寝て起きて食べてを繰り返しているのだろうか。誰か信頼できる仲間と一緒にいるのだろうか……。


「天一さん、熱は下がったみたいですね。良かった。スパイクさんのお薬が効いたみたいで」


 前方に懐かしいキタの姿があった。どうやらキタがいるところの横手に温室の出入口があるようだ。なんだか久しぶりにキタの姿を目にすることができ、僕は妙に安心感をおぼえながらキタに手を振り近づいた。

「うん、もう大丈夫だよ。彼女――スパイクがキタは温室にいるって言ったから来てみたんだ。ここで何してたの? ひとり?」


「ひとりなのはひとりなのですが、少し話をしていました」キタはどのように説明すればよいのか考えあぐねている感じで、首をかしげながら答えた。

「あちらの家の中で話しても良かったのですが、なんとなくここのほうが静かで集中しやすかったので」「話? 誰と……七剣星さんたち、とか?」


「はい、この場所ではスパイクさんのお力を借りて、スムーズに他の星へと交信することができますので。傍受返しも効いています」


 僕には計り知れない能力がキタたちにはあるのだろう。もはや何も驚かないと思いつつも、やっぱり僕にはよく分からないことが当然のことのようにキタの口から出てくると、そのたびに僕は赤ん坊のようにこの世界の新しい知識を吸収するしかない。


「あのさ、金銀兄弟はあの後どうなったのか、なにか知ってる?」

 スパイクの家と同じく、ガラス張りの壁の一部が開かれた出入口になっており、キタと僕は話を続けながらそこから温室の中へと入っていった。中は外から見た印象以上に天井が高く美しいアーチを描き、対照的に地面には整然と直線的に整備され白いタイルの敷かれた道が縦横に走り、その通路の両脇には想像を超えた巨大な樹木たちがのびのびと自分たちのテリトリーを確保しながら、小さな僕たちを快くわが家へと迎え入れてくれた。


「あの後のことはまだ分かっていません。ですが、金銀兄弟なら無事なはずです」

 キタにしては珍しく、少し言いよどんだような気がした。内心キタも不安なのかもしれない。


「そうなんだ……、イーニーたちに様子を見にいってもらうのは?」

「それが今はイーニーたちの通路も塞がれているのです。おそらくそれは金銀兄弟がやったのでしょう、向こう側の何者かが悪用しないように……。結界の適応範囲を印によって区別するのは余分なエネルギーを使うので、とりあえず全通路を塞いだ、という意味です」

「印で区別……。じゃあさ、なんであの敵の兄弟は金さんと一緒に入ってこられたの? つまり、異法者たちにはあそこに入れる印がない、ってことでしょ?」


「まず、元々あの下品な兄弟は異法者の仲間でないのです。おそらく最近になって、金銀兄弟と因縁があり、かつ腕っぷしもそれなりなので、異法者の中の反乱分子に雇われたのではないでしょうか。だから、あいつらは異法者としての印は持っていませんので、第一の結界を通り抜けられたのかもしれません。プラス、あいつらは金さん銀さんの身体の組織の一部をなにか持っているのかもしれません。そうすると、金さんが入る時と同時にうまく侵入できなくもないですし……」


 キタにも断言できないことがあるようで、少し間を空けてからキタは困ったように言葉を繋げた。

「全ては推測ですが、総合的に侵入しやすい傭兵になると踏んで、異法者はあいつらを選んだとも言えます」


 僕は、最後に一瞬垣間見えた金銀兄弟の後ろ姿を思い浮かべた――大丈夫、彼らなら絶対に大丈夫。根拠なんてクソくらえだ。


「分かった。じゃあ彼らが無事かどうかは、連絡を待つしかないってことだね。他になにか分かったこととかは? お父さんについてはどうなの?」


 僕たちは道に沿ってぶらぶらと歩きながら話を続けた。ときおり大きな南国風の葉が僕の顔や腕に当たりそうになるが、それ以外はなにも思考を妨げるものはなく静かで、確かに何かと集中できそうな空間だ。


「天一さんのお父さんのことも、まだ新しいことは分かっていません。奴らに見つかっていないのだけは確かですが、できるだけ早く我々のほうが先に見つけてさしあげなければ、いつまでも不安定な場所で隠れている訳にもいかないでしょう」


「あのさ」僕たちは、様々な形態の小さな多肉植物が群がる一角で立ち止まった。

「不思議に思っていたんだけど、お父さんは最初から七星剣に逃げることはできなかったの? それか、文曲が僕の家に迎えに来たみたいに、誰かがお父さんを迎えに行くとか……」

「それができれば良かったのですが、相手の動きのほうが早くて、天一さんを迎えに行くのが精いっぱいだったんです。それに、天一さんのお父さんはご自分の身を隠すよりも先にやるべきことがあったのです」

「やるべきこと?」

 僕はしゃがみ込んで、その身には不釣り合いなほど大きな白い花を咲かせる多肉植物のひとつを見つめた。すぐ横にはキタの鼻づらがあり、ふんふんという鼻息が僕の耳元をくすぐっている。

「カギの保管場所に行ってカギを別の場所に移動させる、とか? でもそんなことをしたら、それこそカギがあいつらに見つかってしまいそうだな」

「はい、おそらく別の目的があったのかと。無駄な動きはしない方ですので」

「……お父さんとも交信できれば良いのにな」


 烏さんがいなくなったので――そうキタはつぶやくと、僕に背を向けて別の多肉植物のニオイを嗅ぎ出した。霜かフェルトで覆われたような、くすんだ白く厚みのある葉が四方八方に、まるでたくさんの手がバンザイをしているようにニョキニョキと生えている。キタにつられて僕もその植物をじっと見ていると、その葉一枚一枚が小虎たちのしっぽに見えてきて頭のなかがにぎやかになり、思わずクスっと笑ってしまった。


「どうしましたか?」キタが不思議そうに訊いた。

「いや、なんでもない。なんだかこの植物って、見る角度によって色んな形に見えてくるなあ、って。ほら、こっちから見たらこの辺り、龍が天に昇ろうとしてるみたい。葉っぱの白い毛も角度によっては銀色に光って見えるし、面白いね」

「そうですね。生きとし生けるものはその内に複数の形や色を持っているものですからね。天一さんは植物にご興味ありますか?」

「いや、実はあんまり。別に全くの無関心って意味じゃないよ。でもキレイだなって思うことはあるけど、花の名前とか全然知らない」

「ですが天一さん、ラベンダーはお好きなようですね。ほら、貪狼様のところで見事なラベンダー畑の情景が。あれは天一さんが作り出した世界の一片みたいなものです。私はとても美しいと思いました」

「ああ、それは……お母さんが好きだったんだ、ラベンダー。花自体もだけど、香りがね。 お母さん、働いていたデイケアセンターで、そこのみんながリラックスできるようにラベンダーの香りを使ったりしてたんだ。いつかラベンダー畑に行ってみたいって写真を見せてくれたことあるから、そのイメージが頭の中に残ってたのかも」


 僕は立ち上がると、天井を仰いだ。大きな弧を描くガラスの天井からは、朝露の薄いヴェールをかけたようなみずみずしく柔らかな光が降り注いでいた。


「ねえキタ、僕は次はどうすればよいの? 結局金さんからは新しい情報を聞くことができなかったし……どうすればお父さんとカギを守ることに繋がるのか、僕には見当もつかない……」

 天井の向こう側に透けて見える光の一点を見つめながら僕はつぶやいた。


「私がポルックスーー金と会っていたの。だから君は今ここにいる」

 抑揚のない乾いた女性の声が突如響いた。


 慌てて声のするほうを振り向くと、足の長い翼の生えたショートカットの女の子が音もなくこちらへと歩いてくる。スパイクだ。血色のない顔の中でキラキラと変則的な輝きを放つ紫と黄金の瞳が、僕をまっすぐに見ている。どうも、と僕は間の抜けた声であいさつをした。彼女は僕たちの前まで来ると、キタのほうに目線を落とした。


「交信はできた?」スパイクが訊いた。

「ええ、ちゃんとできました。ありがとうございます」キタはしっぽを軽く振りながら答えた。「残念ながら大きな進展はないようですが」


 仕方ないね、と言ってスパイクは肩をすくめ、僕をちらりと見た。折りたたまれた翼の羽が両肩に当たってカサカサと小さな音を立てる。なにか別のささやき声のように、意味ありげに。僕は何も言えず、異なる色を湛える二つの瞳から視線をそらした。


 スパイクが踵を返して歩き出したのを合図に、僕とキタも後について歩き出した。スパイクは温室内の植物の様子をチェックしているようで、度々葉っぱを軽く手に持って色艶の確認をしたり、腰をかがめて土を触ったりした。僕は彼女に訊きたいことがあったが、一度声をかけた時に「後で」とだけ返されたので、おとなしく従うことにした。なんといってもここは彼女の世界なのだから、彼女のルールを把握するところから始めよう――少なくともほぼ初対面の現段階では。


 しばらくして僕たち三人は温室から出ると、最初のガラス戸の家にまで戻った。光の反射でこちらからガラス越しに部屋の様子は見えなかったが、開いた戸のすきまから小虎三兄妹の顔が次々と現れ、口々に「おかえりなさい」といかにも楽しげに叫び出す。


 確かにキタの言う通り、温室のほうが集中するには良い場所のようだった。

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