研究室
「─────ここが最後です。ちなみに、ここだけは自警団が所有している物件です」
コットペル西側の外れ、スペイル河を臨む小高い丘の上にその邸宅はあった。
丘の斜面に拓かれた石造りの階段を上がると、広い庭と納屋を敷地内に含んだ古い木造平屋建ての屋敷が見えてきた。
「いくらなんでも大きすぎやしないか?家賃いくらだ?」
「賃貸物件ではありません。この屋敷は街の中心地からは遠いですし、建物も老朽化が進んできています。前のオーナーはこの物件とは別の場所へ家を建てて住んでまして、税金等の維持費が嵩むということで手放したものになかなか買い手がつかず、何かに使えるかと団が買い取ったわけです」
確かにデールの言う通り老朽化が進んでいるが、時魔法を使える俺には致命的な条件にはならない。
「デール、俺ここにするよ」
「えっ!?」
特に庭に併設された大きな納屋が気に入った。これから小規模ではあるが蒸留器を使ってウイスキー造りの試行錯誤していくとなると、それを居住空間で行うのは少々無理がある。こういったスペースは大歓迎なのだ。
「なんだよ、紹介しておいて」
「いえ、一応空き家のリストにあったので紹介しましたが、屋内は本当に老朽化が進んでいて、人が住むことが出来る状態にするまで大変な手間がかかるのではないかと……」
「大丈夫だ、頑張って綺麗に掃除するよ」
もちろん時魔法を使った原状回復に頼みを置いているのは言うまでもない。
「せ、せめて屋内の様子を確認してからにしてください」
その後、何度か腐った床を踏み抜きつつも屋敷を内見した。いたる所に雨漏りのシミが目立ち、しっとりとした空気に乗って漂うカビ臭さが鼻をついた。置き去りにされた机や棚はすっかり朽ちてスカスカになっている。確かにこれは人が住む空間では無いと俺も思う。ただし、現時点では。
「─────さあ、これでわかったでしょう」
「そうだな。それで、いつから入居出来る?」
「私の話を聞いていましたか!?というか、この惨状を見ても考えを改めないなんてどういうつもりです?」
「どういうつもりもなにも、俺はここに住むことに決めたって言ってるだろ。なるべく早く入居出来ると嬉しいんだが」
「まったくなんなんですかあなたは…………こちらからは何も出来ませんが、現状のままならすぐにでも可能ですが」
*
*
*
*
*
*
*
*
*
*
早速カリラ宅へ戻り、ことの運びを説明した。
「─────ほお、西の廃屋か。なかなかよいところに目をつけたの」
「知ってるのか?」
「うむ、わしがこの街へ越してきた頃は綺麗な屋敷じゃったよ。あそこならば夜な夜な怪しげなことをしていても人の目に止まることはそうないじゃろう」
「怪しいことって……まあ俺もそう思って決めたんだけどさ。すぐそばにスペイル川が流れているのもぴったりの条件だ。もしかしたら蒸留の役に立つかもしれない」
「ほっほ、目が輝いておるな。何かわしに手伝えることがあれば何時でも言うんじゃぞ」爆乳の女は優しい表情になった。
「どうやってこの樽を運ぼうかとおもってたところだ、助かるよ本当に。ここもすぐに片付くからもう少しだけ辛抱して欲しい」
「なあに気にするでない、瑣末事じゃ」
彼女と同じ眼差しの女性を俺は二人知っている。一人はもう生きてはいないが、とても遠いところにいて二度と会えないという点では二人とも同じ。そんな母性がカリラの眼差しには含まれている気がしたのだ。
不意にドアが開く。
「サルか、どこに行ってたんだ?」
「あァ?てめェの道楽のために朝っぱらからそこらじゅうの金物屋を回ってたンじャねェか」と語るサルの肩にはずっしりと重たそうな布袋が背負われていた。
「するとそれは────」
「単式蒸留器の材料だ、まだある」サルは真後ろの荷車に積まれた二つの布袋を顎で指した。
俺が単式蒸留器の材質としてサルにリクエストしたのは"銅"だ。彼が運んできた袋には銅製の調理器具や食器、果ては置物まで含まれていた。
「サル、ウイスキー作りをする場所が決まったんだ」
「ほォ、どこだ?」
「この街の外れの方、この間樽を焼きに行ったあたりの古い屋敷を貸してもらえることになったんだ」
「あァ?あのボロ屋敷か。てめェが住むことによって資産価値が上がりそうな物件だな」
どうやらこの二人は俺がどうするつもりなのかお見通しらしい。
「今度カリラさんに機材の引越しを頼むつもりだ。だけど肝心な蒸留器の方はお前頼みになる、任せたぞ」
「もう設計図は頭ン中に入ってらァ。別に心配してやしねェよ、失敗したってやり直せるんだからよ」耳に小指を突っ込みながらサルは言った。
「そりゃあ頼もしい限りだ」
───────これで全てが揃った。
ウイスキーの素となるペルズブラッド譲りの麦汁、発酵させアルコールを生み出す酵母、それらを原酒へと昇華させる蒸留器とその場所、熟成に必要なナラの木樽、そして熟成を瞬く間に終わらせる時魔法。
しかしそれら全ては量産には程遠い水準であり、未だ就学児の自由研究の域を出ていないのだが、それでも恥じることは無い。後に礼賛されるどんな偉大な行いも、取るに足らない一歩から始まっているのだから。
五日後、カリラが休みの日を待って新居の離れにある納屋の復旧と片付けは行われた。
納屋は木造で、敷地は長方形になっていて、仕切りなどはなく、だだっ広い土の床に幾つか朽ちた農具が転がっているだけ。
気密性は殆どなく軒天井の辺りに隙間が空いていて、外で風が吹けば室内でも空気の流れを感じるほどだった。しかしこれから蒸留を行うにあたって火を起こす必要があり、その排煙においては有利に働きそうだった。
「ほう、存外にさっぱりしているもんじゃな。それにこの建屋だけ妙に老朽化しておらん」納屋の内部を見渡してカリラは言った。
「十年ほど戻しておいたからな」
「やはりか。ならばさっそく運び入れるとしよう」邸宅の庭に仮置きされた荷物にカリラは視線を移す。
「いや、待ってくれカリラさん」
「なんじゃ?いかんのか?」
「その前にひとつお願いがあるんだ、あれを見てくれ」母屋の脇に山になったものを俺は指さした。
「ほっほ、なるほどのう。わしにそれを敷き詰めろというのじゃな?」
「ああ、モルタルも買ってあるんだ。お願いできるかな」
「造作もない」
山積みにされたものは石を成形して作られた板、つまりタイルだった。
これは今日までに俺とサルがここへ運び込んだものである。曲がりなりにも酒を作ろうという場所の床が土では、細菌や微生物、虫害などの被害に遭うかもしれない。それを少しでも無くすための措置だ。
軽く整地しておいた室内の土に念動魔力によってなだらかにモルタルが塗り付けられていく。続いてそこに敷き詰められるタイルが次々と宙を漂い、やがて驚くべき精度で均一に敷き詰められていった。
「─────こんなもんかの」
「いつも思うンだがよォ、あんたが一人いることによって相当な数の業種が職を失いかねねェよ……」とサルは苦笑いをした。
「俺もそう思う」
今日にしてみてもそうだ。俺たちが今していることは引越し業者についでに左官の仕事を頼んでいるようなものなのだから。
「この頃は面が割れてしまって、皆に便利に使われるから大変じゃよ」満更でも無い表情でカリラは言った。
画してウイスキーという概念を生み出す研究室のとしての輪郭は形作られた。