慟哭
夕暮れ時の少し冷たい風が俺の目を覚まさせた。どうやら病室の椅子で眠りこけてしまっていたらしい。
「─────ううっ、寒っ」
寝ぼけ眼でベッドへ目をやるとブレアの姿がそこにない。一瞬にして覚醒する意識。
誰かがまたブレアを連れ去ったのかもしれないという焦りが迫ってきた時、不意にカーテンがはためく音がして、窓辺の方を俺は見た。
窓から吹き込む風にカーテンと共に蒼みがかった長い髪がはためいていた。
「ブレア!目が覚め────おい、そんなところで何を……」
シーツを身体に巻き付けたブレアは窓のへりに片脚を掛け、今にも外へ飛び出そうかという格好だった。そして俺と目が合ったにも関わらず、彼女は俯いて目を逸らした。
「ブレア?」
彼女はこちらを一瞥して、また窓の外へ視線を移す。
「ま、待ってくれ、何処に行こうとしているんだ!」
ブレアは俺の言葉に耳を貸さず、ついに両脚を窓のへりに掛ける。
彼女が目を覚ましたことは素直に嬉しかったけれど、どこか様子がおかしい。ここが何処なのかわからなくて混乱するのはわかるが、窓からこの部屋を出ようとするのは彼女らしくない。何より俺の存在を認めてなお、その行動が変わらない理由がわからない。
これではまるで俺から逃げているようにしか─────
「ここは王都の病院だよブレア、安全な場所だ」
ブレアは窓へ脚を掛けたまま変わらずずっと窓の外を見据えて、まるで耳が聴こえていないのではないかと思ってしまう程に俺の言葉に対して無反応だった。
どうしてたった今こんなことを言ってしまうのかは自分でもわからない。でも、気づいてしまった以上止まることは出来なかった。
「─────す、好きなんだ!!ブレア、君のことが!!」
俺の人生で初の試み。聞くに耐えない不細工な告白。別に受け入れてもらえなくてもいい、とにかくたった今俺の前から居なくならないでくれという一心だった。
ブレアはピタリと動きを止め、もう一度ゆっくりこちらに向き直った。瞳からわっと大きな滴が溢れて頬を伝って流れていくのを見守って俺は彼女の言葉を待っていた。
「私も……大好きです、ショウ様」涙声でブレアは答え、そしてすぐさま窓の外へ飛び出して行った。
返答の意味を理解し歓喜が湧き上がるよりも、紡がれた言葉と相反する行動に俺の脳は正常な思考が不可能になるほど混乱した。
「ばっ馬鹿野郎、三階だぞここはっ!!」急いで窓に駆け寄って下を覗き込む。
階下を見下ろすとシーツを被ったブレアは怪我も追わずに着地を成功させたらしく、もう既にどこかへ走り始めようとしているところだった。
「く、クソっ!」
ブレアは拗ねて周囲にご機嫌を取ってもらうような女ではないし、この行動は中高生の家出のような誰かの気を引くためのものでもない。だとしたら一体何が彼女をそうさせるのか俺には全く心当たりがなかった。
俺は彼女の後を追って、そのまま衝動的に窓から階下へ飛び降りる。着地した瞬間、衝撃を吸収しきれぬ膝が嫌な音を立てて砕けた。
「あ……がっ……ぐ……り、リワインド!」
時魔法により修復した脚で立ち上がり、がむしゃらにブレアが去っていった方向へ俺も走る。
走れど走れど、白いシーツを巻き付けたブレアの姿は小さくなってゆくばかり。やっぱり俺は遅すぎる。脚も、大切なものに気がつくのも何もかもが遅すぎた。
やがてブレアの背中はもう見えなくなってしまった。
「な゛ッ……なんで……ッ!!なんでそんな哀しい顔するんだよブレアあぁ!!」人目もはばからず俺はその場に座り込んで泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて、子供みたいに喚き散らした。もう取りこぼさないと誓ったはずだったのに、彼女はまたどこかへ行ってしまう。何故何も言ってくれないんだ、ブレア。
俺はこの世界へ新たに生を受け、自由に生きると誓った。前世で俺の退屈を塗りつぶしてくれたウイスキーを作ることに没頭しようと思った。けれど幸運なことに今世では気が置けない仲間が出来たことが嬉しかった。
酷い気分だ。酒で塗りつぶす余白は思ったよりも広くなくなったはずなのに、心の真ん中に大きな余白が、あるいは穴が空いてしまったみたいな気分だった。
きっといい気になっていたんだと思う。これじゃ死ぬ前と何にも変わらない、やっぱり俺は不自由だ────
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ブレアが病室から逃げ出した日、俺は一晩中血眼になって王都を探し回ったが目撃証言すら得られなかった。
疲れ果てて十字聖堂の客室へ戻った頃には夜が明けていて、窓から外を覗くと人も疎らな街並みに霜が降りて白く色づき、陽光に照らされてきらきらと無数に光っている。そんな美しい景色とは対照的に俺の胸中にはどす黒くて粘性のある澱が絡み付いて離れなかった。
「─────起きろ」童女の声に俺は目を覚ます。
「うぅ……あんたか…………ブレアが病室から逃げた……」と俺は告げた。
「もうそれは皆に既に周知されている。貴様に会わせる人がいる、すぐに支度をしろ」とキャメロンは俺に命じた。
眠ったと言っても、二ないし三時間程度で、疲れは取れるどころか体調は更に酷くなっていた。俺は重たい身体を起こし、最低限の身支度を整えてからキャメロンと共に転移した。
転移先は今までに訪れたことのある場所ではなかった。
木造建築の小さな家屋で、煉瓦造りの暖炉の前に置かれた安楽椅子に髪が真っ白な老齢の女性が腰をかけて本を読んでいる。
「あなたは?ここは一体……」一歩前へ出ると床が軋んだ。
「無礼者っ!それ以上近づくな」とキャメロンは厳しく俺を制止した。
「こらこらキャメロン、そんなに怒鳴りつけては可愛いお顔が台無しですよ」と老齢の女性はキャメロンを窘める。
「わ、私は別に……可愛くなんて……」彼女らしくない、いじらしい反応だった。
今まで見たことが無いキャメロンの反応に戸惑っていると、老齢の女性は「あなたがショウね」と俺に問いかけてきた。
「は、はい、そうです」
「話は聞いてるわ。私はシャーロット、よろしくね。頭でっかちの弟達に色々と訊かれて大変だったわね」と彼女は微笑んだ。
「弟達……?」
「中央議会で偉そうにしてた年寄りが二人いなかったかしら?」
「もしかして議長をしていた方と、その隣の……」
「多分そうよ、どっちが議長を務めていたかはわからないけれどね。私はその二人の姉。世間じゃ私達姉弟のこと"三賢"なんて大仰な名前で呼んでるけど、要はただの口煩い御意見番よ……ふふふ」シャーロットは穏やかに笑った。
トラッド議会最高位の称号は"三賢"と呼ばれていることをカリラから聞いたことがあった。まさか全員と相見えることになるとは思いもよらない。
「ショウ、もっとこっちへ来てよく顔を見せて」と言ってシャーロットは手招きした。
キャメロンの顔色を伺いつつ俺はシャーロットに近づいた。するとシャーロットは安楽椅子から重たそうに腰を上げ、俺の顔をじっと見つめた。
骨と皮ばかりの手で彼女は俺の頬に触れて「哀しい目ね……でも挫けちゃだめよ」と言った。
見透かされたようなことを言われたからか、それともシャーロットが醸し出す母や祖母のような雰囲気に心を許してしまったのか、いつの間にか俺は涙を流していた。酷く懐かしい気持ちになった。
「あらあら、大丈夫よ」シャーロットは背中に腕を回し、俺を抱き寄せてくれた。
それから俺はこんなにもか弱くてやせ細った老人に体重を預けて、嗚咽混じりになって泣いた。その間、何も言わずに俺の背中を痩せた手が幾度も優しく摩ってくれていた。
俺が落ち着きを取り戻した頃合を見てシャーロットは再び口を開く。
「さ、熱い抱擁も済んだところで、あなたをここへ呼びつけた理由を話さなくっちゃいけないわね────」