旗揚げ
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─────ウイスキーは時間の贈り物だ。
例えば地球の蒸溜所で十二年もののウイスキーを完成させるために樽へ原酒を詰める作業をする者は、その樽の行方を知らないだろう。この十二年の間に新人だった者はベテランに、ベテランだった者は若い芽をじっくり育てているはずだ。そうした技術と想いの継承を経て十二年後、樽を開けるのは自分の弟子にあたる人物かもしれない。そんなつもりで祈るような気持ちで樽へウイスキーの幼生を委ねるに違いない。
様々な製造条件で何度も何度も試行錯誤を繰り返し、その成否が判明するのは十数年後。そんな途方もない冒険の繰り返しが受け継がれ理想のウイスキーの輪郭をゆっくりと形作っていく。
俺はこれからその尊い螺旋を冒涜する。
「始めるぞ」そう言って俺は麦汁の入った樽の封を切った。
部屋中に発酵由来の甘酸っぱい香りが広がる。そして、十分発酵の進んだ干しぶどう由来の酵母を俺は流し入れた。
「ここも端折るンだろ?」とサル。
「もちろんだ」
粘性を持った白濁液を俺はじっと見据え、ゆっかりと時間を加速させた。
酵母は樽内の糖分を食べ、その排泄物としてアルコールと炭酸ガスを生み出し、部屋の雰囲気に漂う香りが変化し始めた。
「ほう、何やら泡立ち始めたぞ」カリラは興味深そうに樽の内側を見つめている。
甘ったるい香りと酸味に加え、アルコールの香りを含んだ空気が漂う。液面からは白い泡が綿毛のようにもこもこと隆起してきていた。
「よし、とりあえずこれで醪になっただろう。正直どれくらいの時間発酵させたらいいかわからないが、ここからは試行回数の問題だ」
麦芽を発酵させアルコールと炭酸ガスを多分に含む状態になったものを醪と呼ぶ。
通常は三日程度発酵させると聞いた事があるが、それはウイスキー製造のためにより抜かれた素材を使用してのこと。ここにおいては原材料も酵母も未知であるため適切な時間はまだ誰にも分からない。完成品の出来栄えを味わって、スイートスポットを探す必要がある。
「さてと、じゃあ見せてもらおうか。もう設計図は頭に入っているんだろ?」
サルは俺の言葉に何も答えず行動に移した。研究室の床にたった一箇所だけ作られた小さなすり鉢状の窪みに向かって彼が手をかざすと、脇に置かれていた銅製の調理器具や食器達がドロドロに変形して、まるで液体みたいに流動的に集まり始めた。
それらはやがて窪みを跨ぐように六つの丈夫な脚を作り出し、その中心に形作られた容器はくびれた瓢箪型をしていた。そしてその上部から伸びた管は緩やかな傾斜を保ちながらバネのように螺旋を描いて垂れ口を足元へと運んでいた。
「……正直なところ自信はねェ」似つかわしくない言葉が彼の口から紡がれた。
サルが作り出した蒸留器は一人暮らし用の冷蔵庫くらいのサイズで、蒸留器としては非常に小型な部類だった。今ここにある醪の質量と、調達することが出来た銅の質量を考えればこの辺りが妥当であり、限界でもあるだろう。
「………いや、素晴らしいよ。サル」俺は滑らかに精錬された銅製の単式蒸留器を舐めまわすように見て言った。
普通、蒸留器は幾つかのパーツに分かれて作られ、それらを全て繋ぎ合わせて成り立つ。一方、今俺の瞳に写っているこいつは全くの繋ぎ目なしだ。
「ほう、なかなか立派なもんじゃの。それで、この瓢箪にどうやって醪とやらを注ぐんじゃ?」
確かにカリラの言う通りこの蒸留器は完全に一塊の銅で出来ているためにどこにも注ぎ口になるような場所は見当たらなかった。
「ンなもンはどうとでもなる」
サルが手をかざすと、単式蒸留器の横っ腹に掌大の穴がぽっかりと開いた。
「なるほど、彫金魔法で注ぎ口を任意の場所に作って、塞ぐことが出来るわけか。これほど内側の気密性が高い蒸留の仕組みはお前にしか実現できないよ、サル」と俺はアイアイみたいな顔をした男に称賛を送った。
「さァ、注いでくれよ大将」いつもは目の前の事象を眉一つ動かさず見つめる冷静さを持つサルだったが、これから目の前で起こることにはやる気持ちを抑えきれない様子だった。
俺が静かに頷いてカリラの方へ目くばせをすると、醪の入った樽は念動魔力によって空中へと浮かび、単式蒸留器の横っ腹にぽっかりと開いた穴に向かってゆっくりと傾けられた。
容器の中に液体が流れる音と炭酸ガスが弾ける発泡の音が反響し、先ほどよりも強烈で芳醇な香りが部屋に漏れ出す。甘味噌みたいなもったりとした空気が鼻孔にこびりつく気がした。
やがて醪の入った樽は空になり、蒸留器の注ぎ口は閉じられた。あとはこの垂口から無色透明の原酒が流れてくるのを待つばかりだ。
「おい、ところでこいつをどうやって火にかけンだ?」
「ほほ、何をわかりきったことを。目に浮かぶわい」呆れた顔でカリラは言った。
「カリラさんが察しの通り助っ人は呼んである、そろそろ来る頃だ」そう言って俺は垂口の真下にガラス瓶を置いた。
「─────あれっ、なんか全然前と違う!!」引き戸が開き、髪を結わえた女が入ってきて言った。
「あら、みなさまお揃いで。お邪魔いたします」そう言って姉の方も敷居をまたいだ。
「ケッ……やっぱりそういうことかよ」
ウイスキーの蒸留に必要な温度は千℃に及ぶこともある。これだけの熱量を薪などの燃料で安定して供給するというのは何十年も研鑽を積んだ職人ならまだしも、ド素人には少々現実的ではない。そこで竜人の姉妹に御足労頂いたわけだ。
「二人とも、こんな時間にごめんな」
「ショウ様、これが仰っていた『ジョーリューキ』というものですか?」
「ああそうだ。これからこの大きなヤカンを君らの火炎で温めてもらいたいんだ」
「樽の次はヤカンかあ、よくわかんないけどお安い御用ですよっ。ね?お姉ちゃん」
「ええ、もちろんです。出来上がったお酒を早く味わいたいですから」
「度々悪いな。その前に、ここに居る四人に一つ提案があるんだ」
「なんじゃ?」
「俺はこれから途方もない時間かけてひとつの酒を造っていくつもりなんだが、今もこうして皆の力を借りてじゃなければ一人じゃ何もできやしない。もし……もしよかったら俺がこれから歩む道に付き合ってはくれないだろうか。つまり、その、ゆくゆくは俺が起こす会社の従業員になって欲しいんだ」
唐突な申し出に暫しの沈黙が訪れた。
「─────クックク……会社と来たか」サルはにやりと笑った。
「あの……『カイシャ』というのは何でしょうか?」ブレアは子供みたいなあどけない表情でこちらを見つめた。
「あ、ああ、会社と言うのはつまり一つの目標に向かってみんなで仕事をして、儲けが出たらみんなで分配する集まりのことだよ。同志みたいなものかな」と俺は咄嗟に説明した。
竜人社会は人口が少ないために会社というだけの規模の概念が無いのだろう。
「同志……ですか。でしたらもう私はショウ様の『カイシャ』に入っているのかと思うのですが…」照れながらブレアは言った。
「あはっ、よくわかんないけどいーよ!楽しそーだしっ」とアソール。
「俺ァ、あの趣味の悪い闘技場から這い出た時に決めてる。テメェがどんな悪党になったって手を貸してやるよ」他所を向いてサルは言った。
「わしも、と言いたいところなのじゃが…わしはあの小僧、自警団長に少なからず恩義を感じとる。食い扶持を与えてくれたからのう。でもそれはお前さん達にも同じじゃ。掛け持ちになるから会社には入れんが、勤務時間外であればいつでも力を貸すぞ」とカリラは語った。
「みんな、ありがとう」涙が出そうだった。
俺はウイスキーを金儲けや名声のために造りたいわけではない。言うまでもなく自分自身で味わうためだ。不死身とも言える身体を手に入れたことは幸運だった、唯一その永遠とも思える悠久の時に足りないものを手に入れたい。
ただしそれを欲するとどうしても実現するためにはまず金が要る。作ったものを売る、売った金で作る、このサイクルへ入るために必要な初期投資とそれを実現する仲間がどうしても必要なのだ。
「────なァ、社名はどうすンだ」
「それについてはもう決めてある。この街を象徴する鶴の紋章からとって"クレインズ"っていうのはどうだろうか」
今は研究室でしかないこの場に集まった四名の従業員と一人の非常勤職員を加えた五名に温められて殻の中で"クレインズ・ウイスキー"はついに胎動を始めたのかもしれなかった。