『誓約のそら―烏の飛翔編 第一部―』1
序文
欠けている足りないものは音を立てるが、満ち足りたものは全く静かである。愚者は半ば水を盛った水瓶のようであり、賢者は水の満ちた湖のようである。
――『ブッダのことば:スッタニパータ』
今朝、烏が死んだ。僕は烏の最期の言葉を聞き、三日後は皆既月食だと知った。
ガラス戸から覗く空の青さに誘われて、自宅マンションのリビングに面したベランダにひとり、僕はたたずんでいた。久しぶりの晴天、午前七時半過ぎ。初夏というにはまだ少し肌寒い春の残った風がなれなれしく朝の挨拶をしてくるので、僕は両腕をめいっぱい頭上に伸ばし、そのちょっとした冷たさを目覚めの気持ち良さに変えていた。学校のない週末のゆるやかな時間が流れる。何をしていても誰になにを言われることもないひとりだけの時間だ。
僕がいる五階のベランダからは、マンション前の道に向かって右方向、数メートル先の車や人通りが割と多い大通りが見え、その道路を挟んで向かい側を占める公園の入り口もまた、木々の葉の間から見え隠れしている。その公園の巨木たちの葉の緑が朝の光を受け、空の青さを引き立てるように――同時に、自分たちの生命力が地中からてっぺんの葉の先端まで巡らすさまをちっぽけな僕らに見せつけるように――絶妙な色のコントラストを作り出していた。
解放感のある穏やかで気持ちの良い、まさに週末らしい朝だった。世界は何も変わらず時を進ませ、小鳥たちはご機嫌に挨拶を交わし、初老の男性と初老の犬は行儀よく横断歩道で信号待ちをしている。爽やかで健全で平凡な朝の風景だった。きっと明日もこんな朝が来ると、信じる信じないの問題さえないくらいによくある朝。
そこに突然、まさに恐竜のプテラノドンのようなすさまじい叫び声が、天から僕のいる地上へと降ってきた。しかも複数の重なり合う声で。
地獄の地響きを思わせるこの世の終わりの始まりを知らせる叫び声に、僕だけではなく向かい側のマンション前をたまたま歩いていた通行人の中年女性もギョッと首をすくめた。さらには、僕のマンションの左隣の家から、住人の男性と小学生の子どもまで何事かとキョロキョロしながら訝しげに表へと出てきたくらいだった。
僕たち四人が叫び声の正体を探していると、またもや激しい叫び声とともに、黒い大きな塊がわずかに弧を描きながら、空から僕の目の前を通り過ぎて地面へと猛烈な勢いで突進していった。
カラス、カラスだ。カラスが三羽、いびつで大きな一つの隕石のように落ちていったのだ。
カラス三羽の大きな黒い塊は、それぞれの羽ばたきによって形を変えながらも、地面の上をゴロゴロと転がり、僕のマンションの左手にある、奥の駐輪場に繋がる通路へと入っていった。その間も例の壮絶な叫び声はやむことがなかった。
僕は大急ぎでベランダから部屋のなかに戻り、網戸もガラス戸も開けたままで玄関に駆け込むと、履き古したスニーカーに足を突っ込んで外に飛び出した。心臓はバクバクと高ぶり、手足全体にじわじわとしびれを感じ、呼吸が浅く小刻みになっている。身体が勝手に動き、気づけばエレベーターの「閉」ボタンを無我夢中で連打していた。
エレベーターが一階のロビーに着くと、扉がゆっくりと開くのももどかしく、僕はマンションの正面ドアから通りへとまさに飛び出した。
通りにはもう誰もいなかった。あの耳をつんざくような声もなく、辺りは平和を取り戻していた。
僕は足音を立てないように注意しながら、左手の通路に入っていった。コンクリートとレンガ塀で囲まれたそこは、空気が一段と冷たく、青みを帯びた暗さを感じさせる場所だった。そして通路の少し先には、黒い塊が無造作にぽつんと落ちていた。
僕は周りをさっと見回してから、ゆっくりと塊に向かって歩いて行った。塊は塊のまま、動く気配はなかった。だが、目が暗さに慣れてきたのと、塊との距離が縮むにつれて、僕はあることに気づいた。というよりも、予感は当たっていたというべきか。
「……烏、なの」
僕は黒い塊のすぐそばまで行き、膝をついて烏の顔を覗き込んだ。両目とも閉じているが、それはやっぱり「烏」だった。呼び名のとおり彼は鳥類のカラスの姿をした、他人には秘密の僕の片割れみたいな存在だ。
「テ……ンイ……チ……」
うっすらと片目を開けて、烏がしゃべった。正確には、僕の脳に直接、電磁波のような目に見えない怪しいものが送られて、それが僕の脳のウェルニッケ中枢に働いて、僕が理解できる言葉として変換されて――ということはどうでも良い――烏の声はとぎれとぎれで、息をするのも苦しそうだったが、震えるまぶたをまさに必死に開けて僕の目をしっかりと見つめた。
「どうした、何があった。カラスらにやられたのか」僕は声の上ずりを抑えようとしたが、心臓のバクバクがどうにもならない。烏の胸の辺りの羽には、血がべったりとついていた。これがカラスの血の濡れ羽色かと、一瞬余計な考えが頭をよぎった。
「聞け、テンイチ」烏の声に力がこもった。「お前はこれから追われることになる」
「え、やだよ。誰に」
「……大丈夫、属星たちが守ってくれる。テンイチ、行け、家に帰れ……」
烏はくちばしを開けて大きく一呼吸するとブルっと震え、そのままの形で動きが止まった。瞳の奥の灯が手のひらの雪の一片のように溶けて消えていくのを、僕は混乱のなか見つめていた。烏、逝くのが早すぎるよ。
肌の深部を刺すような冷気が、烏の身体を求めて周囲の壁から立ち上った。首筋にふいに氷を押し当てられたような冷たさと、脳の中心部に細い針を刺されているような妙な四肢の痺れに襲われ、僕はたまらずその場で崩れて腰を地面についた。烏の肉体は目の前に横たわっていた。
烏が動かなくなってから数十秒程度だろうか、僕から見て正面の壁と通路の突き当りの壁から、暗闇が立ち上ってきた。それはぐにょぐにょと雲のように捉えどころなく形を変えて人型の輪郭を作り出し、いつしか実体のある人型に変わっていた。正面の壁と突き当たりの壁、それぞれから一人ずつ出てきて合計二人――と思ったが、すぐに気づいた。いや、違う。気配からして僕の後ろにもうひとり、いると。
そいつらは白い頭巾をすっぽりと被り、顔の前には白い布を垂らしていた。お寺のお坊さんのような衣装を着ているが、なぜかゆらゆらと炎のように揺らめいて見えたので、色や柄までははっきりと思いだせない。いや、実際に起こったことなのかどうかも、今もって自信がないくらいなのだ。
とにかく、そいつらは僕のことなど全く見えていないように烏に近づいてきた。僕の後ろから来たひとりも、僕の真後ろにいるのを感じた。向かって左手のひとりが、片手で空中になにかの形を切り、ごにょごにょとつぶやいた。それに続き、残りの二人も同じように(真後ろにいるヤツの動きも分かった)手を動かすと、つぶやきを重ねていった。そのつぶやきの輪唱はどんどんと反響し、その反響の渦に飲み込まれた僕の頭はどんどんと重くなり、まるで遊園地のコーヒーカップに乗っている時のように目の前が横方向に回転を始め、頭蓋骨から脳みそだけが持っていかれるかのような妙な感覚に襲われて、僕はたまらず左側を下にして、頭を守るように腕をつきながら地面に完全に倒れこんだ。
烏の肉体が、視界に入っていた。細かな傷の重なりでくすんで見えるくちばしがわずかに開いていて、なにか言いたげに見えた。だから烏、逝くのが早すぎるってば……。
白頭巾のやつらは僕になんかまったく興味がないようで、完全に僕を無視したままで輪唱をし続けていた。するとまもなく、烏の肉体がふるふると機械仕掛けの人形のように小刻みに震えだし、ふいに浮き上がった。僕はなんとか全身に力を入れて上体を持ち上げ、烏の動きを目で追った。
もうすでに誰もいなかった。
烏の魂がどうなったのかは知らないが、少なくともあの最後の肉体は、これまで一度もこの世に存在しなかったかのように白頭巾のやつら――おそらくあれが烏が以前言っていた「解終師」――に処理されたのだ。烏が昔まとっていた人間の肉体と同じように。
僕はゆっくりと立ち上がると、なにか残っていないかと周囲を見回した。だか、特に異変はなく、何もおかしなことなど一生ただ一度も未来永劫起こらないような、平凡で冷たいコンクリートの地面とレンガ壁があるだけだった。