78℃の情熱
姉妹はサルが練成した単式蒸留器を挟むようにして立ち、目下の窪みに向けて両手をかざした。すると真紅のいくつもの小さな光が窪みへ集まり、やがて赤熱の光を放つ球を作り出した。
「熱っ!」俺は熱波の強さに思わずたじろいだ。
「私達は熱に多少なりとも耐性がありますので大丈夫ですが、みなさまはあまり近くに寄ると火傷するかもしれませんので、お気をつけください」とブレアは警告した。
このままでは蒸し焼きになってしまいそうなので、残った三名で窓やドアを解放した。
全員が固唾を飲んで見守る中、やがて蒸留器は内部にいくつもの小さな音を反響させ始めた。
「ああっ!」思わず俺は螺旋を描く蒸溜器の垂れ口を指さした。
それは清潔なガラス瓶の内側に記念すべき一滴が落ちた瞬間だった。
「ほう、これが蒸留というものか。あれだけ白濁としていたものがこんなに澄んだ雫になるんじゃな」
「しまった、忘れていた!二人とも、火力を調節して蒸留器の内部が今と同じ位の温度に保つように出来るか!?」と俺は姉妹に訊ねた。
「え~っ!温度計ないの!?」
「すまない、失念していたよ……これは一旦巻き戻して────」
「その必要はねェ。アソール、てめェから見て反時計回りに九十度立ち位置を変えてみろ」とサルは俺を遮って告げた。
「─────あ。あった、あったよ、ショウさん!」
「は?もう既に温度計が取り付けられているのか?」
「うん、なんか立派なのが付いてるよ!それで、何℃に保つの?」
「サル、お前……」
「へ……何を呆けていやがる、蒸留の仕組みはてめェが俺に教えたンじャねェか」勝ち誇ったようにサルは口角を釣り上げた。
サルは俺が語ったことを覚えていた。蒸留によってアルコール分が濃縮される仕組みと、その工程には温度管理が必須であることを。
今蒸留器の内側で温められている醪はアルコール度数が数%の液体。ここからアルコール分だけを蒸発させて取り出すためには、水とアルコールの沸点の差を利用する必要がある。
「─────七十八℃だ、二人ともなるべくその温度を保ってくれ!」
水の沸点は百℃であるのに対し、アルコールの沸点は七十八℃。容器内側をこの温度に保つことによってアルコール分を多く含んだ蒸気のみを取り出すことが出来る。
「アソール、こちらからは温度計が見えません。音頭をとってください!」
「おっけー!じゃあ、お姉ちゃん、もうちょっと力をおさえて!」
「はいっ」
それからアソールの号令に合わせて二人三脚で火力を調節し、蒸留は続けられた。
俺が彼女の肩口の向こうに見える温度計の挙動を見る限り、温度制御は思いの外精密に行われているように見えた。さすがは竜人、炎の魔法に関しての信頼度が違う。
こうしてほとんど全ての液体が蒸発して垂れ口から排出されるまで蒸留は続けられ、計十二本のガラス瓶が無色透明な液体で満たされた。粗熱がとれたことを確認し、最初に満たされた瓶に入っている液体をスプーンですくい上げ、持ってきたグラスに迎え入れた。
「少し味見してみよう」俺はグラスに口をつけ、舐めるように少しだけ液体を口に含んだ。
前面に出るアルコールの刺激と香り。遅れて微かに麦の甘みを舌の横腹が感じ取った。だがしかし、まだまだ薄く、水っぽい。
それから俺は八本全てのガラス瓶に入った液体を順番に試飲していった。
「─────使えるのは四本だけだな。残りのにも確かに香りは残っているが、成分的には殆ど水に近い」
終えて分かったことは、全十二本のうち後半の八本は殆どアルコールが含有されていないということだった。アルコールの方が先に蒸発していくのだから当然と言えば当然の結果だ。
この八本は温度管理によってアルコール分がほとんど蒸発してしまったあと、垂れ口から出てきた水分ということで、次に同じ条件で蒸留する場合はこの部分の蒸留を行う必要は無いことを意味している。こういった条件出しの積み重ねによって洗練された製法の輪郭が見えてくる。
この時点でアルコール分を含んだ四本はおそらく度数にして二十数%程度であり、このまま樽詰めすることは出来ない。つまりここから更に蒸留をする必要がある。醪から一度蒸留したものを"初留液"、その初留液をさらにもう一度蒸留したものを"原酒"と呼ぶ。
「今の蒸留で濃縮されたこの四本をもう一度空の蒸留器に入れて蒸留する。アソール、ブレア、まだいけるか?」
「まだまだ魔法力には余裕があります。いざとなればショウ様のお力で魔法力さえ戻していただければ」とブレアは返事をしてくれた。
こうして蒸留器に少しだけ残った液体を取り除き、初留によって得た四本の初留液を全て投入して、同じように加熱を続ける。
「─────うん、かなり濃い」出来上がった原酒を一口味わって俺は頷いた。
先程よりも荒々しく棘のあるアルコールの刺激。そして、鼻に抜ける麦の香味と舌に残る微かな甘みも感じられる。
樽詰めされる前の原酒はアルコール度数でいうと六十%ほどにもなる。完成品のウイスキーとは違い、樽から与えられる芳醇な香りが無い分、殊更にアルコールの風味が主張してしまっている状態だ。
「飲んでみるか?」
「飲む飲むーっ!」真っ先に名乗り出たのは、好奇心旺盛な妹だった。
「ほら、少しだけにした方がいいぞ」俺はもうひとさじ原酒をすくってグラスをアソールに手渡した。
一口原酒を口に含み、苦悶の表情でそれを喉奥へ押しやったあと「うげえっ、なんだこれっ!?」と彼女は声を上げた。
「はははは、きついだろう」
「ねえショウさん、ウイスキーってこんななの?」アソールは訝しげに俺を見た。
「いいや、こいつはまだ殆ど味がついていない状態なんだ。これから樽で寝かせると豊かな風味が出てくる」
厳密に言えば幾分かの風味はある。ただしアルコールのネガティブな香りを感じにくくなる後天的な味覚を獲得していない者にとっては刺激だけが際立ち、奥の甘みや余韻を楽しむことが出来ない場合がある。
「わ、私も」遅れてブレアも名乗りを上げ、それに残りの二名も続いた。
「─────こりャ確かにきついなァ」原酒を口にしたサルは顔を歪めた。
「喉が焼けそうじゃな……」
「これがウイスキーの前身……失礼ですが、樽に詰めておくだけで本当にこれが美味しくなるのでしょうか?」とブレアは心配そうな顔をした。
「ああ、きっと驚くよ」
「これだけ集めて、お酒として使えるのはそんなに僅かなのですね……」
四本あった初留液はさらに蒸留濃縮され、一本半ほどの量に昇華されていた。
「そういえば龍酒の造り手の方が、雨の日に北の塔へ龍の姿で大きな瓶を運んで行くのをたまに目にしていたのですが、村へ戻ってくる時は決まって人の姿で、いくつかの小さな壺を荷車に乗せていました。龍酒もこうして磨き抜かれて作られていたのでしょうか……?」とブレアは訊ねた。
「シマキさんか。たった一人でどうやってあんな大掛かりな酒作りをしているのかと思ったら、そんな風にやっていたのか。蒸留器の形は違うけれど、龍酒も同じ仕組みで作られているからブレアの言う通りだと思うよ」
"磨き抜かれた"とは凄くいい表現だと思った。大質量の中から不純物や雑味を取り除いて、極わずかな量の凝縮液を生み出す。さあ、これから最後の仕上げだ。